表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/25

第十二話 真央の、誰にも言えない夜

 その夜、石川真央は仕事帰りにスマホの着信履歴を見て、足を止めた。


 見覚えのある番号が、一件。

 登録していない番号だったが、真央には誰からかすぐにわかった。

 山本。

 電話番号を変えていないことが、こんな形で自分に戻ってくるとは思っていなかった。

 着信時刻は、午後三時十二分。

 会議中だった時間。

 出ていない。

 真央は駅のホームのベンチに座り込んだ。

 電車が二本、目の前を通り過ぎていった。

 乗らなかった。


 マンションに帰っても、その着信のことが頭から離れなかった。

 離婚してから二年。

 山本からの連絡は、これが初めてだった。

 離婚の際、必要な手続き以外で連絡を取らないという約束は、特に文書にしたわけではないが、暗黙のうちにそうなっていた。

 山本もそれを守っていたはずだった。

 それが今、なぜ。


 真央はソファに座って、スマホをテーブルに置いた。

 画面を見つめる。着信履歴の「山本賢一」という名前——いや、登録は消してあるから、ただの電話番号だ。

 それでも、真央の記憶はその番号を完全に覚えていた。

 折り返すべきか。

 用件は何だろう。

 離婚の手続きで何か問題があったのか。

 それとも、まったく別の用件か。

 あるいは——もしかしたら、何か言いたいことがあって、それで。

 真央は自分の中で、いくつもの想像が浮かぶことに気づいて、嫌になった。

 二年経って、まだこんなふうに想像してしまう自分が、嫌だった。


 離婚してすぐの頃、真央は毎日のように山本の影を感じていた。

 電車の中で似た背格好の男性を見かけるだけで、心臓が跳ねた。

 低い声を聞くだけで、体が硬くなった。

 怒鳴られたことは数えるほどしかなかったのに、その数回の記憶が、何百回もの普通の日々を塗り替えてしまうくらい強く残っていた。


 カウンセリングに通ったこともある。

 三回ほど。仕事が忙しくなって、足が遠のいた。

 本当は仕事のせいじゃなく、自分の中の何かが「もう大丈夫」と思い込みたかったからかもしれない。


 一年が経つ頃には、電車の中で似た背格好を見ても、心臓はそれほど跳ねなくなった。

 低い声を聞いても、体は硬直しなくなった。

 治った、と思っていた。

 でも、こうして一本の着信履歴を見るだけで、自分の中の何かが、また簡単に揺らぐ。

 治ったというのは、思い込みだったのかもしれない。


 気を紛らわせるために、真央は手帳を取り出した。

 仕事用の手帳とは別に、誰にも見せない私用の手帳がある。

 日記というほどでもない、思いついたことをただ書き留めるためのノート。


 ペンを取って、何かを書こうとした。

「今日、部長が——」

 そこまで書いて、ペンが止まった。

 今日、誠司が何をしたか。

 特別なことは何もなかった。

 いつも通り、ラーメン屋で他愛もない話をして、いつも通り「ありがとう」と言われて、いつも通り少し後ろを歩いて帰った。

 それを、なぜ書こうとしたのか。


 真央はペンを置いて、自分の書いた一文を見つめた。

「今日、部長が——」

 この続きを書いたら、何になるのだろう。

 好きだ、と書くつもりだったのか。

 それとも、安心する、と書くつもりだったのか。

 自分でもわからなかった。


 真央はノートを閉じた。

「私が欲しいのはこの人じゃない。この人の家族が持っている、あの空気」

 自分でそう結論づけてから、もう何度目だろう、と思った。

 何度も同じ結論に行き着いては、何度も同じ場所で止まっている。


 時計の針が、十時を回った。

 真央はスマホを再び手に取った。

 着信履歴がまだそこにあった。

 折り返すかどうかを、まだ決められていなかった。


 折り返したら、また山本の声を聞くことになる。

 あの低い声。

 一言一言を区切るような、ゆっくりとした話し方。

「お前は本当に気が利かないな」という最後の言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 折り返さなければ、何も起きない。

 ただ、用件が何だったのかも、わからないままになる。


 真央は番号を見たまま、指を画面の上で何度も迷わせた。

 発信ボタンの上に指を置いて、離して、またもどして。

 ふと、自分の手が震えていることに気づいた。

 これだ、と思った。

 治った、と思っていたものが、まだ治っていない証拠が、今、ここにある。


 真央は番号を長押しした。

「この番号をブロック」

 画面に表示された選択肢を、しばらく見つめた。

 ブロックすれば、もう連絡は来ない。

 用件が何だったのかは、永遠にわからなくなる。

 それでいいのか、と自分に問いかけた。


 いい。

 真央は決めた。

 用件を知ることに、もう価値はない。

 山本が何を言おうとしていたのか、知らなくていい。

 知る必要がない。

 知ったところで、自分の人生に何かいいことが起きるわけじゃない。


 指が震えたまま、ボタンを押した。

「ブロックしました」

 画面に表示された短いメッセージを、真央は何度も見返した。

 終わった。

 そう思った瞬間、涙が出た。

 自分でも驚いた。

 泣くつもりはなかった。

 ただボタンを押しただけ。

 それなのに、目から涙が溢れて、止まらなかった。

 悲しいのか、安堵なのか、自分でもわからなかった。


 四年間の結婚生活と、二年間のひとりの時間。

 その全部が、今この一つのボタンで、本当に終わった気がした。

 終わったことを悲しんでいるのか、終わったことに安堵しているのか、その境目が真央にはわからなかった。

 たぶん、両方なのだろう。

 両方であることが、許される気がした。


 真央はソファに横になって、しばらく泣いた。

 声を出さずに泣いた。

 誰もいない部屋で、声を抑える必要もないのに、それでも声を出さなかった。

 四年間、声を抑えることに慣れてしまった体が、今もその通りに動いていた。


 泣きながら、真央は自分の中の何かが少しずつ軽くなっていくのを感じた。

 着信が一件あっただけで、あれほど動揺した自分。

 手が震えるほど怖かった自分。

 それでも、ブロックボタンを押せた自分。


 二年前の自分なら、折り返していたかもしれない。

 何を言われるかわからないまま、また謝る準備をして、電話に出ていたかもしれない。

 今の自分は、ブロックを選んだ。

 それが、進歩なのかどうかは、真央にもわからなかった。

 ただ、何かが確実に変わっている、という感覚だけはあった。


 翌朝、出社した真央は、いつもより少し早めにデスクに着いた。

 誠司が朝礼の準備をしていた。

「おはようございます」

「おはよう。今日も早いな」

 真央はパソコンを立ち上げながら、少し迷ってから言った。


「部長」

「ん?」

「奥さんのこと、大事にしてくださいね」

 誠司は、画面から顔を上げた。

「……なんで急に」


 真央は、すぐには答えられなかった。

 昨夜のことを、誠司に話すつもりはなかった。

 山本のこと、ブロックしたこと、涙が止まらなかったこと。

 それは誰にも話さない。

 自分一人だけのもの。


 ただ、誠司に伝えたかったことが、一つだけあった。

「なんとなく、です」

 真央は笑って言った。

「家族がいる人は、ちゃんと大事にした方がいいと思って」

 誠司は、少し戸惑った顔をした。

「お前、変なこと言うな」

「そうですか?」

「ああ。でも——」誠司は少し考えてから言った。

「まあ、そうだな。気をつける」

 それだけの会話だった。

 真央はパソコンの画面に向き直って、今日のスケジュールを確認した。

 誠司も自分のデスクに戻って、資料の準備を始めた。

 いつもと同じ、朝の風景だった。


 昼休み、真央は屋上に出た。

 ビルの屋上から見える景色は、特別なものではなかった。

 隣のビルと、その向こうにあるもう一つのビルと、遠くに見える駅。

 それでも、今日の真央には、少し違って見えた。


 ポケットからスマホを取り出して、着信履歴を確認した。

 ブロックした番号は、もう履歴の上に表示されない。

 消えたわけではないが、見えない場所に追いやられた。

 それでよかった、と真央は思った。


 誠司への気持ちは、まだ自分でも完全には説明できない。

 でも、少なくとも今ならわかることがある。

 誠司の声を聞きたいと思う気持ちと、誠司の家族を守りたいと思う気持ちは、矛盾していない。

 欲しいのは、誠司自身じゃない。

 誠司が持っている、あの「ある」の匂い。

 それを壊すことは、真央が本当に望んでいることじゃない。


 風が吹いて、真央の前髪を揺らした。

 屋上から見える街は、いつもと同じだった。

 でも、真央の中の何かは、確実に一つ、終わっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ