第14話 嵐の前の静けさ
ーー翌朝。
まだ朝靄の残る庭に、小鳥の声が響いていた。
女中はいつものように井戸で水を汲み、朝餉の支度を始めている。
桶へ水を注ぐ音。
薪が燃える音。
包丁がまな板を叩く音。
この家に流れる朝は、毎日ほとんど変わらない。
だが、変わらない景色の中で、
人の心だけが少しずつ形を変えていた。
朝餉の席。
妻が味噌汁を配り、女中が焼き魚を並べる。
亭主は新聞を畳みながら席についた。
「いただきます」
三人が静かに箸を取る。
誰も昨日のことには触れない。
それが、この家の流儀だった。
女中は膝をついたまま、お櫃から飯をよそう。
「旦那様、おかわりはいかがでしょう」
「……まだいい」
「かしこまりました」
必要な言葉だけを交わす。
以前よりも、どこかよそよそしい。
それは女中自身が意識して距離を置いているからだった。
妻はその様子を横目で見つめていた。
(昨日の言葉を、ちゃんと受け止めたのね。)
少し安心する。
けれど同時に、胸の奥が痛んだ。
素直な子ほど、自分を責める。
叱られた分だけ距離を取り、笑顔まで引っ込めてしまう。
それもまた、望んだことではなかった。
食事を終えた亭主は羽織を着る。
「今日は町へ出る」
「昼過ぎには戻る」
妻が頷く。
「お気をつけて」
女中も深く頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
亭主は二人を見比べ、小さく頷いた。
「ああ、留守を頼む」
そう言い残し、玄関を出ていく。
戸が閉まる音がして、ようやく家の空気が少し緩んだ。
午前。
妻と女中は並んで縁側で洗濯物を畳んでいた。
蝉の声が次第に大きくなっていく。
しばらく無言で手だけが動く。
やがて妻が静かに口を開いた。
「……昨日は、ごめんなさいね」
女中の手が止まる。
「奥様」
「少し言い過ぎたかもしれない」
女中は慌てて首を横に振った。
「そのようなことはございません」
「私が至りませんでした」
「違うの」
妻は穏やかに微笑んだ。
「あなたは何も悪くない」
「悪いわけではないのよ」
女中は困ったような顔をする。
「ですが……」
「女というものはね」
妻は畳んだ手拭いを重ねながら続けた。
「何もしていなくても、
周りが勝手に意味を付けることがあるの」
「意味……ですか」
「ええ」
「笑っただけ」
「心配しただけ」
「親切にしただけ」
「それだけで、人はいろいろ想像してしまう」
女中は黙って聞いていた。
「だから、自分を守るためにも」
「少しだけ距離を覚えるの」
風が吹き抜ける。
洗いたての手拭いが揺れた。
女中はその白い布を見つめながら、小さく呟く。
「難しいです」
妻は思わず笑った。
「そうね」
「私も若い頃は、何度も失敗したわ」
女中が驚いた顔を上げる。
「奥様も……ですか」
「ええ」
「今だから笑えるけれど」
その笑顔は、少し懐かしそうだった。
女中の表情も、ようやく少しだけ柔らかくなる。
その様子を見て、妻は胸を撫で下ろした。
(この子まで苦しめたいわけじゃない)
守りたい。
それは夫だけではない。
この少女もまた、自分が守るべき家族なのだ。
しかし、その穏やかな時間を切り裂くように、
玄関の方から声が響いた。
「ごめんくださーい!」
聞き覚えのある大きな男の声。
亭主の仕事仲間だった。
妻は小さく眉をひそめる。
「今日は、あの人は留守なのだけれど……」
女中は立ち上がる。
「私が応対いたします」
「ええ、お願い」
女中は玄関へ向かう。
妻はその背中を見送りながら、胸騒ぎを覚えていた。
夫がいない家に、あの男たちが何をしに来たのか。
その答えを知るのに、それほど時間はかからなかった。




