第十二話 真央の、誰にも言えない夜
その夜、石川真央は仕事帰りにスマホの着信履歴を見て、足を止めた。
見覚えのある番号が、一件。
登録していない番号だったが、真央には誰からかすぐにわかった。
山本。
電話番号を変えていないことが、こんな形で自分に戻ってくるとは思っていなかった。
着信時刻は、午後三時十二分。
会議中だった時間。
出ていない。
真央は駅のホームのベンチに座り込んだ。
電車が二本、目の前を通り過ぎていった。
乗らなかった。
マンションに帰っても、その着信のことが頭から離れなかった。
離婚してから二年。
山本からの連絡は、これが初めてだった。
離婚の際、必要な手続き以外で連絡を取らないという約束は、特に文書にしたわけではないが、暗黙のうちにそうなっていた。
山本もそれを守っていたはずだった。
それが今、なぜ。
真央はソファに座って、スマホをテーブルに置いた。
画面を見つめる。着信履歴の「山本賢一」という名前——いや、登録は消してあるから、ただの電話番号だ。
それでも、真央の記憶はその番号を完全に覚えていた。
折り返すべきか。
用件は何だろう。
離婚の手続きで何か問題があったのか。
それとも、まったく別の用件か。
あるいは——もしかしたら、何か言いたいことがあって、それで。
真央は自分の中で、いくつもの想像が浮かぶことに気づいて、嫌になった。
二年経って、まだこんなふうに想像してしまう自分が、嫌だった。
離婚してすぐの頃、真央は毎日のように山本の影を感じていた。
電車の中で似た背格好の男性を見かけるだけで、心臓が跳ねた。
低い声を聞くだけで、体が硬くなった。
怒鳴られたことは数えるほどしかなかったのに、その数回の記憶が、何百回もの普通の日々を塗り替えてしまうくらい強く残っていた。
カウンセリングに通ったこともある。
三回ほど。仕事が忙しくなって、足が遠のいた。
本当は仕事のせいじゃなく、自分の中の何かが「もう大丈夫」と思い込みたかったからかもしれない。
一年が経つ頃には、電車の中で似た背格好を見ても、心臓はそれほど跳ねなくなった。
低い声を聞いても、体は硬直しなくなった。
治った、と思っていた。
でも、こうして一本の着信履歴を見るだけで、自分の中の何かが、また簡単に揺らぐ。
治ったというのは、思い込みだったのかもしれない。
気を紛らわせるために、真央は手帳を取り出した。
仕事用の手帳とは別に、誰にも見せない私用の手帳がある。
日記というほどでもない、思いついたことをただ書き留めるためのノート。
ペンを取って、何かを書こうとした。
「今日、部長が——」
そこまで書いて、ペンが止まった。
今日、誠司が何をしたか。
特別なことは何もなかった。
いつも通り、ラーメン屋で他愛もない話をして、いつも通り「ありがとう」と言われて、いつも通り少し後ろを歩いて帰った。
それを、なぜ書こうとしたのか。
真央はペンを置いて、自分の書いた一文を見つめた。
「今日、部長が——」
この続きを書いたら、何になるのだろう。
好きだ、と書くつもりだったのか。
それとも、安心する、と書くつもりだったのか。
自分でもわからなかった。
真央はノートを閉じた。
「私が欲しいのはこの人じゃない。この人の家族が持っている、あの空気」
自分でそう結論づけてから、もう何度目だろう、と思った。
何度も同じ結論に行き着いては、何度も同じ場所で止まっている。
時計の針が、十時を回った。
真央はスマホを再び手に取った。
着信履歴がまだそこにあった。
折り返すかどうかを、まだ決められていなかった。
折り返したら、また山本の声を聞くことになる。
あの低い声。
一言一言を区切るような、ゆっくりとした話し方。
「お前は本当に気が利かないな」という最後の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
折り返さなければ、何も起きない。
ただ、用件が何だったのかも、わからないままになる。
真央は番号を見たまま、指を画面の上で何度も迷わせた。
発信ボタンの上に指を置いて、離して、またもどして。
ふと、自分の手が震えていることに気づいた。
これだ、と思った。
治った、と思っていたものが、まだ治っていない証拠が、今、ここにある。
真央は番号を長押しした。
「この番号をブロック」
画面に表示された選択肢を、しばらく見つめた。
ブロックすれば、もう連絡は来ない。
用件が何だったのかは、永遠にわからなくなる。
それでいいのか、と自分に問いかけた。
いい。
真央は決めた。
用件を知ることに、もう価値はない。
山本が何を言おうとしていたのか、知らなくていい。
知る必要がない。
知ったところで、自分の人生に何かいいことが起きるわけじゃない。
指が震えたまま、ボタンを押した。
「ブロックしました」
画面に表示された短いメッセージを、真央は何度も見返した。
終わった。
そう思った瞬間、涙が出た。
自分でも驚いた。
泣くつもりはなかった。
ただボタンを押しただけ。
それなのに、目から涙が溢れて、止まらなかった。
悲しいのか、安堵なのか、自分でもわからなかった。
四年間の結婚生活と、二年間のひとりの時間。
その全部が、今この一つのボタンで、本当に終わった気がした。
終わったことを悲しんでいるのか、終わったことに安堵しているのか、その境目が真央にはわからなかった。
たぶん、両方なのだろう。
両方であることが、許される気がした。
真央はソファに横になって、しばらく泣いた。
声を出さずに泣いた。
誰もいない部屋で、声を抑える必要もないのに、それでも声を出さなかった。
四年間、声を抑えることに慣れてしまった体が、今もその通りに動いていた。
泣きながら、真央は自分の中の何かが少しずつ軽くなっていくのを感じた。
着信が一件あっただけで、あれほど動揺した自分。
手が震えるほど怖かった自分。
それでも、ブロックボタンを押せた自分。
二年前の自分なら、折り返していたかもしれない。
何を言われるかわからないまま、また謝る準備をして、電話に出ていたかもしれない。
今の自分は、ブロックを選んだ。
それが、進歩なのかどうかは、真央にもわからなかった。
ただ、何かが確実に変わっている、という感覚だけはあった。
翌朝、出社した真央は、いつもより少し早めにデスクに着いた。
誠司が朝礼の準備をしていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日も早いな」
真央はパソコンを立ち上げながら、少し迷ってから言った。
「部長」
「ん?」
「奥さんのこと、大事にしてくださいね」
誠司は、画面から顔を上げた。
「……なんで急に」
真央は、すぐには答えられなかった。
昨夜のことを、誠司に話すつもりはなかった。
山本のこと、ブロックしたこと、涙が止まらなかったこと。
それは誰にも話さない。
自分一人だけのもの。
ただ、誠司に伝えたかったことが、一つだけあった。
「なんとなく、です」
真央は笑って言った。
「家族がいる人は、ちゃんと大事にした方がいいと思って」
誠司は、少し戸惑った顔をした。
「お前、変なこと言うな」
「そうですか?」
「ああ。でも——」誠司は少し考えてから言った。
「まあ、そうだな。気をつける」
それだけの会話だった。
真央はパソコンの画面に向き直って、今日のスケジュールを確認した。
誠司も自分のデスクに戻って、資料の準備を始めた。
いつもと同じ、朝の風景だった。
昼休み、真央は屋上に出た。
ビルの屋上から見える景色は、特別なものではなかった。
隣のビルと、その向こうにあるもう一つのビルと、遠くに見える駅。
それでも、今日の真央には、少し違って見えた。
ポケットからスマホを取り出して、着信履歴を確認した。
ブロックした番号は、もう履歴の上に表示されない。
消えたわけではないが、見えない場所に追いやられた。
それでよかった、と真央は思った。
誠司への気持ちは、まだ自分でも完全には説明できない。
でも、少なくとも今ならわかることがある。
誠司の声を聞きたいと思う気持ちと、誠司の家族を守りたいと思う気持ちは、矛盾していない。
欲しいのは、誠司自身じゃない。
誠司が持っている、あの「ある」の匂い。
それを壊すことは、真央が本当に望んでいることじゃない。
風が吹いて、真央の前髪を揺らした。
屋上から見える街は、いつもと同じだった。
でも、真央の中の何かは、確実に一つ、終わっていた。




