第17話 家の外へ
ーー 翌朝。
空はよく晴れ、夏の日差しが庭石を白く照らしていた。
女中は縁側に座り、主人の草履を丁寧に拭いている。
布で土を払い、鼻緒を整え、陰へ並べる。
毎日繰り返す仕事。
誰にも気づかれないほど当たり前の仕事だった。
「……よし」
小さく呟き、草履を揃えたその時だった。
「ちょっと、いい?」
妻の声がした。
「はい、奥様」
女中はすぐに立ち上がる。
「今日は町へ買い物に行ってもらいたいの」
女中は少し目を丸くした。
「私が……ですか」
「ええ」
妻は頷く。
「いつまでも家の中だけでは、世間のことが分からないでしょう」
女中はこの家へ来て十年近くになる。
それでも一人で町へ出ることは、ほとんどなかった。
買い物は妻か亭主が済ませることが多く、
女中は留守番を任されるばかりだった。
「少しずつ覚えておきなさい」
「これから先のためにも」
女中は胸の奥が少しだけ弾んだ。
「はい」
妻は小さな風呂敷包みを差し出す。
「味噌屋へ寄って。」
「それから乾物屋。」
「帰りに薬種屋で、この紙を渡せば薬を用意してくれるわ。」
一枚ずつ確認する女中。
「覚えられますか。」
「はい。」
「もし迷ったら、人に聞きなさい。」
「恥ずかしいことではないから。」
女中は深く頭を下げた。
「かしこまりました。」
その様子を、廊下から亭主が見ていた。
「町へ行かせるのか。」
妻は振り返る。
「ええ。」
「もう子供ではありませんもの。」
亭主は少し考え込む。
「……そうだな。」
妻は夫の表情を見逃さなかった。
「心配ですか。」
「少しな。」
亭主は苦笑する。
「世間には、いろいろな人間がいる。」
妻も静かに頷く。
「だから覚えさせるのです。」
「家の中だけでは、生きていけません。」
その言葉に、亭主は返す言葉がなかった。
支度を終えた女中は、草履を履き、風呂敷を抱える。
玄関先で深く一礼した。
「行ってまいります。」
「気をつけて。」
妻が送り出す。
亭主も一歩前へ出た。
「町は人が多い。」
「知らない者に声を掛けられても、立ち止まるな。」
「はい。」
「用が済んだら、真っすぐ帰ってこい。」
「かしこまりました。」
女中はもう一度頭を下げ、門をくぐっていく。
その後ろ姿を、夫婦は並んで見送っていた。
姿が見えなくなると、妻がぽつりと呟く。
「まるで娘を送り出す親みたいですね。」
亭主は少し笑った。
「ああ、そうだな」
だが、その笑みは長く続かなかった。
「……本当に、それだけなら良いのだが。」
思わず漏れた独り言。
妻は静かに夫を見る。
その言葉の意味を、聞き返すことはしなかった。
聞かなくても分かっていたからだ。
夫は、自分自身を恐れている。
そして妻は、その恐れを共有している。
「あなた。」
「何だ。」
「帰ってきたら。」
妻は少しだけ微笑んだ。
「褒めてあげてください。」
亭主は意外そうな顔をする。
「褒める?」
「ええ。」
「初めてのお使いですもの。」
亭主は思わず吹き出した。
「子供じゃあるまいし。」
「でも。」
妻は優しく笑う。
「きっと緊張していますよ。」
その言葉に、亭主も自然と笑みを浮かべる。
「ああ。」
「そうだな。」
二人は門の外をもう一度見つめた。
夏の日差しの中、小さな背中はもう見えない。
しかし、その小さな一歩が、
この家の外の世界と結びつく最初の一歩になることを、
二人はまだ知らなかった。
そして町では、
一人の男が偶然にも女中の姿を見つけ、足を止めることになる。
それは以前、亭主の家で彼女を見かけた仕事仲間の一人だった。
彼は人混みの向こうで目を細め、ゆっくりとその後を追い始めた。




