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第十八話 おじいちゃんが、来てしまった

 日曜の朝、十時を少し過ぎた頃、田中家の玄関のインターホンが鳴った。


「はーい」と美紀が玄関に向かった。

 ドアを開けた美紀が、一瞬固まった。

「……お義父さん?」

 玄関先に立っていたのは、誠司の父、田中義雄だった。

 七十二歳、グレーのジャケットを着て、小さな旅行用のキャリーバッグを引いている。

 連絡も、前触れもなかった。

「翔太が学校行ってないと聞いた」

 義雄は、それだけ言って、玄関を上がり込んできた。


 リビングでテレビを見ていた誠司が、声を聞いて飛び出してきた。

「親父?なんでここに——」

「お前が教えてくれないからだ」

 義雄は、靴を脱いで、リビングにずかずかと入ってきた。

 誠司は、慌ててその後を追った。

「誰から聞いたんだ」

「お前の妹だ。電話で世間話してたら、出てきた」

 誠司の妹、つまり義雄の娘が、何かのタイミングで美紀と連絡を取っていたらしい。

 家族の中の、誠司の知らない情報網があったということだ。


「来るなら、連絡しろよ」

「連絡したら、来るなって言われるだろうが」

 義雄は、ソファにどっかりと座った。

「翔太は、どこだ」


 翔太は、二階の自分の部屋で、おじいちゃんの声を聞いていた。

 義雄に会うのは、半年ぶりだった。

 盆休みに一度、田中家から義雄の家に車で行った記憶がある。

 あのときの義雄は、いつもと同じ義雄だった。

 怒っているわけでもなく、優しいわけでもなく、ただそこにいて、必要なことしか話さない祖父だった。


 翔太は、布団から出て、ゆっくり階段を降りた。

 リビングに入ると、義雄がソファに座っていた。

「……おじいちゃん」

 義雄は、翔太を見た。

 しばらく、何も言わなかった。

「学校、行ってないらしいな」

 義雄が言った。

 ストレートな言い方だった。

 気を遣う様子も、優しく聞く様子もない。

 ただ事実を確認するような言い方だった。


「……うん」

「なんでだ」

 誠司が「親父、急にそんなふうに——」と止めようとした。

「いい」

 翔太が言った。

「いじめられてた。それで、行けなくなった」

 はっきりとした声だった。

 あの夜に初めて口にした言葉を、今、祖父の前でも、ちゃんと言えた。


 義雄は、しばらく翔太を見つめた。

「根性が——」


 義雄が、言いかけた。

 誠司の体が、強張った。

 美紀が、何か言おうと前に出た。

 でも、義雄は、その続きを言わなかった。

 言葉が、途中で止まった。

 翔太が、その止まった義雄を、不思議そうに見ていた。


「……おじいちゃんは」

 翔太が、口を開いた。

「何でも一人でできるの?怖いものとか、ないの?」

 リビングが、静かになった。


 無邪気な質問だった。

 叱られた直後に出すような、的外れな質問のようにも聞こえた。

 でも、翔太は本気で聞いていた。

 おじいちゃんが、なぜ「根性が足りん」と言いかけて止まったのか、その答えを知りたいような顔をしていた。


 義雄は、翔太の問いに、すぐには答えなかった。

 七十二年間、誰かに「怖いものはあるか」と聞かれたことが、義雄にはなかった。

 聞かれたことがなかったというより、聞かれそうになるたびに、その質問が来る前に話を逸らしてきた。

 それが義雄の生き方だった。


 孫から、そんな質問が来るとは思っていなかった。

 長い沈黙が、リビングに落ちた。

 誠司は、父の顔を見ていた。

 いつも厳しい顔をしている父。

 子どもの頃から、誠司は父に弱さを見せたことがない。

 父も、誠司に弱さを見せたことがない。

 それが当たり前だと思って、四十五年間生きてきた。


 でも、今、義雄の顔に、誠司が見たことのない表情が浮かんでいた。

 迷っている顔。

 答えを探している顔。

 こんな顔を、誠司は父に見たことがなかった。


「……俺も」

 義雄が、ゆっくりと口を開いた。

「誰にも言えんかったことが、ある」

 声が、少しかすれていた。

 翔太は、黒目を義雄に向けたまま、待っていた。

「お前のばあさんが死んだとき——」

 義雄が、続けた。


 誠司の母、つまり義雄の妻が亡くなったのは、八年前のことだ。

 誠司もよく覚えている。

 葬式の日、義雄は涙を見せなかった。

 喪主として、淀みなく挨拶をして、淀みなく対応した。

 誠司は、あの日の父の様子を「強い人だ」と思った。


「強かったわけじゃない」

 義雄が言った。

 誠司の心臓が、跳ねた。


「みんなが帰った夜、台所で、一人で泣いた」

 義雄は、翔太を見ながら、続けた。

 誠司には目を向けなかった。

「誰にも見せなかった。お前の父さんにも、誰にも。男は泣くもんじゃないと思ってた。泣いたら、弱いと思われると思ってた」

 リビングの誰も、何も言わなかった。


「お前の目、おかしいんじゃないかと思った瞬間がある」

 義雄が、翔太を見て言った。

「お前の目が、俺の若い頃の目に似てた。誰にも本当のことを言えない目だ。お前のお父さんから、お前が『楽しい』ばっかり言ってる、って聞いたとき、嫌な感じがした。本当に楽しい人間は、毎日『楽しい』なんて言わん。当たり前すぎて、言わん」

 誠司は、何も言えなかった。

 父が、翔太の異変に気づいていた。

 自分よりも先に。


「誠司」

 義雄が、初めて誠司を呼んだ。

「お前、知ってたか」

 誠司は、しばらく答えられなかった。


「……最近、気づいた」

「遅いな」

「……うん」

 義雄は、それ以上、誠司を責めなかった。


「俺も、遅かった」

 ぽつりと、義雄が言った。

「お前のばあさんが死んだ夜、台所で泣いてるのを、お前に見せてたら——」

 義雄の言葉が、また途中で止まった。

「お前が、もっと早く弱さを見せられる人間になってたかもしれない。お前は、俺を見て育った。俺が泣かなかったから、お前も泣くのを我慢する人間になった。それで——」

 義雄が、リビングをぐるりと見渡した。

 美紀、結衣、翔太。

「翔太にまで、それが伝わったのかもしれん」


 誠司は、その場に立っていられなくなった。

「ちょっと、トイレ」

 そう言って、リビングを出た。

 廊下に出て、壁に背中をもたれて、天井を見上げた。


 親父も、そうだったのか。

 誠司の頭の中で、何かが繋がっていく感覚があった。

 自分が、感情を表に出すのが苦手な人間だということ。

 怒っていても、悲しくても、それを家族にうまく言葉にできないこと。

 あの夜、夜の公園で泣いたとき、それが何十年ぶりかの涙だったこと。


 全部、父から受け継いだものだったのかもしれない。

 怒鳴られて育ったわけじゃない。

 厳しくされて育ったわけでもない。

 ただ、父が弱さを見せない人間だったから、自分も弱さを見せない人間になった。

 それだけのことだったのかもしれない。


 そして、それが、翔太にまで伝わっていた。

 誠司は、壁に背中をつけたまま、目を閉じた。

 怒りは、湧かなかった。

 父を責める気持ちは、不思議となかった。

 代わりに、別の感情が、誠司の中に広がっていった。


 父は、ずっと一人だったのかもしれない。

 妻を亡くしてから八年間、義雄は一人で暮らしてきた。

 誠司は、月に一度電話するくらいで、それ以上の連絡はしてこなかった。

 義雄も、それ以上を求めてこなかった。

 それが「親子の適度な距離」だと、誠司は思っていた。

 でも、本当は、義雄は寂しかったのかもしれない。


 以前、義雄からの不在着信があった夜。

 誠司は気づかず眠った。

 そのあと、誠司が折り返したとき、義雄は「ただかけてみた」と言った。

 あの言葉の重さを、誠司はあのとき、うまく受け取れなかった。

 七十二年間、用のあるときしか電話をかけてこなかった父が、用もなく電話をかけてきた。

 あれは、寂しさだったのかもしれない。


 誠司は、これまで父のことを「頑固で、感情を見せない、昭和の父親」だと思っていた。

 それは間違っていなかったかもしれない。

 でも、それだけじゃなかった。

 頑固さの下に、孤独があった。

 感情を見せない態度の下に、見せ方を知らないだけの、不器用な優しさがあった。

 誠司は、初めて、父を「怒り」の対象としてではなく、「孤独」を抱えた一人の人間として見た。

 それは、誠司の中で、何かが静かに変わる瞬間だった。


 誠司がリビングに戻ると、義雄はまだソファに座っていた。

 翔太が、義雄の隣に座っていた。

「おじいちゃん、今日は泊まるの?」

「泊まる。お前の父さんが、嫌だと言わない限り」

 翔太が、誠司を見た。


 誠司は、少し間を置いてから言った。

「……泊まればいい」

 義雄は、誠司を見た。

 何も言わなかったが、その目に、少しだけ柔らかいものがあった。


 夕方、美紀が義雄のための布団を準備していると、誠司がやってきて、布団を運ぶのを手伝った。

「お義父さん、なんか今日、いつもと違うね」

 美紀が言った。

「……うん」

「なんかあったの」


 誠司は、布団を畳む手を止めて、少し考えた。

「親父が、若い頃から、誰にも弱さを見せない人だったんだ。母さんが死んだときも、泣かなかった——いや、泣いてたんだけど、誰にも見せなかった」

「そうなの」

「それを、今日初めて聞いた。七十二年生きてきて、誰にも言えなかったことがある、って」

 美紀は、布団を整える手を止めて、誠司を見た。

「あなたも、似てるね」

「……かもな」

 誠司は、布団を畳みながら、少し笑った。

 自分でも、その笑いの意味がよくわからなかった。


 その夜、義雄はリビングのソファで布団に入った。

 翔太が、寝る前にリビングに顔を出した。

「おじいちゃん」

「なんだ」

「今日、ありがとう」

 義雄は、少し驚いた顔をした。

「何が、ありがとうだ」

「わかんないけど。なんか、ありがとうって言いたかった」

 義雄は、しばらく翔太を見て、それから「……おやすみ」とだけ言った。

 翔太は「おやすみ」と言って、階段を上がっていった。


 リビングに一人残った義雄は、しばらく天井を見上げていた。

 廊下を通りかかった誠司が、その様子を見て、足を止めた。

 声をかけようとして、やめた。

 今夜は、何も言わなくていい気がした。


 誠司は、リビングの電気を消す前に、義雄に毛布をもう一枚かけた。

 義雄は、目を閉じていた。

 起きているのか、眠っているのか、誠司にはわからなかった。

 ただ、その顔が、今日初めて見た顔の中で、一番穏やかな顔だった。

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