第7話「黒鯨号」
この港町全体が、
すでに俺たちを捕らえるための
大きな罠と化していた。
だが、
どれほど絶望的な状況であろうと、
俺たちの前に立つ暗雲を切り開く刃を、
俺は握りしめていた。
雨脚はますます強くなり、
路地の敷石は川のようだった。
オリヴァーはメイヴィスの手を引き、
崩れかけた倉庫の陰から陰へと
走り抜ける。
追手の松明の灯りが、遠く近く、
蛇のように港町を這い回っていた。
「第五埠頭まであと少しだ」
「オリヴァー様……あなた、
本当に王室を出てよろしかったの?
こんな、
命を狙われるような生活になっても」
彼は足を止めず、短く答えた。
「後悔なら、
宮殿にいた頃の方がずっと多かった。
籠の中で飾られているより、
雨に打たれてでも
自分の足で走っている今の方が、
よほど自分らしい」
メイヴィスは何も言わず、
ただ強く彼の手を握り返した。
やがて霧に霞む埠頭の先に、
黒く塗られた船影が見えた。
『黒鯨号』。
船首に立つ初老の船長が、
二人に気づいて片眉を上げる。
「王室の坊やが、
こんな夜更けに何の用だ」
「渡りをつけたい。
追われている、力を貸してくれ」
「金は?」
オリヴァーは懐から、
母の形見である指輪を差し出した。
船長はしばし黙り込み、
やがて低く笑った。
「その覚悟、買ってやろう。乗れ」
背後で怒号が近づく。
二人は雨の中、渡し板を駆け上がった。
『黒鯨号』が静かに埠頭を離れる頃、
港には
松明の灯りだけが虚しく残っていた。
船室の窓から、
オリヴァーはようやく緩んだ
雲の切れ間に月を見た。
その月は、遠い故国の宮殿で、
かつて
母セレスティアが
窓辺から見上げていたのと
同じ月だった。
「何を見ていらっしゃるの?」
メイヴィスが隣に腰を下ろす。
オリヴァーは小さく笑った。
「昔、まだ小さい頃……
喪服を着て一人で廊下を歩いていた俺に、
優しく声をかけてくれた人がいた。
あの人も、
王冠という名の月明かりの下で、
ずっと一人で戦っていたんだと、
今ならわかる」
「その方は今、どちらに?」
「亡くなったよ。
だが俺たちのように、
自分の意志で
生き方を選び直したはずだ」
メイヴィスは
オリヴァーの肩にそっと頭を預けた。
「王冠を捨てても、
あなたは何も失っていませんわ。
むしろ、
これから手に入れるものの方がずっと多い」
雨はいつしか止み、
雲の切れ間から差す月光が、
静かに海面を照らしていた。
故国から遠く離れたこの場所で、
オリヴァーは初めて、
自分自身の物語の主人公になったのだと
感じていた。
追っ手の影はまだ消えていない。
だが今はただ、
この一瞬の静けさと、
隣にいる人の温もりを、
確かめていたかった。
©[I・G・ε]All Right Leserved.
『黒鯨号』が新大陸の港に着いたのは、
それから半月後のことだった。
オリヴァーとメイヴィスは、
身分を隠し、
慈善団体の支援を装って
小さな港町に居を構えた。
だが、……。
明日、18:10 に、第8話を投稿します。




