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第十三話 塾より大事なものがあったから

 その日の夕方、美紀のスマホに着信があった。


 画面に表示されたのは、結衣が通っている進学塾の名前だった。

 普段、塾から電話が来ることはない。 

 月謝の確認や面談の案内は、すべてメールで済まされる。

 電話がかかってくるのは、よほどのことがあるときだけだ。


 美紀は嫌な予感を覚えながら、電話に出た。

「田中結衣さんの保護者の方でしょうか」

「はい、そうです」

「先週から、結衣さんの欠席が続いておりまして。ご連絡が遅くなって申し訳ございません」

 美紀は、しばらく言葉が出なかった。


「……欠席、ですか」

「はい。先週の火曜日から、自習室の利用記録も含めて、お見えになっていません。何かご事情がおありでしたら——」

 美紀は「確認します」と言って、電話を切った。

 スマホを持ったまま、リビングのソファに座り込んだ。

 先週の火曜日から。

 一週間以上、結衣は塾に行っていない。


 結衣が帰ってきたのは、夜の八時過ぎだった。

「ただいま」

 いつもと変わらない声だった。

 靴を脱いで、リビングに入ってきた結衣を、美紀は座ったまま見つめた。


「結衣」

 声が、自分でも思っていたより硬かった。

「……何?」

 結衣の表情に、わずかな緊張が走った。

「塾から電話あった。先週から、行ってないって」

 結衣は、何も言わなかった。

「なんで行ってなかったの!」

 美紀の声が、思わず大きくなった。

「受験まであと何ヶ月もないのに、塾に行ってないって、どういうこと?毎日『塾』って言って出かけてたのよね。じゃあどこに行ってたの」

 結衣は、リビングの入り口に立ったまま、動かなかった。

「言いなさい、結衣」

 結衣は、唇を引き締めて、何も言わなかった。


 沈黙が、リビングに重く落ちた。

 テレビは消えている。

 冷蔵庫のモーター音だけが、かすかに聞こえる。

 美紀はソファから動かず、結衣を見つめ続けた。

 結衣も、視線をそらさなかった。

 十秒、二十秒、三十秒。


 結衣の中で、何かが渦巻いているのが、美紀にも伝わってきた。

 言いたいことがあるのに言えない、そういう顔だった。

 それとも、言うべきかどうかを、まだ決めかねているのか。

 美紀は、何も言わずに待った。

 急かしたい気持ちはあったが、ここで急かせば、結衣はもっと固く閉じてしまう気がした。

 結衣が、ゆっくりと口を開いた。


「……私、理系じゃなくて」

 声が、少し震えていた。

「文学部に、行きたい」

 美紀は、何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

「……文学部?」

「うん」

「あんた、理系志望だったじゃない。医療系の大学、目指してたじゃない」

「ずっと言えなかった」結衣は、目を伏せた。「理系のフリしてた。本当は、文学部に行きたいって、ずっと思ってた」

 美紀は、ソファに座ったまま、結衣の言葉を整理しようとした。

「いつから?いつから理系のフリしてたの」

「……一年くらい前」

 一年。


 美紀は、その「一年」という時間の長さに、めまいに似た感覚を覚えた。

 一年間、結衣は自分の本当の希望を隠して、理系の参考書を開き、理系の話をしてきたということか。

「なんで、言わなかったの」

 結衣は、答えなかった。

「理由があるなら言いなさい。塾を休んでたことだって——」

「それと、翔太のことが心配で」

 結衣が、唐突に言った。

 美紀は、息を止めた。


「翔太のこと、って何」

 美紀の声が、低くなった。

 結衣は、また唇を引き締めた。

「……なんでもない」

「なんでもないなら言わないでしょ。翔太がどうしたの」


 結衣は、明らかに迷っていた。

 今、ここで翔太のことまで話してしまえば、両親はすぐに動き出す。

 それが翔太にとっていいことなのか、まだ結衣には判断がつかなかった。

「……別に、大したことじゃない。ただ、最近気にかけてただけ」

 結衣は、それ以上言わなかった。


 美紀は、結衣の表情を見つめた。

 何か隠している。

 それは、はっきりとわかった。

 でも、それが何なのかまでは、今この瞬間には掘り出せなかった。

「……わかった。翔太のことは、後で聞く」

 美紀は、ひとまずそう言って、結衣に向き直った。


「塾、なんで行かなかったの。文学部のことと、何か関係あるの」

 結衣は、小さく頷いた。

「塾に行く時間、現代文の過去問とか、文学部の対策に使ってた。理系の塾に三時間も行く意味が、もうわからなくなってた」

 美紀は、何から言葉にすればいいのか、わからなくなった。

 塾を休んでいたこと。

 文学部を目指していたこと。

 それを一年間も隠していたこと。

 そして、翔太のことで何かを気にかけていたこと——その全部が、一気に押し寄せてきた。


 怒るべきなのか、心配するべきなのか、自分でもどちらの感情が先に来ているのか、わからなかった。

「……どうして言ってくれなかったの」

 美紀の声から、力が抜けていった。

 怒りではなく、もっと別の何かが、その言葉に乗っていた。

 結衣は、しばらく黙っていた。

「お母さん、忙しそうだったから」

 その一言が、美紀の胸に深く刺さった。


 忙しそうだったから……。

 結衣の口から出たその言葉が、美紀の頭の中で何度も繰り返された。

 確かに、忙しかった。

 パートの仕事、家事、翔太のこと——そして、誰にも言えないGPSのこと、SNSのこと。

 美紀の頭の中は、いつも何かでいっぱいだった。

 結衣の本当の悩みに気づく余裕が、自分にあっただろうか。


 いや、余裕がなかったわけじゃない。

 ただ、見ようとしなかったのかもしれない。

 結衣はいつも「大丈夫」という顔をしていた。

 成績もそれなりに良くて、進路も理系で順調に進んでいるように見えた。

 だから美紀は、結衣のことを「心配しなくていい子」だと、勝手に決めてしまっていたのかもしれない。

 心配しなくていい子は、いない。

 そんなことは、わかっていたはずだったのに。

 美紀は、結衣の顔を見た。

 十八歳の娘の顔は、もう子どもの顔ではなかった。

 一年間、自分の本当の希望を隠して、家族の前で「理系志望の優等生」を演じ続けてきた、もっと複雑な顔だった。


「……それに」

 結衣が、続けた。

「お父さんは、私の夢より、偏差値の方が気になるタイプだと思ってた。理系の方が将来安定するって、前に言ってたから」

 美紀は、何も言えなかった。

 確かに、誠司は以前、結衣の進路について「手堅い方がいい」と言っていた記憶がある。

 それを、結衣はずっと覚えていたのだろう。


「お父さんには、まだ言ってないの」

「言ってない」

「私にも、今初めて言った、ってことよね」

「……うん」

 美紀は、ソファから立ち上がった。

 結衣の方に、ゆっくりと歩いていった。

 結衣は、身構えるような顔をした。

 怒られると思っているのかもしれない。

 美紀は、結衣の前に立った。


「文学部、なんで行きたいの」

 美紀が聞いた。

 結衣は、驚いた顔をした。

 怒られる、と思っていたのかもしれない。

 代わりに聞かれたのは、結衣の希望そのものについての質問だった。


「……本を読むのが、好きだから」

 結衣は、ゆっくりと答えた。

「小説とか、エッセイとか。読んでると、自分じゃない人の考え方が、わかる気がする。それが、好き」

 美紀は、結衣の言葉を聞きながら、自分の知らない娘の顔を見ている気がした。

「いつから、そう思ってたの」

「……中学の頃から、ずっと」

 中学の頃から。


 もう何年も前から、結衣はその気持ちを抱えていたということか。

 母親に話す機会を、何年も見つけられなかったということか。

「お母さん、忙しそうだったから」という結衣の言葉が、もう一度頭の中で響いた。

「塾のことは、ちゃんと話そう。明日にでも、塾に連絡して、進路のことも含めて相談しよう」

 美紀が言うと、結衣は少し驚いた顔をした。

「……怒らないの?」

「怒ってる。塾をサボっていたことは、怒ってる」美紀は言った。

「でも、文学部に行きたいことは、怒ることじゃない」

 結衣の目に、わずかに涙が浮かんだ。

 それを見て、結衣自身も驚いたような顔をした。


 その夜、誠司が帰宅したのは十時近かった。

 美紀はリビングで、誠司が靴を脱ぐのを待ってから言った。

「結衣のこと、話さなきゃいけないことがある」

 誠司は、少し緊張した顔をした。

「何かあったのか」

「悪いことじゃない。でも、ちょっと座って」


 美紀は、塾のこと、文学部のこと、結衣が一年間隠してきたことを、誠司に説明した。

 誠司は黙って聞いていた。

 説明が終わると、誠司は少しの間、何も言わなかった。

「……俺が、手堅い方がいいって言ったから、隠してたのか」

「そうみたい」

 誠司は、自分の言葉の重さに、初めて気づいたような顔をした。


 二階の結衣の部屋から、まだ明かりが漏れていた。

 受験参考書を開いているのか、それとも別の本を読んでいるのか、美紀にはわからなかった。

「結衣のこと、私たち、ちゃんと見てたつもりだったけど」

 美紀が言った。

 誠司は、何も言わなかった。

 ただ、二階の明かりを、しばらく見上げていた。

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