第22話 家族同然
品の良い老婦人
――奥村夫人は、応接間へ通されると、丁寧に頭を下げた。
「朝早くから失礼いたしました」
「どうぞ、お掛けください」
亭主が勧めると、妻も静かに席へ着く。
女中は台所で湯を沸かし、いつも通りに茶を淹れていた。
手が震えることはない。
客が来れば茶を出す。
それは毎日の仕事だった。
盆を持ち、応接間へ入る。
「失礼いたします」
一人ひとりの前へ静かに湯呑を置いていく。
奥村夫人は、その所作を目で追っていた。
音を立てずに歩く足運び。
背筋の伸びた姿勢。
湯呑を置く指先。
茶をこぼさぬように自然と添えられた左手。
どれも長年の躾が滲み出ている。
「ありがとうございます」
女中は深く一礼した。
「失礼いたします」
障子が閉まり、部屋に静けさが戻る。
奥村夫人は茶を一口含み、小さく頷いた。
「なるほど、評判通りのお嬢さんですね」
妻は控えめに微笑む。
「まだまだ未熟でございます」
「いいえ」
奥村夫人は首を横に振った。
「礼儀だけでは、あそこまで自然にはなりません」
「大切に育てられてきたことが、よく分かります」
その言葉を聞くと、亭主は静かに口を開いた。
「……それで、本日はどのようなご用件でしょう」
奥村夫人は一度姿勢を正した。
「実は、お願いがございます。」
「息子の縁談についてです。」
亭主も妻も黙って耳を傾ける。
「先日、町でこちらの女中さんを見かけました」
「以前から評判は耳にしておりましたが、
実際に拝見して、なお一層その印象を強くいたしました」
「もし、まだお相手がお決まりでないのでしたら、
一度、ご縁のお話をさせていただけませんでしょうか」
部屋が静まり返る。
亭主はすぐには答えなかった。
話を聞くだけなら簡単だ。
だが、それは相手に期待を持たせることにもなる。
断るにしても、玄関先で済ませるような話ではなかった。
だからこそ、応接間へ通したのである。
亭主は湯呑を静かに置いた。
「ありがたいお話です。ですが……」
少し間を置く。
「あの子には、まだ早い話でございます」
奥村夫人は静かに頷いた。
「年若いことは承知しております」
「まだ町へ一人で遣いに出したのも、昨日が初めてです」
亭主は苦笑した。
「ようやく外仕事を一件、無事に務め上げたばかりでございます」
「それに、あの子には、まだ覚えることが山ほどあります」
「今は嫁入りより、まず一人前に育てることが先だと考えております」
奥村夫人はなおも穏やかな笑みを崩さない。
「ですが、良いご縁というものは、待ってくれるとは限りません」
亭主は首を横に振った。
「それに、身分も違い過ぎます」
「我が家は商家とは申せ、小さな家です」
「奥村様ほどのお家とは釣り合いません」
奥村夫人は、少し身を乗り出した。
「身分など、私は気にしておりません」
亭主は静かに微笑む。
「ですが、世間は気にいたします」
「本人が肩身の狭い思いをするような縁談は、望んでおりません」
その返答にも、奥村夫人は引き下がらなかった。
「でしたら……」
一度言葉を選び、小さく息をつく。
「正妻でなくとも構いません」
「妾として、お迎えするという形でも」
妻の表情がわずかに固くなる。
亭主は静かに目を閉じ、ゆっくりと首を振った。
「それは、なおさらお受けできません」
声は穏やかだった。
しかし、その口調には揺るぎがなかった。
「私どもは、あの子を奉公人として預かりました」
「ですが、十年という歳月を共に暮らしてまいりました」
「もはや、ただの働き手ではございません」
亭主は庭へ視線を向ける。
洗い場では、水音がかすかに聞こえている。
何も知らない女中が、朝の仕事を続けているのだ。
「あの子がいつか嫁ぐ日が来ることは、承知しております」
「ですが、その時は……」
亭主はゆっくりと言葉を結んだ。
「家族同然に暮らしてきた情があります」
「だからこそ、誰に恥じることのない、
きちんとした形で送り出してやりたいのです」
応接間は再び静まり返った。
奥村夫人は、その言葉を受け止めるように、静かに湯呑へ手を添えた。




