第20話 広がる噂
夜更け――。
家中が寝静まる頃。
女中は一人、自室の小さな行李を開けていた。
昼間、町で買ってきた品を整理している。
薬種屋の包み。
味噌屋の包み紙。
乾物屋の領収書。
その中から、小さな紙切れがひらりと落ちた。
「あれ……」
拾い上げる。
薬種屋の包み紙の端だった。
墨で書かれた店の名が、少しかすれている。
それを見ているうちに、昼間の出来事が蘇った。
仕事先の男。
「旦那さんは、お前さんを大事にしてるんだな」
女中は静かに首を振る。
「違う……」
誰に言うでもなく呟いた。
旦那様は優しい。
奥様も優しい。
だから安心できる。
それだけのこと。
そう思っている。
そう思っているのに――。
「どうして、あんなことを言われたのだろう」
布団へ腰を下ろす。
自分では何も変わっていないつもりだった。
毎日、掃除をして。
洗濯をして。
食事を作り。
お茶を運ぶ。
それだけだ。
それなのに最近は、奥様にも、
町の人にも、同じようなことを言われる。
――気をつけなさい。
――距離を間違えてはいけない。
――旦那さんは大事にしている。
女中は両手を膝の上で握り締めた。
「私は……」
その先の言葉が見つからない。
分からないからだ。
何が変わったのか。
自分の何が、周りには違って見えるのか。
一方、寝所では妻が灯を消そうとしていた。
亭主はまだ眠っていない。
「あら、起きているの」
「ああ。今日の町の話を考えていた」
妻は布団へ入りながら微笑む。
「心配性ですね」
亭主は苦く笑う。
「昔は違った。どこへ行こうが、何も気にならなかった」
「今は……」
亭主の言葉が止まる。
助け舟を出すように、妻が続きを口にした。
「あの子が、美しくなったから」
「ああ」
亭主は否定しなかった。
静かな沈黙が流れる。
妻も責めるつもりはない。
事実だからだ。
「あなた」
「何だ」
「そのことを、一番苦しんでいるのは、あなたではありませんか?」
亭主は妻を見る。
「女として変わっていくことは、本人が一番戸惑うものです」
「私もそうでした」
妻は天井を見つめた。
「ある日突然、周りの人の目が変わる」
「自分は、何も変わっていないつもりなのに」
「昨日まで子供だったはずなのに」
亭主は静かに耳を傾ける。
「だから、今は、見守ってあげましょう」
「答えを急がずに。」
亭主は小さく頷いた。
「ああ、そうだな。」
--翌朝。
女中はいつもより少し早く起きていた。
箒を持ち、まだ薄暗い庭を掃き始める。
誰も起きていない時間。
この静かな時間が好きだった。
余計なことを考えなくて済むから。
その時。
門の外から、年配の女性の声が聞こえてきた。
「ごめんください」
朝早くの来客だった。
女中は箒を壁へ立て掛け、門へ向かう。
そこには見知らぬ老婦人が立っていた。
品のある身なり。
どこか商家の奥向きを思わせる佇まいだった。
「こちらは、栄山商会の佐藤様のお宅でしょうか。」
「はい。」
「旦那様に、お目に掛かりたいのですが」
女中は深く一礼する。
「旦那様は、まだお支度前でございます。
少々、お待ちいただけますでしょうか」
老婦人は女中の顔をじっと見つめた。
そして、穏やかに微笑む。
「ああ、あなたが……噂の女中さんね」
その一言に、女中は思わず息をのんだ。
町での出来事が、
もう別の誰かの耳にまで届いているのだろうか。
朝の涼しい風が吹き抜ける中、
不安だけが胸の奥で静かに膨らんでいった。




