第十五話 カッコ悪い父親が、夜の公園で泣いた
前の夜、美紀がミネストローネを一人で飲んだことを、誠司は知らなかった。
翌朝、誠司が起きてきたとき、食卓はいつも通りだった。
美紀がトーストを焼いていて、翔太が「おはようございます!」と言い、結衣が「おはよ」と返した。誠司も「おはよう」と言って、椅子を引いた。
ただ、美紀だけは、背中を向けたままだった。
いつもなら振り返って「おはよう」と返すのに、今朝は振り返らなかった。
トーストを皿に移す手が、少しだけ遅かった。
誠司は、それに気づいた。
気づいたが、何も言わなかった。
昨夜は遅かったから、美紀が機嫌を損ねているのかもしれない。
今は触らない方がいい。そう判断して、コーヒーに口をつけた。
気づいたのに、何も言わない。
それがこの家族の、十六年目の朝だった。
爆発したのは、その夜だった。
誠司が帰宅したのは九時過ぎ。翔太と結衣はすでに自分の部屋にいた。
リビングに美紀一人がいて、テレビを消したまま、ソファに座っていた。
テレビが消えているリビングで、一人で座って待っている妻。
それが、誠司には少し怖かった。
「ただいま」
返事がなかった。
誠司はコートを脱いで、リビングに入った。
美紀は誠司を見た。
その目に、何かが溜まっていた。
水位が限界まで来た器のような、あと一滴で溢れる手前の目だった。
「ねえ」
美紀が言った。
「聞いていい?」
「……何を」
「あのレストラン、行ったよね。最近、二回も。プロポーズしてくれたあのイタリアン」
誠司は、すぐに答えなかった。
その一秒が、美紀には長かった。
「先方の指定だって言ったよね、前。今回は?」
「……今回も、得意先の指定だ。あのあたりで打ち合わせがあって」
「そう」
美紀の声が、静かになった。
静かになるほど、怖い声になった。
「じゃあ聞くけど。そのレストランで、一緒に食べてた人、誰?」
「だから、得意先の——」
「部下の、石川さんでしょ」
誠司は、黙った。
美紀の言葉が、リビングに落ちた。
誠司には、それが正確に当たっていた。
先方の指定だったのは本当だ。
でも、石川が一緒にいたのも本当だ。だから否定できなかった。
「なんで黙ってるの」
「……否定はしない。石川も一緒だった。でも、それだけだ」
「それだけって、何がそれだけなの」
美紀が立ち上がった。
「あなた、最近ずっとそうじゃない。遅い帰りのたびに部下の女の子と一緒で、手からはその子の匂いがして、なんで信じろって言うの」
「匂いって何の話だ」
「ハンドクリームよ!秋になってすぐ、あなたの手からヤシの実みたいな香りがした。ずっと気になってた」
誠司は、その瞬間、あのコンビニの前の七分間を思い出した。
雨の中、真央の傘に入ったこと。駅までの道で差し出されたチューブのこと。
「……ハンドクリームを借りただけだ」
「借りた?自分の部下から、ハンドクリームを?」
「手が荒れてたから——」
「信じろって言う方が無理でしょ!」
美紀の声が、ついに割れた。
「私、ずっと我慢してた。毎日アプリで確認して、毎日安堵して、毎日惨めになって。それでも聞けなかった。怖くて聞けなかった。やっと聞けるようになったのに、何も説明してくれないじゃない」
「アプリって何だ」
誠司が聞いた。
美紀は一瞬、しまったという顔をした。
でも、もう止まれなかった。
「……GPS。あなたの鞄に、端末を入れてた。どこにいるか、ずっと確認してた」
今度は、誠司が固まった。
「いつから」
「二ヶ月くらい前から」
誠司は、何も言えなかった。
怒るべきなのか、呆れるべきなのか、それとも自分のせいだと思うべきなのか、全部がごちゃ混ぜになって、言葉が出てこなかった。
「なんで信じられないんだ」
誠司が言った。
「なんで信じてくれないんだ、俺のことを」
「信じる材料が、何もないじゃない!」
美紀の言葉が、部屋に響いた。
「遅く帰ってきて、目も見ないで『疲れた』って寝室に消えて、翌朝は何もなかったみたいな顔をして。子どものことだって、結衣が文学部に行きたがってたの、あなたは知らなかったでしょ。翔太のことだって、私は毎日気にしてる。あなたは?ちゃんと見てる?この家族のこと」
誠司は、黙った。
反論しようとした。でも、出てこなかった。
美紀の言葉の全部が、的外れではなかった。
目を見なかったのは本当だ。
「疲れた」とだけ言って消えたのも本当だ。
結衣の本当の志望を知らなかったのも本当だ。
翔太を「なんとなく心配」で終わらせてきたのも本当だ。
「……俺が悪かった」
誠司がそう言った瞬間、美紀の顔が少し崩れた。
崩れた、というのは、怒りが消えたわけじゃない。
ただ、何かの力が緩んだ、という感じだった。
「悪かったって、何が悪かったの」
美紀が言った。声が、少し低くなっていた。
「全部」
誠司は言った。
「全部、悪かった。石川との関係は、本当に何もない。でも、疑わせたことは俺のせいだ。家族のことを、後回しにしてきたことも、俺のせいだ」
美紀は、何も言わなかった。
「ただ、ひとつだけ——」
誠司は、言葉を選んだ。
「GPS、外してくれ。俺も、お前のことを信じたい」
その一言で、美紀の目に涙が浮かんだ。
それが悲しいからなのか、安堵なのか、怒りの名残なのか、美紀自身にもわからなかった。
「少し、外の空気吸ってくる」
誠司が言った。
美紀は何も言わなかった。
止めなかった。
誠司はコートを羽織って、玄関を出た。
夜の住宅街は静かだった。
街灯の下を、誠司は当てもなく歩いた。
どこに行くつもりもなかった。
ただ、動いていなければならない気がした。
美紀の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
「信じる材料が、何もないじゃない」
「ちゃんと見てる?この家族のこと」
見ていた、と言えるか。
誠司は、自問した。
翔太が毎朝「最高!」と言うのを聞いて、うなずいてコーヒーを飲んでいた。
結衣の受験のことは美紀に任せていた。
家族の「いつも通り」を「いつも通り」として受け取って、疑わなかった。
それを「見ている」というのか。
足が、公園の前で止まった。
あの小さな公園だ。ブランコが二つ、錆びたジャングルジム。
翔太も、ここに来ることを、誠司はまだ知らない。
ベンチに腰を下ろした。
ベンチに座って、誠司は何も考えないようにした。
でも、何かが浮かんでくる。
翔太の泥だらけのスニーカーのことを、思い出した。
先月、玄関に置いてあったあのスニーカー。
翔太は「転んだだけ」と言った。
美紀が「どこで転んだの」と聞いたら「帰り道。段差があって」と笑って答えた。
誠司は「気をつけろよ」とだけ言って、そのまま流した。
あのとき、結衣が翔太の顔を見て、何か言いかけてやめた。
あの表情を、誠司は覚えていた。
覚えていながら、何も確認しなかった。
このまえの朝、翔太が「お腹が痛い」と言ったとき、初めて誠司は「それは違う」と言った。
何が違うかを、具体的には説明できなかった。
でも、何かが違うと感じていた。
あの「違う」は、正しかったのか。
それとも、遅すぎたのか。
翔太は今夜も、二階の部屋で眠っているはずだ。
明日も朝になれば「おはようございます!」と言って、階段を降りてくる。
笑顔で。
練習した笑顔で。
その笑顔が、どれだけの重さを支えているのかを、誠司はまだ本当にわかっていない。
わかっていないまま、ここまで来てしまった。
気がついたら、涙が出ていた。
声は出なかった。
泣こうと思ったわけでもなかった。
ただ、目から涙が流れていた。
頬を伝って、顎の先から落ちた。
街灯の光の中で、それだけが見えた。
誠司は、ベンチの背もたれに体を預けて、夜空を見上げた。
四十五歳。
営業課長。
十六年間、夫であり父であり続けてきた。
誰かの前で泣いたのは、最後にいつだったか、もう思い出せない。
泣かない方がいい場面の方が、人生には多すぎた。
悲しくても、辛くても、疲れても、泣かなかった。
泣けなかった。
今夜は、誰も見ていない。
公園には、誠司一人だけ。
街灯の下のベンチで、四十五歳の男が、一人で泣いている。
カッコ悪い、と思った。
でも、止まらなかった。
翔太のことを考えると、涙が出た。
毎朝三秒かけて笑顔を作っている息子のことを考えると、止まらなかった。
俺は、何をしていたんだ。
課長として、うまくやってきたつもりだった。
家族を養って、家があって、子どもたちが学校に行っていて、それで十分だと思っていた。
表面が整っていれば、中まで見なくてよかった。
見なくて済むなら、見なかった。
でも、翔太は毎朝三秒かけて笑顔を作っている。
結衣は一年間、本当の志望を胸の中に押し込んでいた。
美紀は二ヶ月間、GPSで夫の居場所を確認しながら、一人で台所に立っていた。
全員が、何かを抱えていた。
全員が、誰かに言えないまま、それぞれの夜をやり過ごしていた。
そのことに、今夜初めて、誠司はまともに向き合った。
向き合ったら、涙が出た。
それだけのことだった。
「……泣いてるんですか、部長」
声がした。
誠司は顔を上げた。
真央が、公園の入り口に立っていた。
コートの前を合わせて、鞄を肩にかけて、こちらを見ていた。
誠司は、咄嗟に顔を背けた。
「……なんでお前がここにいるんだ」
「近くに住んでるんです。帰り道で。たまたま通りかかっただけです」
真央は言いながら、公園の中に入ってきた。
誠司のいるベンチの前で立ち止まって、少し迷った後、隣には座らず、一つ離れたベンチに腰を下ろした。
「……うるさい」
誠司が言った。
涙声だった。
それが余計に恥ずかしかった。
「泣いてていいんじゃないですか」
真央が言った。
「四十五歳でも」
「うるさいって言ってるだろ」
「はい、うるさいです、すみません」
真央は笑わなかった。
からかっているわけでもなかった。
ただ、静かに、そこに座っていた。
誠司は、涙を手の甲で拭った。
拭っても、また出てきた。どうしようもなかった。
「家族のことで、喧嘩した」
誠司が、ぽつりと言った。
「……そうですか」
「美紀に、いろいろ言われた。全部、正しかった」
「そうですか」
「俺は、ちゃんと見てなかった。家族のことを、ちゃんと見てなかった」
真央は何も言わなかった。
言わないことが、今夜の真央には正解だった。
誠司の言葉を、否定も肯定もせずに、ただそこに置いておく。
それだけのことが、今夜の誠司には必要だった。
しばらく、二人は黙っていた。
夜風が吹いた。枯れ葉が一枚、ベンチの前を横切っていった。
街灯の光の中で、ジャングルジムの影が揺れた。
「部長」
真央が、静かに言った。
「今夜のことを覚えておいてください」
誠司は、真央を見た。
「今夜、泣いたことを。公園のベンチで、一人で泣いたことを。忘れないでいてください」
「……なんでだ」
「泣ける人は、変われると思うから」
真央は、誠司の顔を見ながら言った。
笑顔でも、真剣な顔でもなく、ただ、静かな顔で。
「泣けない人は、変われないこともある。でも、部長は今夜泣けた。それは、どこかで変わろうとしている証拠だと思います」
誠司は、何も言えなかった。
「家に帰ってください。奥さん、待ってると思います」
それだけ言って、真央はベンチから立ち上がった。
「おやすみなさい、部長」
誠司は、返事をしようとした。
でも声が出なかった。ただ、頷いた。
真央は公園を出ていった。
コートの後ろ姿が、街灯の光の中に消えていった。
いつも通り、少し後ろを歩くような足取りで。
しばらく誠司は、ベンチに座ったままでいた。
涙は、いつの間にか止まっていた。
立ち上がって、コートの埃を払った。
夜の公園に、誠司一人になった。
ジャングルジムが、街灯の光の中に黙って立っていた。
翔太が七歳のとき、ここで一緒に遊んだ。
誠司がジャングルジムの上に立って「ウルトラマンだ!」と言ったら、翔太が大笑いした。
あのときの翔太の笑顔は、練習した笑顔じゃなかった。
あの笑顔を、もう一度見たい、と誠司は思った。
本物の笑顔を。
家に帰ろう。
誠司は公園を出て、夜の住宅街を歩き始めた。
足が、自然と速くなっていた。
玄関を開けると、リビングにまだ明かりがついていた。
美紀が、ソファに座っていた。
眠ってしまっていた。
膝の上にブランケットをかけて、少し体を丸めて。
誠司は、その横に静かに腰を下ろした。美紀を起こさないように、ゆっくりと。
美紀の顔を、しばらく見た。
十六年間、並んで生きてきた顔。
喜ぶ顔も、怒る顔も、疲れた顔も、全部知っているはずの顔が、今夜は少し知らない顔に見えた。
いや、知らないのではなく、ちゃんと見ていなかったから、知っているつもりだっただけなのかもしれない。
美紀の肩に、誠司はそっとブランケットをかけ直した。
「……ただいま」
誰にも聞こえない声で、誠司は言った。




