第十七話 全員バカだった、全員でバカだった
翔太は、翌朝も起きられなかった。
今日は、お腹が痛いわけじゃなかった。
体が重いわけでもなかった。
ただ、昨夜あれだけ泣いた後、また笑顔を作って「おはようございます!」と言う気力が、今朝はどこにもなかった。
誠司が部屋を覗いて、「今日は休んでいい」とだけ言った。
それだけで、翔太は布団を頭まで引き上げた。
美紀はパートを一日休んだ。
結衣は学校に行った。
誠司は午後から出勤することにした。
田中家の、昨夜の続きが、静かに始まった。
昼前、翔太が自分の部屋から降りてきた。
パジャマのまま、髪も寝癖だらけで、目が少し腫れていた。
昨夜泣いた跡が、まだ顔に残っていた。
リビングに美紀がいた。
翔太はソファに横になって、テレビをつけた。
チャンネルを変えて、変えて、バラエティ番組で止めた。
昼間の再放送で、タレントたちが罰ゲームをやっていた。
美紀が「何か食べる?」と聞いた。
翔太は「トースト」と言った。
普通のやり取りだった。
でも、昨夜の後の「普通」は、昨日までの「普通」とは違う重さがあった。
美紀はトーストを焼きながら、翔太の背中を見ていた。
ソファに横になって、テレビを見ている背中。
それが今朝は、昨日より少しだけ軽そうに見えた。
気のせいかもしれない。
でも、そう見えた。
昼食を三人で食べた後、誠司が「ちょっと、話してもいいか」と言った。
テーブルに残っていた翔太と美紀が、誠司を見た。
「昨夜のこと——翔太が話してくれたこと。今日、お父さんからも言いたいことがある」
翔太が少し身構えた。
また何か言われる、と思ったのかもしれない。
「謝りたい」
誠司が言った。
「ちゃんと見てなかった。毎朝お前が『最高!』って言うのを、そのまま信じてた。信じてたというより——信じることにしてた。疑うのが、怖かったのかもしれない」
翔太は、黙って聞いていた。
「お前が笑ってくれてる間は、大丈夫だと思えた。本当は、笑顔の向こうを見るべきだったのに。お父さんは、見なかった。ごめん」
翔太は、少し間を置いてから言った。
「……俺も、嘘ついてたから」
「お前の嘘は、俺たちを心配させないための嘘だろ」誠司は言った。
「それと、ちゃんと見なかった俺とは、違う」
翔太は、何も言わなかった。
でも、目が少し赤くなった。
美紀が「私も、ごめんね」と言った。
「毎朝、『楽しかった』を聞いて、それで安心してた。安心したかっただけかもしれない。ちゃんと見てなかった」
翔太は俯いた。
俯いて、鼻を啜った。
「……なんか、みんなに謝られてる」
翔太がぼそっと言った。
「うん、謝ってる」
「なんか、変な感じ」
「変で悪かった」
翔太が、少しだけ笑った。
作った笑顔じゃない笑顔が、少しだけ出た。
夕方、結衣が帰ってきた。
「翔太、起きてる?」
「起きてる」
「ご飯食べた?」
「食べた」
「そっか」
それだけだった。
結衣はリビングのソファに翔太と並んで座って、翔太が見ていたテレビをそのまま一緒に見た。
バラエティ番組が、ニュースに変わって、また別のバラエティに変わった。
「ねえ」
翔太が言った。
「なんで後ろからついてきてたの」
結衣が、少し固まった。
「……バレてた?」
「全然バレてなかった。昨日、お姉ちゃんが言うまで知らなかった」
「じゃあなんで」
「なんとなく、そういう感じがした。お姉ちゃんがそういうことする理由が、ひとつしかないじゃん」
結衣は、しばらく黙っていた。
「……迷惑だった?」
翔太は首を振った。
「迷惑じゃない。なんか、知ってくれてる人がいるんだと思ったら、少し楽だった。名前知らない人でも、知ってくれてる人がいるのと、完全に誰も知らないのとは違う気がした」
結衣は、窓の外を見た。
「名前知らない人って、ひどくない?」
「お姉ちゃんだってわかってたって言ってるじゃん」
「じゃあ最初からそう言いなよ」
翔太が、少し笑った。
結衣も、つられて笑った。
誠司が帰宅すると、夕食の準備が整っていた。
翔太も、テーブルに着いていた。
昨夜と同じ席で、でも昨夜と違う顔をして。
目はまだ少し腫れていたが、背筋が少し伸びていた気がした。
「いただきます」
四人の声が重なった。
食べながら、誠司がぼそっと言った。
「俺も、ひとつ告白しとく」
三人が誠司を見た。
「最近ずっと、残業のたびに部下と飯食ってた。ラーメン屋に行ってた。それだけだ。浮気じゃない。でも、美紀に言ってなかったのは、悪かった」
美紀が、箸を置いた。
「……知ってた」
「え」
「GPS、入れてたって言ったじゃない。だいたいわかってた。ラーメン屋の近くに毎回止まってたから」
「じゃあなんで問い詰めたんだ」
「わかってても、聞きたかったの。あなたの口から」
誠司は、何も言えなかった。
結衣が「なんか、ドラマみたい」と言った。
翔太が「うち、ドラマだったの」と言った。
「違う」と美紀と誠司が同時に言った。
翔太が少し笑った。
結衣も笑った。
美紀が「笑いごとじゃないの」と言いながら、自分も笑っていた。
食後、四人がテーブルに残っていた。
誰も「片付けよう」と言わなかった。
片付けより、今夜はこのテーブルにいることの方が、大事な気がしていた。
「ラーメン屋のこと」と誠司が言った。
「石川と行ってた。それだけのことが、なんで言えなかったのかは、今もよくわからない」
美紀が「私もGPSのこと、ずっと言えなかった。SNSで愚痴ってたのも、言えなかった」と言った。
「え、SNS?」と結衣が聞いた。
「……『浮気調査中の主婦』ってアカウント、作ってた」
一瞬の沈黙があった。
「お母さんが?」翔太が言った。
「そう」
「フォロワー、何人いたの」
「……二百人くらい」
結衣が「多っ」と言った。
翔太が「お母さん、インフルエンサーだったの」と言った。
「違う!愚痴ってただけ!」
笑い声が上がった。
美紀も、笑いながら「消すわ」と言った。
「消すの?」
「消す。もう、いらないもん」
誠司が「俺のことが原因で、そんなことになってたのか」と言った。
「あなたのせいだけじゃない。私の問題でもある」美紀は言った。
「でも、ちゃんと言えてよかった」
誠司は「そうだな」と言った。
「俺も、言えてよかった」
「私も」
結衣が言った。
「一年間、文学部のこと言えてなかった。お父さんが、手堅い方がいいって言ってたから」
誠司が「それは——悪かった」と言った。
「俺がそんなことを言ったせいで、お前が一年間黙ってたのか」
「お父さんのせいだけじゃない。言えなかった私の問題でもある」
「お前が美紀みたいなことを言う」
「親子だから」
美紀が少し笑った。
「塾、サボってたのは悪かったと思ってる。でも、文学部のことは——後悔してない」
「後悔するな」誠司は言った。
「お前が行きたい大学に行け」
結衣は、少し間を置いてから「……ありがとう」と言った。
ぶっきらぼうな「ありがとう」だったが、それが結衣らしかった。
「なあ」
翔太が言った。
四人が翔太を見た。
翔太は、テーブルの上で両手を組んで、少し考えてから口を開いた。
「みんな、嘘ついてたの?」
「……ついてた」
「……ついてた」
「……ついてた」
三人が、ほぼ同時に言った。
翔太は、その答えを聞いて、しばらく黙っていた。
誠司は、翔太の顔を見た。
何かを考えてるような顔だった。
三人の答えを、頭の中で並べているような顔だった。
それから、翔太の表情が、少し変わった。
呆れたような、でも不思議そうな、初めて見る顔だった。
「なんだ」
翔太が言った。
「俺だけじゃないじゃん」
その一言が、テーブルに落ちた。
最初、誰も笑わなかった。
誠司が、先に声を出した。
笑い声、というより、何かが崩れたような音だった。
美紀が、目に涙を浮かべたまま、口を押さえて笑った。
結衣が「バカじゃないの、うちの家族」と言って、笑った。
翔太が「バカだったんだ、みんな」と言って、笑った。
四人が、笑った。
泣きながら、笑った。
何がそんなにおかしいのか、説明できない笑いだった。
おかしいというより、全部が一気に溢れてきたような、そういう笑いだった。
長い時間をかけて積み重なってきた嘘と心配と孤独と優しさが、「俺だけじゃないじゃん」という一言で、一気に解けていくような笑いだった。
笑いが収まった後、テーブルの上に静けさが戻ってきた。
さっきまでの静けさとは違う静けさだった。
誠司は、目を拭いながら「うちの家族、全員バカだったな」と言った。
美紀が「そうね」と言った。
結衣が「でも、なんかよかった気がする」と言った。
翔太が「なんで?」と聞いた。
「全員でバカだったから。一人だけバカだったより、ましじゃない?」
翔太が「……それ、慰めになってる?」と聞いた。
「なってないかもしれない」と結衣が言った。
「でも、そんな気がした」
誠司が「なってる」と言った。
「なってると思う」
美紀が「私も」と言った。
翔太は、少し考えてから「……まあ、そうかも」と言った。
それだけの会話だった。
でも、今夜の田中家に必要なものが、その会話の中に全部あった。
夜、片付けを終えて、翔太が二階に上がろうとした。
「翔太」
誠司が呼んだ。
翔太が振り返った。
「学校のこと、どうするかは——焦らなくていい。休んでもいい。行き方を変えてもいい。先生に言うのも、お前が決めていい。俺たちは、お前が決めたことを、一緒に考える」
翔太は、階段の途中で誠司を見た。
「……一緒に、考えてくれるの?」
「そうだ」
「決めてくれるんじゃなくて?」
「決めるのはお前だ。俺たちは一緒に考える係」
翔太が少し笑った。
「……考える係、か」
「いやか」
「いやじゃない」
翔太は「おやすみ」と言って、階段を上がっていった。
誠司は、翔太の足音が消えるまで、廊下に立っていた。
その夜、美紀はスマホを開いた。
GPSのアプリを開いた。
赤いピンが「自宅」にあった。
美紀はそのピンを、しばらく見つめた。
それから、アプリを削除した。
確認画面が出た。
「このアプリを削除しますか?」
「削除する」
アイコンが消えた。
美紀はスマホを置いて、リビングの電気を消した。
誠司がソファから立ち上がって、「消したのか」と言った。
「消した」
「……ありがとう」
「あなたも、ちゃんと言ってくれたから」
二人は並んで、廊下を歩いた。
二階から、翔太の部屋の電気がまだついているのが見えた。
結衣の部屋も、まだ明かりがあった。
「明日も、いろいろあるかもな」
誠司がぼそっと言った。
「そうね」美紀は言った。
「でも、今日よりはましになると思う」
「そうだな」
誠司が、美紀の肩にそっと手を置いた。
美紀は、その手を、そのままにしておいた。
田中家の、長い一日が、静かに終わった。




