第十一話 『お腹が痛い』という正直な嘘
その朝、翔太は布団から出られなかった。
七時十分。
いつもならもう着替えを終えている時間。
アラームは七時に鳴って、いつも通り止めた。
でも、そこから先に進めなかった。
布団の中で天井を見ていた。
今日も三秒で顔を作って、階段を降りればいい。
いつものことだ。
わかっている。
それなのに、体が動かなかった。
頭が、重い。
胃のあたりが、変な感じ。
痛いような、痛くないような、なんと言えばいいのかわからない感覚が、お腹の底にずっとある。
七時十五分。
階下から美紀の声が聞こえた。
「翔太ー、もう七時十五分よ、起きてる?」
「……うん」
返事はしたが、起き上がれなかった。
七時二十分、美紀が二階に上がってきた。
「翔太、何してるの。学校遅れるよ」
ドアを開けて、布団に包まったままの翔太を見つけた美紀の眉間に、皺が寄った。
「ちょっと、起きなさいって」
「……お腹痛い」
翔太は布団の中から、くぐもった声で言った。
美紀はベッドの脇にしゃがみ込んで、翔太の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど。本当にお腹痛いの?」
「うん……ちょっと」
ちょっと。
その言い方が、なぜか美紀には引っかかった。
痛いなら痛いと言えばいい。
ちょっと、という曖昧な言い方が、何かを濁している気がした。
でも、それを深く考える時間は今の美紀にはなかった。
今日はパートのシフトが朝からで、結衣も塾の朝講習があって、家を出る時間がそれぞれ決まっている。
「気合いで行きなさい、中三でしょ」
美紀の口から、思ったより強い言葉が出た。
「実力テストもあるんでしょ、今日。休んだら受けられないじゃない」
翔太は布団の中で、何も言わなかった。
ちょうどそのとき、誠司が部屋の入り口に立っていた。
出勤前、ネクタイを締め終えたところで、美紀の声が聞こえてここまで上がってきた。
「ちょっと待て」
誠司が言った。
美紀が振り返った。
「何」
「お腹痛いって言ってるなら、休ませた方がいいんじゃないか」
美紀は一瞬、言葉を失ったような顔をした。
「テストがあるのよ。休んだら後で受け直すの面倒だし、それに——」
「それは違うだろ」
誠司が、美紀の言葉を遮った。
部屋の中が、一瞬静まった。
美紀は、誠司の顔を見た。
誠司がこんな言い方をしたのは、ここ数年で初めてのことだった。
いつも美紀の判断に「ああ」「そうか」「わかった」とだけ言って合わせてきた誠司が、今、正面から「それは違う」と言った。
「……何が違うの」
美紀の声が、少し硬くなった。
「お腹が痛いって本人が言ってるんだ。テストより、まず体調を見るべきだろ」
「私だって心配してるわよ。でも、こういうのって——」
美紀は言葉を選んだ。
「中学生って、ちょっとした不安で体調不良になることもあるし、休ませすぎるとそれが癖になることもあるって聞くし」
「癖になるとか、そういう話じゃないだろ」
誠司の声が、少し大きくなった。
「翔太がここまで言うのは、よっぽどのことかもしれないだろ」
美紀は黙った。
「よっぽどのこと、って何よ」
「……わからない。でも、何かあるのかもしれない」
美紀は誠司の顔を見つめた。
いつもなら、ここで誠司は「お前の判断でいい」と言って引く。
子どものことは美紀に任せる、というのが二人の暗黙のルールだった。
十六年間、それでやってきた。
それなのに、今日は引かなかった。
「……あなた、何か知ってるの」
美紀が聞いた。
誠司は、すぐに答えなかった。
何かを知っているわけではなかった。
確証はない。
ただ、あの雨の夜、翔太が「濡れた」とだけ言った日のことが、ずっと頭の隅に引っかかっていた。
「濡れた」という一言の重さが、今日の「お腹が痛い」と、どこかで繋がっている気がした。
「知ってるわけじゃない。ただ、最近の翔太が、何か——いつもと違う気がする」
「いつもと違う?」美紀の声が、わずかに上がった。
「はっきり言って。何が違うの」
誠司は答えられなかった。
具体的に説明できることが、何もなかった。
「楽しかった」という言葉が多すぎる、という違和感も、雨の日の「濡れた」という一言も、どれも誠司の中で言葉になっていなかった。
今、初めて言葉にしようとして、うまく出てこなかった。
「……わからない。具体的には言えない。でも」
「具体的に言えないのに、私のやり方が違うって言うの」
美紀の声が震えていた。
怒っているのか、傷ついているのか、誠司にはすぐに判断がつかなかった。
「私だって、毎日見てるわよ。あなたより長く、毎日翔太を見てる。あなたが気づいてないことだって、私はちゃんと——」
美紀の声が、そこで止まった。
自分が今言おうとした言葉に、自分で気づいたようだった。
「私はちゃんと見てる」と言いかけて、本当にそうだろうか、という疑いが一瞬、美紀の中を通り過ぎた。
見ていたつもりだった。
GPSで居場所を確認することに必死で、翔太の「楽しかった」を毎日そのまま受け取っていた自分が、本当に翔太をちゃんと見ていたのだろうか。
その疑いを、美紀はすぐに打ち消した。
今はそんなことを考える場面じゃない。
翔太
布団の中で、翔太は二人の声を聞いていた。
お父さんとお母さんが、自分のことで言い合っている。
こんなことは初めてだった。
いつも穏やかで、お互いを否定しない夫婦だった。
それが今、自分のせいで——。
俺のせいだ。
翔太は布団を頭の上まで引き上げた。
お腹が痛い、と言ったのは本当だった。
嘘じゃない。
でも、何の病気でもないこともわかっていた。
緊張すると、最近お腹が痛くなる。
今朝、学校に行くことを考えただけで、胸のあたりがぎゅっと締まって、それが胃まで伝わってくる感覚があった。
これは、嘘じゃない。
でも、本当のことでもない。
お腹が痛い、というのは正直な言葉だ。
ただ、その正直さの裏に何があるのかを、翔太自身もまだはっきり言葉にできない。
それを言葉にしてしまったら、もっと大変なことになる気がする。
お父さんとお母さんが今、言い合っていることが、もっと大きくなる気がする。
だから、これでいい。
「お腹が痛い」というだけで、いい。
それ以上は、言わない方がいい。
廊下に出てきた結衣が、両親の声を聞いて足を止めた。
「……何の話?」
美紀と誠司が、同時に結衣を見た。
「翔太がお腹痛いって言ってて、休ませるかどうかで——」美紀が説明した。
「休ませてあげなよ」
結衣が、即答した。
「お腹痛いって言ってるのに、無理に行かせる方がおかしいでしょ」
美紀が結衣を見た。
「あんたまで、何も知らないくせに」
「知らないけど」結衣は美紀の目を見て言った。
「翔太がそう言うのには、何かあるんだと思う」
美紀は、結衣の言い方に違和感を覚えた。
「何かある」という言い方が、なんだか確信めいて聞こえた。
結衣は何かを知っているのだろうか。
「結衣、あんた何か知ってるの」
結衣は、一瞬迷った。
ここで全部話してしまえば、両親はすぐに動くだろう。
先生に連絡する、相手の親に抗議する、そういう方向に一気に進むかもしれない。
でも、翔太がそれを望んでいるかどうかは、結衣にはわからなかった。
「……知らない。でも、休ませてあげた方がいいと思う」
結衣は、今はそれだけしか言えなかった。
結局、その日、翔太は学校を休んだ。
誠司が「俺は午後から出勤する」と言って、急に予定を変更した。
美紀は何も言わなかった。
出かける時間が迫っていて、これ以上議論する余裕がなかった。
「行ってきます」
美紀と結衣が、それぞれ出かけていった。
家の中に、誠司と翔太だけが残った。
誠司は翔太の部屋のドアを、軽くノックした。
「入るぞ」
布団から、翔太が顔だけ出した。
「……お父さん、仕事は」
「午後からにした」
翔太は驚いた顔をした。
お父さんが自分のために仕事の予定を変えたのは、記憶にある限り初めてだった。
「お腹、まだ痛いか」
「……ちょっと」
「学校、何かあるのか」
翔太は、布団の端を握った。
「……特に、ない」
誠司は、その「特にない」を、しばらく見つめた。
信じていいのか、信じない方がいいのか、自分でもわからなかった。
「そうか」
それ以上、誠司は聞かなかった。
聞いて、翔太を追い詰めることになるのが怖かった。
今、何かを言わせようとして、翔太がもっと固く閉じてしまったら、それこそ取り返しがつかない気がした。
「ゆっくり休んでろ。何かあったら呼べ」
誠司は部屋を出た。
ドアを閉める前に、一度だけ振り返った。
翔太は布団の中で、また天井を見ていた。
夜、美紀が帰ってくると、家の中は静かだった。
翔太はもう自分の部屋にいた。
夕方には熱もなく、お腹の痛みも引いたと言って、夕食も普通に食べていた。
美紀と誠司が、リビングで二人になったとき、美紀が口を開いた。
「今朝のこと、ごめん」
誠司は驚いた顔をした。
「いや、俺の方が——急に大きい声出して」
「ううん」美紀は首を振った。
「あなたが言ったこと、たぶん正しかった。私、テストのことばっかり考えてた」
誠司は何も言わなかった。
「ただ」
「あなたが急に、ああいうこと言うから、びっくりした。いつもは私に任せてくれるのに」
「悪かった」
「いいの。でも——」
美紀は少し迷ってから言った。
「何か、知ってるの?翔太のこと」
誠司は、しばらく黒い画面のテレビを見つめた。
「具体的には、何も。ただ、最近の翔太を見てて、なんか——」
言葉が、また途切れた。
「うまく言えないんだ。でも、何かあるような」
美紀は、しばらく黙っていた。
「私も、同じこと思ってた」
小さく、美紀が言った。
「最近、楽しかったって言う回数が、多すぎる気がしてた。でも、考えるのが怖くて、考えないようにしてた」
二人は、それ以上何も言わなかった。
リビングの静けさの中に、今日初めてできた小さな亀裂と、それと同じ場所にできた小さな繋がりが、同時に存在していた。
夫婦の十六年間で、初めて二人とも、同じ不安を、同じ夜に、はっきりと認めた夜だった。




