第16話 三人の約束
その日の夕暮れ。
亭主は町から戻ると、いつものように玄関で草履を脱いだ。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
迎えたのは妻だった。
女中の姿は見えない。
「何かあったか」
長年連れ添った妻の表情から、亭主は何かを察した。
「ええ」
妻は羽織を受け取りながら静かに答える。
「あなたのお仕事先の方が、お二人ほど」
亭主の眉がわずかに動く。
「……来たのか」
「留守だと申し上げましたが、お茶だけでも、と」
亭主は小さく息を吐いた。
「通したのか」
「ええ。私も同席しました」
それを聞いて、亭主は肩の力を少し抜いた。
「そうか」
「あの子……女中は」
「応対をしてくれました」
妻は少し間を置いて続ける。
「少し、怖かったみたいです」
亭主は黙り込んだ。
客たちの顔が脳裏に浮かぶ。
酒の席で向けられていた、あの遠慮のない視線。
冗談めかした言葉。
そのすべてが、今日は自分のいない家へ向けられたのだ。
「……すまない」
ぽつりと漏れた言葉だった。
妻は首を横に振る。
「あなたが謝ることではありません」
「ですが」
「もう、気づかないふりはできませんね」
亭主は静かに頷いた。
「ああ」
夕餉を終えたあと、亭主は縁側へ出た。
昼間の熱がようやく抜け始め、庭を渡る風が心地よい。
虫の声が聞こえ始めていた。
そこへ、洗い物を終えた女中が通りかかる。
「あ……」
女中は足を止めた。
「旦那様」
「終わったのか」
「はい」
「ご苦労だった」
短い会話。
以前なら、それで終わっていただろう。
だが亭主は女中を呼び止めた。
「少し、いいか」
女中は緊張した面持ちで膝をつく。
「はい」
亭主は庭を見たまま口を開いた。
「今日のことは聞いた」
女中は静かに俯く。
「申し訳ございません」
「謝ることではない」
亭主は首を振る。
「怖い思いをさせた」
「……いえ」
「奥様が来てくださいましたから」
その言葉に、亭主は小さく頷く。
「そうか」
しばらく風の音だけが流れる。
やがて亭主は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「これから先も、俺の留守に客が来ることはある」
「だが、無理をして応対する必要はない」
女中は顔を上げた。
「旦那様」
「『主人は留守です』と、それだけ言えばいい」
「家へ上げる必要もない」
女中は驚いたように目を丸くした。
「ですが、お仕事のお客様では……」
「仕事の客なら、なおさらだ」
亭主の声は穏やかだった。
だが、その中には迷いがなかった。
「仕事と家は違う」
「家の中まで、好き勝手に踏み込ませるつもりはない」
女中は静かに頷く。
「……はい」
「奥様にも、同じことを申されました」
亭主は少しだけ笑った。
「そうか」
「考えることは同じらしい」
女中の口元にも、小さな笑みが浮かぶ。
その時だった。
「あなた」
妻がお盆を持って縁側へ現れる。
冷えた麦茶が三つ。
「ちょうど良かったわ」
「少し休みましょう」
亭主は少し驚いた顔をする。
「三つか」
「ええ」
妻は自然な調子で答えた。
「今日は暑かったもの」
「働いた人は皆、一休みです」
女中は慌てて首を振った。
「私は結構です。まだ仕事が……」
「もう終わったでしょう」
妻は優しく微笑む。
「少しだけ座りなさい」
「……はい」
女中は戸惑いながらも、少し距離を取って縁側へ腰を下ろした。
三人の前を、夕風がゆっくりと吹き抜ける。
誰も喋らない。
それでも、不思議と気まずさはなかった。
亭主は湯飲みを手に取り、庭を眺める。
妻はそんな夫を横目に見て、小さく安堵する。
(この距離なら、大丈夫。)
互いに意識し過ぎれば、かえって歪んでしまう。
けれど、何事もなかったように振る舞えば、
また境界は曖昧になる。
だから必要なのは、誰か一人ではなく、
この家にいる三人が同じ線を守ることだった。
その時、門の外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
夕暮れの町は、いつもと変わらない。
しかし、この家の中では、
目には見えない約束が静かに結ばれようとしていた。
それが、これから訪れる大きな出来事の前に残された、
束の間の穏やかな時間だった。




