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第九話 夜の公園の、すれ違う孤独

 その夜、誠司は九時前に帰宅したのに、玄関で十分間立ち尽くした。


 家の中から、テレビの音と、結衣と美紀の声が聞こえてくる。

 何の話をしているのかまではわからないが、笑い声混じりの、楽しそうな空気が伝わってくる。

 中に入れば、その空気に水を差すかもしれない。

 そんなことはない、とわかっている。

 誠司が帰ってきたところで、誰も嫌な顔をしない。

 むしろ「おかえり」と迎えてくれる。

 わかっているのに、足が動かなかった。


 最近、こういう夜がある。

 家に帰りたくないわけじゃない。

 ただ、家の中に入る前の数分間、自分がどこにも属していない気がする時間がある。

 会社では課長で、家では夫であり父である。

 その境目の、誰でもない時間に、なぜか心地よさを感じてしまう自分がいる。

 誠司は鍵を開けずに、踵を返した。

 少しだけ、夜風に当たりたかった。


 誠司


 家から五分の小さな公園に、誠司は足を向けた。

 ブランコが二つと、錆びたジャングルジムがあるだけの公園。

 子どもが遊ぶには小さすぎるし、最近は誰も使っていないように見える。

 誠司もここに来るのは数年ぶりだった。

 昔、翔太がまだ小さかった頃、休日にここで遊ばせたことがある。


 ベンチに腰を下ろして、スマホを取り出した。

 誰かに連絡するつもりはなかった。

 ただ、画面を眺めていた。

 着信履歴を見て、ふと指が止まった。

 真央の名前があった。

 先週、仕事の確認で電話したときの履歴。

 発信ボタンを押した。

 自分でも、なぜ押したのかよくわからなかった。


 三コールで繋がった。

「部長?こんな時間にどうしたんですか」

「いや、特に用はない」

「用がないのに電話したんですか」

「……かもしれない」


 電話の向こうで真央が少し笑った。

「珍しいですね。何かあったんですか」

「何もない。ただ——」誠司は言葉を探した。

「声が聞きたかったのかもしれない」


 言ってしまって、しまった、と思った。

 少しの沈黙があった。

 真央の方からは何も返ってこない。

 誠司は自分の言葉の重さに、今になって気づいた。


「……それは、困りますよ」

 真央の声が、いつもより低かった。

「だな」誠司は言った。

「忘れてくれ」

「忘れません」

「忘れろ」

「無理です。今、すごく困った顔してると思います、私」


 誠司は思わず笑った。

「そっちは今、どこにいるんだ」

「家です。お風呂上がりで、髪乾かしながら出ました」

「悪い、時間に」

「いえ。部長は」

「公園のベンチ」

「こんな時間に?何してるんですか」

「何も。ただ座ってる」

 また少し沈黙があった。

 今度の沈黙は、さっきよりも柔らかかった。


「家、帰りたくないんですか」

 真央の問いに、誠司はすぐに答えられなかった。

「そういうわけじゃない」

「じゃあ、なんですか」

「……わからない」

 正直に答えた。

 自分でもわからないことを、わからないと言うしかなかった。


 翔太


 誠司が腰を下ろしたベンチから、十メートルほど離れた別のベンチに、翔太がいた。

 学校帰り、いつもの公園に寄った後、もう少しだけ一人でいたい気分になって、別のベンチに移動していた。

 スマホでさっきまで検索していた言葉を、もう一度開いていた。

「不登校 どうしたらいい」

 検索結果には、いろいろなサイトが並んでいた。

「無理に行かせなくていい」

「焦らないで」

「子どもの話を聞いてあげましょう」——タイトルだけを眺めて、どれも開かなかった。

 読んだところで、自分が「不登校」というカテゴリーに当てはまるのかどうかも、翔太にはよくわからなかった。


 学校には行っている。

 毎日、行っている。

 行きたくない、と思う日はあるけれど、行っている。

 それは不登校じゃない、と思う。

 でも検索窓に打ち込んだのは、自分でも理由がわからなかった。


 画面を閉じて、空を見上げた。

 街灯のせいで星はほとんど見えない。

 それでも、見上げると少し落ち着く気がした。

 ふと、近くで誰かの話す声がした。

 翔太は顔を向けた。

 十メートルほど先のベンチに、誰かが座っている。

 スーツ姿の、中年の男性。

 お父さんだ、と気づくまで、数秒かかった。


 驚いて、声をかけようとした。

 でも、誠司は電話をしていた。

 誰かと話している。

 声の調子が——いつも家で聞く声とは少し違っていた。

 低くて、何かを探っているような、迷っているような声だった。


 翔太は声をかけるのをやめた。

 なんとなく、邪魔をしてはいけない気がした。

 誠司の方は、こちらに気づいていない。

 翔太はスマホをポケットに入れて、静かにベンチから立ち上がった。

 お父さんの背中を一度だけ見た。

 少し、いつもより小さく見えた気がした。

 家にいるときの背中とは違う、何かを抱えているような背中に見えた。

 声をかけずに、公園の出口に向かった。


 誠司


「部長」

 真央が言った。

「なんだ」

「家に帰ってください。当たり前のことしか言えませんけど」

 誠司は黙った。

「家族、待ってますよ。たぶん」

「たぶん、か」

「待ってるかどうかは、私にはわかりません。でも、待ってないとしても、帰る場所があるってだけで、十分なことだと思います」

 その言葉が、誠司の中に少し長く残った。


「……お前は、どうなんだ」

「私は一人なので。帰っても誰もいないですけど、それはそれで気楽です」

「気楽、か」

「気楽じゃないときも、ありますけどね」

 電話の向こうで、真央が小さく笑った。

 少し寂しそうな笑い方だった。

 誠司にはそれがわかった気がした。


「悪かった、変な時間に電話して」

「いえ。たまには、いいんじゃないですか」

「次は、ない方がいいかもしれないな」

 自分でもなぜそう言ったのかわからなかった。

 でも言ってしまうと、少し肩が軽くなった気がした。

「そうですね」真央は静かに言った。

「次はない方が、いいと思います」


 二人とも、それ以上は何も言わなかった。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 電話が切れた。

 誠司はスマホをポケットに入れて、ベンチから立ち上がった。

 帰ろう、と思った。


 翔太


 翔太が家に着いたのは、誠司より少し早かった。

 玄関を開けると、美紀が台所からこちらを見た。

「あら、遅かったね」

「公園でちょっと休んでた」

「そう。お父さん、まだ帰ってないけど、もうすぐかな」

 翔太は何も言わなかった。

 公園で見たお父さんの背中のことは、言わなかった。


 自分でもなぜ言わないのか、よくわからなかった。

 ただ、あの背中を誰かに説明する言葉が見つからなかった。

 それに、見てはいけないものを見てしまった気もしていた。

「ご飯、もうすぐできるよ」

「うん」


 翔太は階段を上がって、部屋に入った。

 ベッドに座って、スマホをもう一度開いた。

「不登校 どうしたらいい」

 その検索履歴を、しばらく見つめた。

 削除しようかと思った。

 でも、しなかった。


 誠司が家に着いたのは、それから十五分後だった。

「ただいま」

「おかえり、遅かったね」

「ちょっと、外の空気が気持ちよくて、回り道した」

 美紀はそれ以上聞かなかった。

 誠司は靴を脱いで、リビングに入った。

 翔太の部屋の電気がついているのが、階段の下から見えた。


「翔太、もう帰ってるのか」

「うん、さっき。公園で休んでたって」

 公園、という言葉に、誠司の足が一瞬止まった。


 まさか、とは思わなかった。

 同じ公園だとしても、気づかれていないなら気づかれていない。

 それだけのことだ。

 でも、なぜか少しだけ、落ち着かない気持ちが残った。


「ご飯、まだなら温めるよ」

「いや、いい。さっき真央——いや、部下と話してたら、なんか食欲なくなった」

 言ってから、しまったと思った。

「部下と話してたって、こんな時間に?」

「仕事の確認。たまにあるんだ」

 美紀は特に深く突っ込まなかった。

「そう。じゃあお風呂、入ってきたら」

「ああ」

 誠司は階段の方を見上げた。

 翔太の部屋の電気は、まだついていた。


 二つの孤独が、同じ夜の公園ですれ違っていたことを、誠司はまだ知らない。

 翔太も、それが何を意味するのか、まだわかっていない。

 ただ、家の中に、それぞれの夜が静かに積み重なっていった。

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