第十四話 GPSは嘘をつかない、私の心がウソをつく
美紀がアプリを開いたのは、夕方の五時を少し過ぎた頃だった。
いつものように、何気なく開いた。
誠司が今どこにいるか、それを確認するのは、もう習慣というより、ほとんど呼吸のようなものになっていた。
赤いピンが、見覚えのある場所にあった。
駅から少し離れた住宅街の一角。
一目見て、美紀には場所がわかった。
十六年前、誠司にプロポーズされたあのイタリアンレストランがある場所。
以前も一度同じ場所にピンが止まったことがあった。
あのときは「得意先と」という説明で、確かめようもないまま終わった。
今日も、また同じ場所。
美紀は、スマホを持ったまま、しばらく立ち尽くした。
二回目。
二回目ということは、もう「先方の指定」では片付けられないかもしれない。
あのレストランに何度も行く理由が、誠司にあるのだろうか。
頭の中で、いろいろなことが一気に組み上がった。
ハンドクリームの香り。
十四日続けてスマホを裏向けに置いていたこと。
GPSの誤発注からの再注文。
鞄に何度も仕込み直したこと。
「得意先と」という説明。
そして今、また同じ場所。
これだけ材料が揃えば、誰だって疑う。
美紀はスマホを握ったまま、キッチンに向かった。
冷蔵庫を開けて、何をするわけでもなく、しばらく中を見つめた。
リビングに戻って、ソファに座った。
SNSのアプリを開いた。
「浮気調査中の主婦です」というアカウント名が、今夜は妙に大きく目に入った。
投稿欄に文字を打ち込み始めた。
「夫がまた、あの場所にいます。プロポーズしてくれたレストランの近くです。二回目です。もう、得意先とは思えません」
打ち終えて、投稿ボタンの上に指を置いた。
指が、止まった。
頭の中で、先週のコメントが浮かんだ。
「信じたいなら、聞いてみた方がいいと思います。スマホの画面の向こうより、目の前の人の方が、きっと正確です」
あの夜、美紀は初めて「どこで食べたの」と聞けた。
聞けたことが、誇らしかった。
あの一歩を、今夜また同じように踏み出せるだろうか。
でも、SNSに投稿してしまえば、それで楽になる気がした。
知らない誰かに「大変ですね」と言ってもらって、共感を得て、それで気が済む気がした。
でも、それは——本当に楽になることなんだろうか。
美紀は、投稿欄の文字を、一文字ずつ消した。
最後の一文字が消えて、画面が空白に戻った。
アプリを閉じた。
美紀はスマホをテーブルに置いて、キッチンに向かった。
鍋に、昨日のミネストローネが残っていた。
冷めて、表面に薄い油の膜ができている。
本当なら、誠司が帰ってきてから温めるはずのものだ。
でも、今夜はなぜか、今すぐ温め直したい気持ちになった。
火にかけて、鍋をかき混ぜた。
トマトと野菜の香りが、少しずつ立ち上がってくる。
冷えていたものが、少しずつ温かくなっていく。
これは、ただのスープだ。
でも、美紀には、それ以上の意味があるように感じられた。
冷めたものを、また温める。
一度冷えた関係も、温め直すことができるんだろうか。
そんなことを考えながら、美紀は鍋をかき混ぜ続けた。
鍋の火を止めて、美紀はもう一度、自分の中で確認した。
聞けばいい。直接。
今夜、誠司が帰ってきたら、また聞こう。
「どこで食べたの」とだけ聞いた前回より、もう少し踏み込んで聞こう。
「最近、よくあのレストランの近くに行ってるみたいだけど」と。
怖い。
聞いて、何か知りたくない答えが返ってきたら、どうしよう。
でも、知らないままでいることの方が、もっと怖いのかもしれない。
最近、ずっとそう思うようになっていた。
美紀はテーブルに、ミネストローネの鍋敷きを置いた。
誠司が帰ってきたら、すぐに温かいスープを出せるように。
そして、待つことにした。
これまでの美紀は、待つことが苦手だった。
待つ代わりに、GPSを仕込み、SNSに投稿し、何かを「確認する」ことで不安を抑えてきた。
今夜は、何もせずに、ただ待つことを選んだ。
それが、今の美紀にできる、最大の変化だった。
テレビをつけたが、何も頭に入らなかった。
時計の針が、七時を過ぎ、八時を過ぎた。
誠司からの連絡はなかった。
いつもなら、何か連絡があるはずの時間。
不安が、また少しずつ膨らんでいく。
美紀はスマホを何度も確認した。
アプリは開かなかった。
開けば、また赤いピンを見てしまう。
見てしまえば、また何かを考えてしまう。
それを、今夜だけはしないと決めていた。
九時を過ぎた。
十時を過ぎた。
美紀はソファに座ったまま、何度もうとうとして、何度も目を覚ました。
今、何時だろう、と思うたびに時計を見る。
十時半。
十一時前。
どれだけ待っても、誠司は帰ってこなかった。
玄関の鍵が開く音がしたのは、深夜零時近くだった。
「ただいま」
誠司の声は、いつもより低く、疲れていた。
美紀はソファから起き上がった。
リビングの明かりの中に、誠司が立っていた。
スーツが少し乱れていて、ネクタイも緩んでいた。
「……遅かったね」
美紀は言った。聞こうと決めていた言葉が、今、まさにこの瞬間のために用意されていた。
でも、誠司は美紀の目を見なかった。
「ああ、悪い。色々あって」
それだけ言って、誠司はリビングを通り過ぎ、寝室に向かった。
「疲れた」
その一言を残して、誠司は寝室のドアを閉めた。
美紀は、リビングに一人で立っていた。
聞こうと思っていた言葉が、口から出る前に、誠司はもうそこにいなかった。
怒りは、不思議と湧かなかった。
代わりに、何か静かな寂しさが、胸の中に広がった。
キッチンに戻って、温め直したミネストローネを、一人分だけ器に注いだ。
ダイニングテーブルに座って、スプーンを手に取った。
一口、飲んだ。
温かかった。
当たり前のことだけれど、その温かさが、今夜の美紀には少しだけ救いだった。
誰も見ていないダイニングで、一人で、温かいスープを飲んだ。
これまでの美紀なら、こういう夜はもっと怒っていたかもしれない。
もっと猜疑心に駆られて、また何かを確認しようとしていたかもしれない。
今夜の美紀は、ただスープを飲んでいた。
「待つ」という選択をした自分を、少しだけ認めてあげたかった。
聞けなかったことは残念だけれど、待とうとしたことは、無駄じゃなかったはずだ。
スープを飲み終えて、器を片付けた。
寝室の前を通るとき、ドアの隙間から、誠司の寝息が聞こえた気がした。
美紀は、ドアの前で少しだけ立ち止まった。
今夜、聞けなかった。
また聞けなかった。
でも、聞こうと決めたこと、待とうと決めたことは、今夜限りのことじゃない。
明日も、また同じように決めればいい。
今日は聞けなかったけど、いつか聞ける日が来るかもしれない。
美紀は、自分の部屋に向かって、静かに歩いた。
窓の外に、月が見えた。
誠司がどこで何をしていたのか、今夜もわからないままだった。
でも、わからないまま夜を過ごすことを、今夜の美紀は選んだ。
それは、これまでの美紀にはできなかったことだった。




