第10話 秋の気配
祭りが終わると、町は驚くほど静かになった。
賑わいの名残は、
軒先へ吊るされた提灯がまだ片付けられていないことくらいで、
人々はまた普段の暮らしへ戻っていく。
朝夕の風にも、わずかな変化があった。
真夏には肌へまとわりついていた湿気が少しずつ薄れ、
朝の井戸水は思わず息を呑むほど冷たく感じられる。
季節は、誰にも気づかれぬまま動いていた。
女中は井戸で水を汲みながら、
桶の水面へ映る自分の顔を見つめた。
髪を結い直し、袖をまくる。
毎朝繰り返す仕度。
何も変わってはいない。
そう思おうとする。
だが、鏡の代わりになる水面の中には、幼い頃とは違う自分がいた。
いつからだろう。
子ども扱いされなくなったのは。
いつからだろう。
奥様が、あんな話をするようになったのは。
そして、旦那様が──。
女中は小さく首を振った。
考える必要はない。
今日も仕事がある。
それだけで十分だった。
朝餉を終えると、主人は珍しく庭へ出た。
庭師が剪定を終えた松を眺め、
季節外れに咲いた朝顔へ目を留める。
女中は濡れ縁を雑巾で拭いていた。
二人の間には、五、六歩ほどの距離がある。
以前なら、その距離を意識することはなかった。
今は違う。
近づくこともなく。
離れ過ぎることもなく。
互いが互いの位置を測るように動いている。
主人は、それが滑稽だと思った。
こんなにも広い庭なのに。
なぜ、たった一人との距離ばかり気にしているのだろう。
「朝は涼しくなったな」
思わず口を開く。
女中は雑巾を絞る手を止めた。
「はい。蝉の声も少し減りました」
「そうだな」
それだけの会話。
だが、以前のような自然さが少しだけ戻っていた。
気を遣い続けることにも、人は疲れる。
互いに、そうだった。
その様子を、妻は座敷から見ていた。
会話は短い。
表情も穏やかだ。
何もおかしなところはない。
それでも、妻は思う。
人は「平気なふり」が上手くなる。
心が落ち着いたから笑うのではない。
笑って見せることで、自分を安心させようとすることもある。
それを、妻は知っていた。
昼前。
主人は書斎で筆を走らせていた。
障子の向こうを、女中が静かに通り過ぎる。
足音はしない。
それでも分かる。
この家へ来て十年。
気配だけで、誰が歩いているか分かるようになっていた。
主人は筆を止める。
いつからだろう。
その気配を探すようになったのは。
以前は気にも留めなかった。
家人が歩く音など、暮らしの一部に過ぎない。
今は違う。
近くを通るだけで分かる。
立ち止まれば分かる。
主人は苦く笑う。
「気配が変わる」とは、こういうことなのかもしれない。
変わったのは女中だけではない。
自分のほうだった。
午後、妻は納戸の片付けを始めた。
古い着物や道具を整理していると、小さな箱が出てくる。
中には、主人と結婚した頃の写真が一枚入っていた。
まだ若い二人。
緊張した面持ちで並んでいる。
妻は思わず笑った。
「あの頃は、私も若かったわね」
独り言だった。
そこへ、女中が顔を出す。
「何かお手伝いすることはございますか」
「じゃあ、この箱を押し入れへお願い」
「かしこまりました」
女中が箱を受け取る。
ふと、写真が目に入る。
「旦那様……お若いですね」
妻は微笑んだ。
「そうでしょう」
「奥様も、とてもお綺麗です」
「ありがとう」
その言葉に偽りはなかった。
女中は写真を見つめながら、静かに箱へ戻す。
主人にも、若い頃があった。
妻にも。
二人にも、自分の知らない時間がある。
当たり前のことなのに、その事実が妙に胸へ残った。
夕方。
主人が縁側へ出ると、妻がその写真を持っていた。
「懐かしいものが出てきましたよ」
主人は写真を受け取る。
「ずいぶん昔だな」
「ええ」
二人は笑う。
女中は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
穏やかな夫婦だった。
自分が入り込む余地など、どこにもない。
そんなことは、最初から分かっている。
それなのに。
胸の奥に、小さな痛みが残る。
その痛みの名前を、女中はまだ知らなかった。
秋の風が、庭木を静かに揺らす。
季節は確かに進んでいる。
家の内側でもまた、誰にも見えない何かが、
少しずつ形を変え始めていた。




