第21話 嫁ぎ先という現実
老婦人は、女中の顔をしばらく見つめていた。
その視線には、品定めをするような露骨さはない。
むしろ、何かを確かめるような穏やかさがあった。
女中は少し戸惑いながらも、丁寧に頭を下げる。
「旦那様をお呼びいたします。」
「ええ、お願い。」
老婦人は静かに頷いた。
女中は廊下を急ぎ、書斎へ向かう。
「旦那様。」
「どうした。」
「お客様でございます。」
亭主は帳面から顔を上げた。
「朝から珍しいな。」
「年配のご婦人で、お名前はまだ……。」
「そうか。」
羽織を整えながら玄関へ向かう。
妻も気配を察し、奥から姿を見せた。
玄関先で老婦人を見るなり、亭主は目を見開いた。
「これは……。」
「ご無沙汰しております。」
老婦人は穏やかに会釈した。
「奥村様。」
亭主は慌てて姿勢を正す。
「このような朝早くに。」
妻も一礼する。
「ようこそお越しくださいました。」
奥村夫人は笑みを浮かべる。
「急に近くまで参りましたものですから、
少し、お顔を見たくなりまして」
応接間へ案内されると、女中はすぐに茶の支度を始めた。
湯を沸かし、茶葉を量り、静かに急須へ注ぐ。
その間も、先ほどの言葉が頭から離れない。
――噂の女中さん。
町でも、家でも。
最近、同じような言葉ばかり耳にする。
(私は……何か変わってしまったのでしょうか)
湯気を見つめながら、答えのない問いを胸に抱えた。
やがて応接間へ茶を運ぶ。
「失礼いたします」
膝をつき、茶托を静かに置いていく。
奥村夫人はその所作をじっと見ていた。
音を立てない足運び。
指先の揃え方。
頭を下げる角度。
一つひとつに無駄がない。
「ありがとう」
「はい」
女中は静かに下がる。
障子が閉まると、奥村夫人は小さく息をついた。
「よく教育されていますね」
妻は微笑む。
「まだまだ未熟でございます」
「いいえ。素直な子ほど、ここまで身につきません」
亭主は黙って茶を口に運ぶ。
奥村夫人は二人を見比べながら続けた。
「実は今日は、ご相談がありまして」
「相談……ですか。」
「ええ。」
奥村夫人は静かに頷く。
「息子が、ようやく店を任される年になりました」
亭主は話の先を察し始める。
「それで?」
「それに合わせて、嫁を迎えようと思っております」
妻の表情がわずかに変わる。
奥村夫人は言葉を選ぶように続けた。
「町で、あなたのお宅の女中さんの評判を耳にしました」
「働き者で、礼儀正しく、気立ても良いと」
亭主の手が止まる。
「……評判に?」
「ええ」
「味噌屋さんも、乾物屋さんも褒めていました」
「昨日、初めて一人でお使いに出た娘さんでしょう」
妻は思わず亭主を見た。
たった一度町へ出ただけで、もう評判になっている。
それほど人の口は早い。
奥村夫人は穏やかな口調のまま言った。
「もし、まだ嫁ぎ先がお決まりでなければ、
一度、お話をさせていただけないかと思いまして」
部屋の空気が静かに止まる。
亭主も妻も、すぐには返事ができなかった。
それは突然訪れた、あまりにも現実的な話だった。
少女が女へ変われば、いつか必ず訪れる日。
頭では分かっていた。
それでも、こんなにも早く、
その日が目の前へ現れるとは思っていなかった。
廊下の奥、台所では何も知らない女中が、湯呑を洗っている。
水音だけが、静かに家の中へ響いていた。




