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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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12/23

第12話 守るべき信頼

その時――

控えめな足音が響いた。


「旦那様」


女中の声だった。

亭主は慌てて帳面へ視線を戻す。


「……入れ」


障子が静かに開く。


盆には湯気の立つ茶と、小さな菓子皿。

夕方になると必ず運ばれてくる、いつもの仕事だった。


女中は音も立てず部屋へ入り、亭主の傍らへ膝をつく。


「お疲れ様でございます」


「ああ……すまんな」


湯呑を置く仕草にも、以前より無駄がない。

袖が畳を擦る音さえ柔らかい。


「今日は、お客様が多うございましたね」


「ああ」


短い返事。

それ以上、言葉が続かない。


女中も無理に話しかけることはしなかった。

静かな時間だけが流れる。


やがて女中は立ち上がろうとして――


「あ」


小さく声を漏らした。


盆の上に置いてあった茶托が傾き、畳へ落ちそうになる。

亭主は咄嗟に手を伸ばした。


同じ瞬間、女中も手を伸ばす。

そして……二人の手が重なる。


木の茶托を挟んで。

ほんの一瞬。

それだけだった。


「あの……失礼いたしました」


女中は慌てて手を引く。

亭主も何事もなかったように茶托を盆へ戻した。


「気にするな」


「はい」


女中は深く頭を下げる。

だが、部屋を出ようとしても足が止まった。


「……どうした」


「その……」


振り返った女中の表情には、迷いが浮かんでいた。


「奥様に、お叱りを受けました」


亭主の胸がわずかに強張る。


「そうか」


「私が……旦那様の前では気が緩んでいる、と」


沈黙が落ちる。

その言葉を妻が口にした理由を、亭主は痛いほど理解していた。


「……あいつが言うことは正しい」


そう言うしかなかった。

女中は少しだけ寂しそうに笑う。


「はい」


「私も……そう思います」


その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。


「ですが」


女中は小さく続ける。


「旦那様の前ですと……つい、安心してしまうのです」


亭主は言葉を失う。


「叱られることもありますのに」

「失敗しても怒鳴られませんし」

「仕事を覚えられた時も、褒めてくださいました」


女中は少し俯いた。


「だから……気が緩むのでしょうね」


その声に含まれているのは恋慕ではない。

親を慕うような安心。

家族へ向けるような信頼。


だからこそ、亭主の胸は苦しくなった。

少し言葉に詰まる。


「ふむ……それでいい」


ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。


「だが」

「安心することと、距離を間違えることは違う。」


女中は静かに頷く。


「はい」


「俺も気をつける」


その一言に、女中は少しだけ目を見開いた。


「旦那様も……ですか」


「ああ」


亭主は苦く笑う。


「大人の方が、気をつけねばならん」


女中は何か言いかけ、やめた。

代わりに深々と頭を下げる。


「……ありがとうございます」


その姿を見送りながら、亭主は胸の内で呟く。


――違う。


礼を言われるようなことではない。

守るべきなのは、この娘の信頼だ。

それを勘違いした瞬間、この家は壊れる。


その時だった。


障子の向こうを、人影が静かに横切った。

妻だった。

足音は止まらない。


立ち聞きをしていたわけではないのだろう。

だが、その背中は、二人の会話を聞くつもりがなかったようにも見えなかった。


亭主は障子を見つめたまま、小さく息を吐く。

この家にはもう、それぞれが胸に秘めた思いが生まれている。


まだ誰も、それを口にはしない。

だが沈黙は、言葉より雄弁だった。

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