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第十六話 リビングが、地獄になった夜

 公園で泣いた夜から三日が経った。


 誠司はその翌朝、美紀に「昨夜はごめん」と言った。

 美紀は「私もごめん」と言った。

 それだけだった。

 大きな和解があったわけでも、深い話し合いがあったわけでもない。

 ただ、互いに謝って、朝食を食べて、それぞれの一日が始まった。


 でも、何かが変わっていた。

 誠司は帰宅が早くなった。

 遅くなるときは、必ず連絡を入れるようになった。

 美紀は、スマホを裏向けに置く回数が減った。

 アプリは、まだ消していない。

 でも、開く回数が減った。


 翔太は、相変わらず毎朝「おはようございます!」と言って、階段を降りてきた。

 相変わらず、三秒かけて笑顔を作っていた。

 誠司は、その三秒を、今は知っている。

 知っていて、何もできないままでいた。


 その日の夜、田中家のリビングには、いつもと違う空気が漂っていた。

 誠司が早めに帰宅していた。

 美紀が夕食を作っていた。

 結衣が自分の部屋から降りてきて、手伝いをかって出た。

 珍しいことだった。


 翔太だけが、なかなか降りてこなかった。

「翔太、ご飯よー」

 美紀が階段の下から呼んだ。

 返事がなかった。

「翔太?」

 少しして「……うん」という声が返ってきた。

 いつもより、低かった。

 元気のない声だった。

 誠司と美紀が目を合わせた。

 結衣は、包丁を持ったまま、何も言わなかった。


 翔太が階段を降りてきたのは、それから十分後だった。

 リビングに入ってきた翔太の顔を見て、誠司の胸が締まった。

 笑顔がなかった。

 眉毛も上がっていない。

 目の力も抜けていない。

 口角も上がっていない。

 三秒かけて作るはずのあの笑顔が、今夜の翔太の顔にはなかった。


 その代わり、何もない顔があった。

 疲れた、でも怒った、でもなく、ただ何かが抜けてしまった顔。

 電池が切れかけた機械みたいな、そういう顔。

「座りなさい」と美紀が言った。声が、少し優しかった。

 翔太は椅子を引いて、テーブルについた。

「いただきます」

 声が、小さかった。


 夕食の間、誰も余計なことを言わなかった。

 誠司は箸を動かしながら、翔太のことを何度も横目で見た。

 翔太は食べていたが、ゆっくりだった。

 いつもは誰より早く食べ終わるのに、今夜は皿の上のものをただ動かしているだけのように見えた。

 結衣が、翔太に一度だけ視線を向けた。

 翔太は気づかなかった。

 美紀は「おかわりは?」と聞いた。

 翔太は「いい」と言った。

 誠司は「今日、学校どうだった」と聞こうとして、やめた。

 今夜の翔太に、その質問は聞けなかった。

「最高!」という答えが返ってくることが、今夜は怖かった。

「ごちそうさま」


 誠司が先に箸を置いた。

 美紀も続いた。

 結衣も立ち上がった。

 翔太だけが、席に座ったままだった。

 皿の上に、まだ少しだけ残っていた。

 翔太は、その残りを見ていた。

 見ているだけで、箸が動かなかった。

 美紀が台所で洗い物を始めた。

 結衣が皿を重ねた。

 誠司がテーブルの端に座ったまま、翔太を見ていた。

 五分が経った。

 翔太は、動かなかった。


「翔太」

 誠司が、静かに呼んだ。

 翔太は顔を上げなかった。

「……ちょっと聞いていいか」

 台所の美紀が、水を止めた。

 結衣が動きを止めた。

 翔太は、皿を見たまま、動かなかった。


 誠司は、何を聞くかを決めていなかった。

「学校、大丈夫か」と聞こうとした。

 でも、その言葉は、翔太をまた「大丈夫!」という笑顔に追い込む言葉かもしれない。

「何かあったか」と聞こうとした。

 でも、その言葉も、翔太に「何もない」と言わせる言葉かもしれない。

 どう聞けばいいのか、わからなかった。

 だから誠司は、何も聞かずに、ただ翔太の隣に椅子を移して、座った。

 それだけのことだった。

 隣に、座った。

 翔太の肩が、わずかに揺れた。


 最初は、声にならなかった。

 翔太の喉の奥で何かが鳴って、唇が震えて、でも言葉は出てこなかった。

 誠司は、翔太の顔を見なかった。

 ただ、隣に座っていた。

 美紀は台所から出てきた。

 声はかけなかった。

 リビングの入り口に立って、見ていた。


 結衣は、皿を持ったまま、動けなかった。

 翔太の喉が、もう一度鳴った。

「……もう」

 声が出た。かすれていた。

「……もう、学校行きたくない」


 誠司の体が、静止した。

 美紀が、口を手で押さえた。

 結衣が、持っていた皿をそっとテーブルに置いた。

 翔太は、続けた。

「ずっと、いじめられてた」

 その一言が、リビングに落ちた。

 小さな声だった。

 でも、部屋の全員に届いた。


「ノートの名前、消されてた。上靴、隠されてた。給食のとき、一人だった。帰り道、一人だった」

 翔太は、箸を置いた。

 両手をテーブルの上に置いて、うつむいて、話し続けた。

「最初は、気にしないようにしてた。気にしなきゃ平気になれると思ってた。でも、平気になれなかった。なれないのに、家に帰ったら『楽しかった』って言ってた。毎日、言ってた」

 声が、少しずつ崩れていった。

「楽しくなかった。全然楽しくなかった。でも、楽しかったって言ってたら、本当に楽しくなれると思ってた。なれなかった。一回も、なれなかった」


 翔太の目から、涙が落ちた。

 一粒、二粒。

 それからもう止まらなくなった。

「しんどい。もう、しんどい。全部しんどい。笑うのも、しんどい。毎朝、しんどい。学校に行くのが、怖い。怖いのに行ってた。行けなくなったら、お父さんとお母さんに心配かけると思って、行ってた。でも——」

 声が、そこで折れた。

「もう、無理かもしれない」

 翔太は、両手で顔を覆った。

 声を殺して、泣いた。

 肩が揺れた。

 テーブルに涙が落ちた。


 リビングに、重い静寂が落ちた。

 美紀は、リビングの入り口に立ったまま、動けなかった。

 口を押さえていた手が、震えていた。

 目から涙が流れていたが、拭う余裕もなかった。

 誠司は、翔太の隣で、翔太の背中を見ていた。

 こんなに小さかったか、と思った。

 毎日「おはようございます!」と言っていた背中が、今夜は途方もなく小さかった。


「……知ってた」

 声がした。

 結衣だった。

 テーブルの端に立ったまま、結衣がゆっくりと俯いた。

「靴箱の前で見た。放課後、通学路の後ろからついていってた。なんかされてるのはわかってた。でも——言えなかった。翔太が、言われたくないかもしれないと思って、言えなかった。ごめん」

 結衣の声が、震えていた。

「お姉ちゃんのくせに、何もできなかった。一回だけ、やめてほしいって言いに行ったけど、証拠がないって言われて、何もできなかった。ごめん、翔太」

 翔太は、顔を覆ったまま、何も言わなかった。

 でも、肩の揺れが、少し変わった気がした。


 誠司は、翔太の隣で、何秒か動かなかった。

 何か言おうとした。

「よく言えた」でも、「ごめんな」でも、「大丈夫だ」でもいい、何かひとつ言おうとした。

 でも、どの言葉も、翔太に届く言葉じゃない気がした。

 言葉より先に、体が動いた。

 誠司は、翔太の肩に手を回した。

 そのまま、引き寄せた。

 翔太の体が、誠司の胸の中に入ってきた。


 翔太は、最初、少し固まった。

 お父さんにこういうふうに抱きしめられたのが、いつ以来のことなのか、翔太自身も思い出せないくらいだった。

 でも、固まったのは一秒だけだった。

 次の瞬間、翔太は誠司の胸に顔を押しつけて、子どもみたいに泣いた。

 声が出た。

 我慢していた声が、全部出た。

 小さな子どもみたいに、わあわあと泣いた。

 カッコつけることも、笑顔を作ることも、何もしなかった。

 ただ、お父さんの胸に顔を押しつけて、泣いた。


 誠司は、何も言わなかった。

 ただ、翔太の背中に両腕を回して、強く抱きしめた。

 それだけだった。

 それだけで、十分だった。

 美紀は、リビングの入り口で、声を出さずに泣いていた。

 翔太の泣き声が聞こえていた。

 誠司の腕が翔太の背中に回るのが見えていた。

 その光景を見ながら、美紀は足が動かなかった。

 行きたかった。

 翔太の元へ、今すぐ行きたかった。

 でも、今この瞬間は、誠司と翔太の間に入ってはいけない気がした。


 ずっと、翔太の「楽しかった」を信じていた。

 信じていたというより、信じることにしていた。

 疑うのが怖くて、疑った先にあるものを見るのが怖くて、「楽しかった」という言葉を、毎日そのまま受け取ってきた。

 翔太は、ずっと一人で抱えていた。

 毎朝三秒かけて笑顔を作って、「楽しかった」と言って、誰にも言えないまま眠っていた。


 その隣で、美紀はGPSの赤いピンを追いかけていた。

 その言葉が、自分への刃のように、美紀の胸に刺さった。

 翔太の泣き声が、少しずつ小さくなっていった。

 誠司の腕は、まだ翔太の背中にあった。


 結衣が、テーブルを離れて、翔太の方に歩いた。

 誠司が翔太を抱きしめたまま、少しだけ体を傾けて、結衣が翔太の隣に座れるスペースを作った。

 結衣は、翔太の手の上に、自分の手を重ねた。

 何も言わなかった。

 それで、よかった。

 翔太の肩が、また一度揺れた。

 それから、少しずつ落ち着いていった。


 美紀が、リビングに入ってきた。

 翔太の後ろに回って、翔太の頭に手を置いた。

「ごめんね、翔太」

 それだけ言った。

 翔太は何も言わなかった。

 でも、体の力が、少し抜けた。


 四人が、リビングにいた。

 誰も「大丈夫だ」とは言わなかった。

 誰も「明日から学校行けるよ」とは言わなかった。

 誰も「解決策はこれだ」とは言わなかった。

 ただ、四人が同じ空気の中にいた。

 それが今夜は、そのことだけが、必要なことだった。


 しばらくして、翔太が顔を上げた。

 目が赤くて、頬に涙の跡があって、鼻が詰まっていた。

 そして、こんな顔で、少し呆けたような表情で、口を開いた。

「……お腹、空いた」

 一瞬、リビングが静止した。

 それから、誠司が先に笑った。

 声を立てて笑ったわけじゃない。

 ただ、顔が、崩れた。

 美紀も、泣きながら笑った。

「さっき、ご飯食べなかったもんね」

「食欲なかった。でも今、空いた」

「すぐ温めるから」


 結衣が、翔太の手の上にあった自分の手を引いた。

 翔太は、結衣の手を一瞬だけ握り返した。

 美紀が台所に向かった。

 誠司は翔太の背中から腕を外した。

 翔太は、まだ少し鼻を啜っていた。

「お父さん」

 翔太が、誠司を見た。

「……ありがとう」


 誠司は、何も言えなかった。

 ただ、翔太の頭に手を置いた。

 一度だけ、ぐりぐりと、乱暴に。

 翔太が「痛い」と言った。

 全然、痛くない声で。


 その夜、田中家のリビングに、にぎやかな夕食の続きが始まった。

 温め直したご飯を、翔太が食べた。

 美紀が隣に座って、結衣が向かいに座って、誠司がお茶を飲んだ。

 誰も「学校どうする」とは言わなかった。

「これからどうするか」も言わなかった。

 それは、今夜じゃなくていい。

 今夜は、翔太が「お腹空いた」と言えたことで、十分だった。


 翔太は、ご飯を食べながら、ぽつりと言った。

「宮本って同じクラスのやつが、俺に本借りに来た。まだ返してくれてない」

「じゃあ返してもらいなよ」と結衣が言った。

「まあ、貸したし」と翔太が言った。

 それだけの会話だった。

 でも誠司には、その「まあ、貸したし」という一言の重さが、ちゃんとわかった。


 翔太の学校に、本を貸してくれた友達が、一人いる。

 それだけのことが、今夜の田中家には、なんの飾りもなく嬉しかった。

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