表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/25

第十九話 朝の味噌汁は、ぬるくていい

 田中家の朝は、いつも七時二十分に始まる。


 それは、今も変わらない。

 ただ、今朝は少しだけ違う音から始まった。

 リビングのソファで、義雄がまだ寝息を立てていた。

 昨夜泊まった布団から起き上がる気配がない。

 誠司がそっと近づいて、毛布を直してやった。

 父の寝顔を見るのも、何年ぶりかわからなかった。


 七時を過ぎて、美紀がキッチンに立った。

 味噌汁の鍋に、出汁を入れる。

 野菜を切る。

 いつもと同じ手順、同じ時間。

 それでも、立っている美紀の背中には、いつもと違う何かがあった。

 肩の力が、少し抜けていた。


 翔太が、階段を降りてきた。

 いつもより、ゆっくりだった。

 三秒かけて顔を作る、という動作を、今朝の翔太はしなかった。

 していないことに、自分でも気づいていなかった。

 それくらい自然に、素の顔のまま、リビングに入ってきた。


「おはよう」

 美紀が言った。

「おはよう」

 翔太が言った。

「!」がなかった。

 声を張ることもなかった。

 ただの「おはよう」だった。

 それが、何よりも自然だった。

 結衣も、降りてきた。


「おはよ」

 いつも通りの「おはよ」だった。

 でも、結衣は席に着く前に、トーストの皿から一枚を、半分にちぎった。

 それを、翔太の皿にそっと置いた。

「……何」

 翔太が聞いた。

「お腹空いてるかと思って」

「自分のトーストあるけど」

「いいから食べな」

 翔太は、少し戸惑った顔をしたが、ちぎられたトーストを口に入れた。

「……ありがと」

「うん」


 それだけのやり取りだった。

 でも、結衣がこんなふうに弟に何かを「あげる」のは、珍しいことだった。

 これまでの結衣なら、トーストの取り分を黙って自分の分にしていたはずだ。


 美紀は、味噌汁を四人分の椀に注ぎながら、言った。

「GPSアプリ、消したわ」

 誠司に向かって、もう一度言った。

 確認のためというより、口にすることで、本当に消したことを実感したいような言い方だった。


「SNSも消した」

 誠司は、味噌汁を一口飲んでから「……そうか」と言った。

 それだけの会話だった。

 でも、その「そうか」には、ちゃんと意味があった。


 美紀は、椀を翔太の前に置いた。

「冷めないうちに、食べて」

 翔太は「うん」と言って、味噌汁を一口飲んだ。

「……ぬるい」

 翔太が言った。

 美紀が「あ、ごめん。温め直すね」と立ち上がろうとした。

「いい」

 翔太が言った。

「ぬるくていい。今日は、これでいい」

 美紀は、立ち上がりかけた腰を、もう一度椅子に戻した。

 ぬるい味噌汁を、もう一口飲んだ翔太の顔が、特に不満そうではなかった。

 熱くなくても、いい朝がある。

 美紀には、それが、なぜかわかる気がした。


「……なんだ、もう食ってるのか」

 義雄が、寝癖をつけたまま、リビングに姿を見せた。


「おはよう、おじいちゃん」

 翔太が言った。

「おはよう」

 義雄が、ぶっきらぼうに返した。

 美紀が「お義父さんも、座ってください。味噌汁、すぐ用意します」と言った。

「ぬるくていい」

 義雄が、翔太の言葉をそのまま使った。

 美紀は、少し驚いた顔をして、それから笑った。

「……わかりました」


 五人で食べる朝食は、田中家にとって珍しいことだった。

 義雄が来たのは初めてのことではないが、こうして朝食を一緒に食べることは、これまでほとんどなかった。

 義雄は、いつも日帰りで帰っていったし、誠司も特に泊まることを勧めなかった。


 今朝は、誰もそれを急かさなかった。

 義雄は、味噌汁を飲みながら、テーブルの上の家族を眺めていた。

 翔太がトーストを食べる様子、結衣がスマホをちらりと見て、また伏せる様子、誠司がコーヒーに口をつける様子、美紀が立ったり座ったりする様子。


「賑やかだな」

 義雄が、ぼそっと言った。

「いつもこんなにうるさいわけじゃないよ」結衣が言った。

「うるさいとは言ってない」

「賑やかって言ったじゃん」

「賑やかとうるさいは違う」

 翔太が、小さく笑った。


 食卓の上に、四台のスマホが裏向けに置かれていた。

 いつも同じ光景があった。

 スマホを裏向けに置くこと。それが、田中家の暗黙のルールだった。


 あの朝は、嘘を隠すための裏向けだった。

 見られたくないアプリ、見られたくないやり取り、見られたくない検索履歴。

 誰もが何かを隠すために、画面を伏せていた。

 今朝も、スマホは裏向けだった。


 でも、今朝の裏向けには、隠す意味がなかった。

 美紀のスマホには、もうGPSのアプリも、SNSのアカウントもない。

 誠司のスマホには、真央との連絡履歴があるが、それを隠す必要はもうない。

 結衣のスマホには、文学部のオープンキャンパスの予定が入っている。

 それを誰かに見られても、もう困らない。

 ただ、食事中はスマホを見ない、という習慣だけが、変わらずに残っていた。

 習慣の形は同じでも、その中身が、全部違っていた。


 誠司は、味噌汁を飲みながら、テーブルを見渡した。

 翔太。結衣。美紀。義雄。

 一週間前、このテーブルには、もっと違う空気があった。

 誰もが何かを隠して、誰もが何かに気づかないふりをして、表面だけ整えていた。


 今は、まだ何も解決していない。

 翔太の学校のことは、これから先生と話さなければならない。

 結衣の進路も、まだ正式に決まったわけじゃない。

 義雄の孤独も、今日泊まったからといって消えるものじゃない。

 誠司と真央の関係も、これからどう付き合っていくか、まだ言葉にしていない。

 何も解決していないのに、今朝の食卓は、なぜか軽かった。

 たぶん、解決していなくても、隠していないからだ。

 誠司は、そう思った。

 隠さなくていい、というだけで、こんなに違う。


「お父さん」

 翔太が言った。

「今日、学校のこと、先生と話してくれるの」

 誠司は、頷いた。

「午後、行く。お前も来るか、それとも俺だけで行った方がいいか」

「……俺も、行く」

 少し間を置いて、翔太が言った。

「言いたいこと、自分でも言いたい」

 誠司は、その言葉を、しばらく見つめた。

「わかった。一緒に行こう」


 食事が終わって、それぞれが片付けを始めた。

 義雄が、椀を流しに運びながら、誠司に言った。


「俺は、今日帰る」

「もう?もう少しいてもいいだろ」

「いや、帰る。一人の生活が、長いからな。長居すると、調子が狂う」

 誠司は、それ以上引かなかった。

「また、来てくれよ」

 義雄は、誠司を見た。

「……お前が呼ぶなら、来る」

 ぶっきらぼうな返事だったが、誠司には、それで十分だった。


 翔太が、玄関まで義雄を見送りに来た。

「おじいちゃん、また来てね」

「うん」

 義雄は、キャリーバッグを引いて、玄関を出た。


 田中家の朝が、また始まっていく。

 味噌汁はぬるかったけれど、それでよかった。

 熱くなくても、いい朝があるということを、今朝、家族全員が、それぞれの形で知った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ