第11話 見えない一線
妻は去っていく女中の背中を、静かに見送っていた。
障子が閉まる音だけが、ひどく大きく耳に残る。
部屋には夕暮れの薄明かりが差し込み、
畳の上に長い影を落としていた。
――困った人。
小さく漏れたその独り言は、夫へ向けたものなのか、
それとも自分自身へ向けたものなのか、
妻にも分からなかった。
夫は昔から、人を拒まない性分だった。
困っている者がいれば手を貸し、
弱い者には自然と情けをかける。
それが彼の美徳であり、この家を支えてきた優しさでもある。
だからこそ、妻は恐れていた。
優しい人ほど、
自分では気づかないまま境界を越えてしまうことがある。
悪意も欲望もないまま、一歩だけ踏み込んでしまう。
その一歩が、取り返しのつかない距離になることを、
妻は女として知っていた。
そして、あの子もまた変わってしまった。
農村から預かったばかりの頃は、まだ幼く、
家事を覚えることに夢中な少女だった。
失敗しては泣きそうな顔をし、
褒められれば花が咲くように笑っていた。
だが今は違う。
髪を結い上げる仕草にも、歩く姿にも、声にも、
少女にはない柔らかな色香が宿り始めている。
本人が気づいているかどうかは関係ない。
それは、隠そうとして隠せるものではなかった。
女という生き物が、否応なく身につけてしまう空気だった。
妻はゆっくりと立ち上がり、縁側へ向かった。
夕風が庭木を揺らし、葉擦れの音が静かに響いている。
その先では、女中が一人、
井戸から汲んだ水で洗濯物をすすいでいた。
桶の中で布が揺れ、水滴が夕日にきらりと光る。
その横顔は真剣で、叱られたことをまだ引きずっているのか、
どこか沈んで見えた。
「……本当に、素直な子」
妻は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
だからこそ心配なのだ。
悪気なく人を信じ、悪気なく笑いかけ、
悪気なく距離を縮めてしまう。
その無防備さは、時に男の心を大きく揺らす。
本人が望まなくても。
妻は障子越しにそっと目を閉じた。
この家を守るのは、自分の役目だ。
夫も。
女中も。
どちらも傷つけたくはない。
だからこそ、自分が線を引かなければならない。
そう強く思う一方で、
胸の奥には拭い切れない不安が残り続けていた。
その頃、亭主は書斎で帳面を広げていた。
筆を持ってはいるものの、視線は数字を追っていない。
客との商談も終わり、家には静かな時間が流れている。
それなのに心だけが落ち着かなかった。
昼間の出来事が、何度も頭をよぎる。
袖が触れたこと。
扇子を渡した時の指先。
縁側で並んで風に当たった時間。
どれも取るに足らない出来事のはずだった。
人に話せば笑われるほど些細なことだ。
だが、その些細な出来事が積み重なるたび、
心のどこかが少しずつ揺らいでいく。
「……馬鹿な」
思わず独り言が漏れる。
娘のようなもの。
何度そう言い聞かせただろう。
その言葉を口にするたび、
かえって自分へ言い訳を重ねているような気がしてならなかった。
もし本当に娘のようにしか思っていないのなら。
こんなにも自分へ言い聞かせる必要など、最初からないのだから。




