第八話 GPSよ、頼む、お前だけが頼りだ
田中美紀は、自分がこれほど地図を見る人間だとは思っていなかった。
一日に何度もアプリを開く。
朝、誠司が出勤した直後。
昼、パートから帰ってきたとき。
夜、誠司の帰りが遅くなると思ったとき。
そして夜中、眠れなくて起き上がったとき。
赤いピンは動く。
動くたびに美紀の心も動く。
会社、駅、会社の近くの何か、また会社——そのたびに安堵したり、緊張したり、また安堵したりを繰り返す。
こんな生活をするつもりじゃなかった。
でも、始めてしまったものは止められない。それが最近の美紀の実感だった。
GPSを鞄に仕込んで二週間が経ったある夜、誠司が帰宅してすぐに上着を洗濯に出してきた。
「これ、クリーニング出した方がいいか」
「出す前に確認する」と美紀は言って、コートを受け取った。
そのまま誠司に背中を向けてポケットを探るふりをしながら、エコバッグの底に入れてあったGPS端末をさりげなく取り出した。
うまくいった、と思った。
翌朝、アプリを開いた。
赤いピンが動いていなかった。
場所は——家の中。
そういえば今日は誠司の在宅勤務の日だった。
美紀は画面を閉じた。
GPS端末を、どこかに隠しておかなければならなかった。
誠司が家にいる間は鞄に戻せない。
引き出しの奥にしまっておいて、夜、誠司が寝てから鞄に入れ直す作戦を立てた。
その夜、誠司が思ったより早く寝室に入った。
美紀はソファで三十分待って、静かに立ち上がり、玄関の鞄を開けた。
鞄が、なかった。
誠司が明日も在宅だから、鞄を寝室に持ち込んでいた。
美紀はしばらく玄関で立ち尽くした。
GPS端末を握ったまま、どうしようかと考えた。
寝室に入るわけにはいかない。
かといってこのまま持っていても意味がない。
結局その夜は端末をキッチンの引き出しに戻して、翌朝、誠司が仕事部屋に入ったすきに鞄へ仕込んだ。
これほどの労力を、こんなことに使っている。
美紀は自分のことが、少し笑えた。
笑えて、少し悲しかった。
GPS作戦が再起動してから一週間、赤いピンは誠司の正直な一日を毎日報告してきた。
朝八時、家を出る。
八時十五分、最寄り駅。
八時四十分、会社の最寄り駅。
九時、会社のビルの前あたり——以降、夕方まで「会社」に鎮座。
当たり前の一日だ。
当たり前の一日を確認して、美紀は毎日少しだけ安堵した。
ただし、夕方以降になると話が変わった。
ピンが動く。「会社」から「駅周辺」へ。
そこで三十分、一時間と止まることがある。
誠司はそういう夜、「少し遅くなる」とだけ連絡してくる。
どこにいるかは言わない。
聞いたことがないから、聞けないのか聞かないのか、美紀にはわからなくなっていた。
駅周辺のどこかで、誰かと食事をしているのだろう。
それだけのこと。
それだけのことが、わかってはいるのに、止められない。
その夜、美紀はアプリを開いて、目を疑った。
赤いピンが、見覚えのある場所に止まっていた。
駅から少し離れた住宅街の一角。
そこには——美紀の記憶が正しければ——誠司がプロポーズしたレストランがあるはずだった。
十六年前の秋、まだ付き合い始めて一年も経っていない頃、誠司が「行きたい店がある」と言って連れていってくれた小さなイタリアンレストラン。
テーブルに花が一輪、ワインの味はよくわからなかった、でも誠司が「ここで言おうと思って」と照れながら切り出した言葉は覚えている。
美紀は立ち上がった。
スマホを両手で持って、ピンをもう一度確認した。
場所は、確かにあのあたりだ。
プロポーズのレストランで、誰かと食事をしている。
頭の中で何かが一気に組み上がった。
ハンドクリームの香り。
遅い帰宅。
「少し遅くなる」とだけのLINE。
そして今夜、あの場所。
投稿しようとした。
SNSのアプリを開いて、「夫が——」と打ちかけた。
指が、止まった。
画面を見ながら、美紀は自分に問いかけた。
投稿して、どうする。
知らない誰かに「大変でしたね」と言ってもらって、どうする。
聞けばいいじゃない、直接。
頭の中でその声がした。
先週、SNSのフォロワーから来たコメントの声だ。
「信じたいなら、聞いてみた方がいいと思います。スマホの画面の向こうより、目の前の人の方が、きっと正確です」と書いてあった。
読んだときは「そんなこと言われても」と思った。
でも今夜は、その言葉が違う重さで頭の中に響いた。
美紀はSNSのアプリを閉じた。
スマホをテーブルに置いた。
台所に向かって、冷めていたミネストローネを火にかけた。
鍋をかき混ぜながら、今夜は誠司が帰ってきたら聞いてみようと思った。
どこにいたの、と。
笑顔で、普通に。
それだけのことが、どれほど難しいかはわかっていた。
でも、やってみようと思った。
初めて、そう思った。
誠司が帰ってきたのは、十時を少し過ぎた頃だった。
「ただいま」
「おかえり」
美紀はソファから立ち上がった。
誠司が靴を脱いで、コートをハンガーにかける。
いつもの動作。
いつもの背中。
聞こう、と思った。
「ミネストローネ、温めようか」
口から出たのは、それだった。
誠司が振り向いた。
「ああ、頼む。腹減った」
「今日、遅かったね」
「ちょっと得意先と飯食って」
得意先と。
美紀はキッチンに向かいながら、その言葉を口の中で転がした。
得意先と。
それだけ。
それだけで済む関係を、十六年かけて作ってきた。
それが今は、その「だけ」が息苦しかった。
「どこで食べたの」
言えた。
聞けた。
誠司が少し間を置いた。
その一秒を、美紀は数えた。
「駅の近くのイタリアン。先方の指定でな」
美紀は鍋のミネストローネをかき混ぜた。
イタリアン。
駅の近く。
先方の指定。
あのレストランかもしれないし、違うかもしれない。
駅の近くにイタリアンは他にもある。
赤いピンが示していた場所が正確にどこかなんて、美紀には確かめようがない。
「そう」と美紀は言った。
「温まったよ」
「ありがとう」
誠司がカウンターに座って、ミネストローネを食べ始めた。
「うまいな、これ」
「昨日の残りだけど」
「十分うまい」
美紀はその横に立って、お茶を入れた。
聞けた、と思った。
「どこで食べたの」と聞けた。
それだけだけれど、いつもと違った。
いつもは聞かなかった。
怖くて聞けなかったのか、聞く気力がなかったのか、聞いても意味がないと思っていたのか——とにかく、今夜は聞けた。
答えが本当かどうかはわからない。
でも聞けた、ということは本当だ。
誠司が寝室に入った後、美紀はソファに座ってスマホを開いた。
SNSのアプリを開いて、少し迷ってから投稿した。
「今夜、夫に『どこで食べたの』と聞けました。十六年目で初めて。答えが本当かどうかはわかりません。でも聞けた。それだけのことが、今夜は少し誇らしかったです」
投稿して、スマホを置いた。
しばらくして通知が来た。
いつものフォロワーから「いいね」がついた。
それから、先週コメントをくれた人から返信が来た。
「よかったです。聞けたこと、すごいと思います。私もやってみます」
美紀はその一文を読んで、少し笑った。
やってみます、か。
私もやってみた。
次は何をやってみようか、とは考えなかった。
今夜はとりあえず、これでよかった。
アプリをもう一度開いた。
赤いピンは「自宅」にあった。
当たり前のこと。
美紀は今夜だけ、そのピンを「当たり前だ」と思えた気がした。
明日もそう思えるかどうかは、わからないけれど。




