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第十話 お姉ちゃんは、今日負けた

 田中結衣は、その日の昼休みに決めた。


 もう、見ているだけでは終わらせない。

 二週間、翔太の通学路を後ろから歩いてきた。

 靴箱の前で立ち尽くす背中も見た。

 ノートの名前を消されたことも、たぶん見ていないところで何かされていることも、結衣にはもう疑う余地がなかった。

 でも、何もできなかった。

 親に言うべきか、翔太に直接聞くべきか、ずっと迷っているうちに何もしないまま二週間が過ぎた。

 迷っているだけの自分に、結衣はそろそろ嫌気が差していた。

 せめて、何か一つでもできることをしよう。

 そう決めて、結衣は弁当を食べ終えると一人で席を立った。


 結衣の高校と翔太の中学校は、同じ学区内にある。

 電車を一本乗れば、放課後の十五分の隙間で行き来できる距離。

 今日は午後の授業がなく、結衣は早退届を出して翔太の中学に向かった。


 正門の前で、下校してくる生徒たちの中に、見覚えのある顔を見つけた。

 背の高い男子。

 輪の中心にいつもいる男子。

 名前は知らないが、靴箱の前で翔太を見ていた一人だということは、結衣の記憶に焼きついていた。


 結衣は彼の前に立った。

「なんか用?」

 男子は怪訝な顔をした。

 結衣を品定めするような目つきで上から下まで見て、それから少し笑った。

「あんた誰?」

「田中翔太の姉です」

 その瞬間、男子の顔つきが変わった。

 少しだけ、面倒くさそうな色が浮かんだ。


「……翔太のこと」

 結衣は言葉を選びながら、続けた。

「やめてほしい」


 男子は数秒、結衣を見つめた。

 それから、隣にいた友人と目を合わせて、ふっと笑った。

「は?あんたの弟、きもくない?」

 結衣は息を止めた。

「いつもなんか一人でブツブツ言ってるし、本ばっか読んでるし。話しかけても反応薄いし。別に何もしてないけど」

「靴箱で、上靴隠してたよね」

「は?知らない、誰のこと言ってんの」

「見てた」

「見間違いじゃない?」


 男子は笑いながら言った。

 悪びれた様子は微塵もない。

 むしろ結衣の方が変なことを言っているような、そういう空気を作るのが上手かった。

「なんもしてないって。あいつが勝手に被害者ぶってるだけじゃない?」

 被害者ぶっている。

 その言葉が、結衣の中で何かを焼いた。

「翔太は、被害者ぶってなんかいない」


 声が震えた。

 それが悔しかった。

 もっと強く言いたかったのに、声が震えてしまったことが悔しかった。


「翔太は、誰にも言わないように、ずっと笑顔作って我慢してる。被害者ぶってるんじゃなくて、誰にも迷惑かけないようにしてるだけ」

 男子は少し白けた顔をした。

「知らないし。証拠もないのに、勝手に決めつけないでくれる?」

 証拠。

 結衣には何もなかった。

 見た、という事実だけでは証拠にならない。

 それは結衣自身もわかっていた。


「お姉さんも大変だね、こんなことしてまで弟かばって」

 男子はそう言って、友人と一緒に歩き出した。

「あんたが何言おうと、変わらないと思うけど」

 背中が遠ざかっていく。

 結衣はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。

 言いたいことは、まだ山ほどあった。

 でも、言葉が出てこなかった。

 出てこないまま、相手はもう校門を出ていった。


 結衣は校門の前で、しばらく立っていた。

 撃退できなかった。

 そう思うと、悔しさより先に、自分の無力さがじわじわと胸に染みた。


 正論を言ったつもりだった。

 証拠もないまま言ったから、最初から分が悪いとはわかっていた。

 でも、それでも、何かが変わると思っていた。

 少なくとも、相手が少しでも気にしてくれると思っていた。

 実際は、「勝手に決めつけないで」の一言で終わった。


 結衣は駅まで歩く間、ずっとそのやり取りを頭の中で再生した。

 もっと違う言い方があったはず。

 もっと強く出るべきだった。

 先生に言うと脅すべきだったかもしれない。

 でも、脅して何になる。

 相手は「証拠がない」と言うだけだろう。

 それは事実なのだから。

 結局、自分は何もできなかった。

 ただ翔太の代わりに怒りに来て、何も出来ずに帰る、ということしか。


 家に帰ると、誰もいなかった。

 美紀はパートに出ている時間で、翔太はまだバスケ部の練習中、誠司はもちろん仕事。

 結衣は誰もいない家に「ただいま」と言って、二階の自分の部屋に入った。


 机の上に、受験参考書が積まれている。

 文学部志望、と決めて買い集めたものだが、本当の志望をまだ親に言っていない。

 今は理系の問題集と文系の参考書、両方をこなしている。

 二重の負担。


 結衣は文学部の現代文の問題集を開いた。

 文字を目で追う。

 一文を読んで、もう一度読む。

 何が書かれているのか、さっぱり頭に入ってこない。


 さっきの男子の声が、まだ耳の奥に残っている。

「あんたの弟、きもくない?」

「証拠もないのに、勝手に決めつけないでくれる?」

 結衣はシャープペンを握ったまま、問題集の同じページを十分間見ていた。


 夕食後、結衣は自分の部屋に戻って、机に向かったまま、深夜まで動かなかった。

 十一時を過ぎた頃、もう一度問題集を開いたが、何も頭に入らなかった。

 文字が文字として見えるだけで、意味が滑り落ちていく。

 これでは進まない、と思いながら、それでもページをめくる手だけは動かしていた。


 ふと、スマホが目に入った。

 受験仲間の友人、佐々木美里の名前が画面の連絡先リストにある。

 同じ予備校の自習室で何度も顔を合わせる友人で、お互いの志望校の話を時々する仲。


 結衣は深夜にメッセージを送ったことが、これまで一度もなかった。

 律儀に「常識的な時間に連絡する」というルールを自分に課していたタイプ。

 でも、今夜は指が止まらなかった。

「起きてる?」

 送って三分後、返信が来た。

「起きてるよ、過去問やってた。どした?」


 結衣は電話のボタンを押した。

「もしもし」

「結衣?こんな時間に珍しいじゃん」

 声を聞いた瞬間、結衣の中で何かが緩んだ。

「ちょっと、聞いてほしいことがあって」

「うん、なに」


 結衣は今日のことを話した。

 翔太のこと、靴箱のこと、二週間続けた尾行のこと、今日対峙した男子のこと。

 話しているうちに、声が震えてきた。

「……言い返せなかった。証拠もないのに決めつけるなって言われて、何も言えなかった」

 美里は黙って聞いていた。

「翔太、ずっと笑ってるの。家でも、楽しかったって毎日言ってる。でも本当はずっと、誰にも言えないままなんだと思う。私が見たことだって、本人には言ってない。言ったら、もっと隠されるかもしれないから」

 声が止まらなくなった。


「私、なんで泣いてるんだろ」

 自分でも驚いた。

 涙が出ていることに、声を出してから気づいた。

「翔太のことなのに、私が泣いてどうするんだろ。私が泣く必要なんてないのに」

 美里が、少し間を置いて言った。


「……お姉ちゃんじゃないの、たまには」

 結衣は息を止めた。

「いつもお姉ちゃんでいなきゃって思ってるんでしょ。翔太の前でも、お父さんお母さんの前でも。でも今は誰も見てないし、私しかいないから。たまには結衣だけで泣いていいんじゃない」

 その言葉が、結衣の中に静かに落ちた。


 声を殺して泣いた。

 枕に顔を押し付けて、声が外に漏れないように気をつけながら。

 十八年間、誰かの前でこんなに泣いたことはなかった。

 受験のストレスでも、友人関係の悩みでも、ここまで泣いたことはなかった。


「ごめん、こんな時間に」

「いいよ。私も今日、過去問三十点だったから、お互い様」

 美里が冗談めかして言うと、結衣は涙混じりに少し笑った。

「明日も学校だし、もう休も。でも、結衣がちゃんと動いたのはすごいと思うよ。私だったら見てるだけで終わってたかも」

「動いても、何も変わらなかった」

「変わらなくても、動いたことは無駄じゃないよ」

 結衣は何も言えなかった。

 ただ、涙を拭きながら「ありがとう」と言った。


 電話を切った後、結衣はベッドに横になった。

 天井を見上げながら、今日一日のことを思い返した。

 男子に言い返せなかったこと、参考書が読めなかったこと、深夜に泣いたこと。


 今日、結衣は負けた。

 正面から立ち向かって、何も変えられなかった。

 証拠がない、決めつけるな、と言われて終わった。

 でも——美里の言葉が、まだ胸の中にあった。

 動いたことは無駄じゃない。

 無駄じゃない、のかどうかは結衣にはまだわからない。

 ただ、何もしなかった二週間より、今日動いたことの方が、少しだけ自分らしい気がした。


 窓の外に、月が見えた。

 結衣は目を閉じた。

 明日も、何かしようと思った。

 何をすればいいかは、まだわからないけれど。

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