表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/20

第八話 GPSよ、頼む、お前だけが頼りだ

 田中美紀は、自分がこれほど地図を見る人間だとは思っていなかった。


 一日に何度もアプリを開く。

 朝、誠司が出勤した直後。

 昼、パートから帰ってきたとき。

 夜、誠司の帰りが遅くなると思ったとき。

 そして夜中、眠れなくて起き上がったとき。


 赤いピンは動く。

 動くたびに美紀の心も動く。

 会社、駅、会社の近くの何か、また会社——そのたびに安堵したり、緊張したり、また安堵したりを繰り返す。

 こんな生活をするつもりじゃなかった。

 でも、始めてしまったものは止められない。それが最近の美紀の実感だった。


 GPSを鞄に仕込んで二週間が経ったある夜、誠司が帰宅してすぐに上着を洗濯に出してきた。

「これ、クリーニング出した方がいいか」

「出す前に確認する」と美紀は言って、コートを受け取った。

 そのまま誠司に背中を向けてポケットを探るふりをしながら、エコバッグの底に入れてあったGPS端末をさりげなく取り出した。

 うまくいった、と思った。

 翌朝、アプリを開いた。

 赤いピンが動いていなかった。

 場所は——家の中。


 そういえば今日は誠司の在宅勤務の日だった。

 美紀は画面を閉じた。

 GPS端末を、どこかに隠しておかなければならなかった。

 誠司が家にいる間は鞄に戻せない。

 引き出しの奥にしまっておいて、夜、誠司が寝てから鞄に入れ直す作戦を立てた。


 その夜、誠司が思ったより早く寝室に入った。

 美紀はソファで三十分待って、静かに立ち上がり、玄関の鞄を開けた。

 鞄が、なかった。

 誠司が明日も在宅だから、鞄を寝室に持ち込んでいた。


 美紀はしばらく玄関で立ち尽くした。

 GPS端末を握ったまま、どうしようかと考えた。

 寝室に入るわけにはいかない。

 かといってこのまま持っていても意味がない。

 結局その夜は端末をキッチンの引き出しに戻して、翌朝、誠司が仕事部屋に入ったすきに鞄へ仕込んだ。

 これほどの労力を、こんなことに使っている。

 美紀は自分のことが、少し笑えた。

 笑えて、少し悲しかった。


 GPS作戦が再起動してから一週間、赤いピンは誠司の正直な一日を毎日報告してきた。

 朝八時、家を出る。

 八時十五分、最寄り駅。

 八時四十分、会社の最寄り駅。

 九時、会社のビルの前あたり——以降、夕方まで「会社」に鎮座。

 当たり前の一日だ。

 当たり前の一日を確認して、美紀は毎日少しだけ安堵した。


 ただし、夕方以降になると話が変わった。

 ピンが動く。「会社」から「駅周辺」へ。

 そこで三十分、一時間と止まることがある。

 誠司はそういう夜、「少し遅くなる」とだけ連絡してくる。

 どこにいるかは言わない。

 聞いたことがないから、聞けないのか聞かないのか、美紀にはわからなくなっていた。

 駅周辺のどこかで、誰かと食事をしているのだろう。

 それだけのこと。

 それだけのことが、わかってはいるのに、止められない。


 その夜、美紀はアプリを開いて、目を疑った。

 赤いピンが、見覚えのある場所に止まっていた。

 駅から少し離れた住宅街の一角。

 そこには——美紀の記憶が正しければ——誠司がプロポーズしたレストランがあるはずだった。


 十六年前の秋、まだ付き合い始めて一年も経っていない頃、誠司が「行きたい店がある」と言って連れていってくれた小さなイタリアンレストラン。

 テーブルに花が一輪、ワインの味はよくわからなかった、でも誠司が「ここで言おうと思って」と照れながら切り出した言葉は覚えている。


 美紀は立ち上がった。

 スマホを両手で持って、ピンをもう一度確認した。

 場所は、確かにあのあたりだ。

 プロポーズのレストランで、誰かと食事をしている。

 頭の中で何かが一気に組み上がった。

 ハンドクリームの香り。

 遅い帰宅。

「少し遅くなる」とだけのLINE。

 そして今夜、あの場所。


 投稿しようとした。

 SNSのアプリを開いて、「夫が——」と打ちかけた。

 指が、止まった。

 画面を見ながら、美紀は自分に問いかけた。

 投稿して、どうする。

 知らない誰かに「大変でしたね」と言ってもらって、どうする。

 聞けばいいじゃない、直接。

 頭の中でその声がした。

 先週、SNSのフォロワーから来たコメントの声だ。

「信じたいなら、聞いてみた方がいいと思います。スマホの画面の向こうより、目の前の人の方が、きっと正確です」と書いてあった。

 読んだときは「そんなこと言われても」と思った。

 でも今夜は、その言葉が違う重さで頭の中に響いた。


 美紀はSNSのアプリを閉じた。

 スマホをテーブルに置いた。

 台所に向かって、冷めていたミネストローネを火にかけた。

 鍋をかき混ぜながら、今夜は誠司が帰ってきたら聞いてみようと思った。

 どこにいたの、と。

 笑顔で、普通に。

 それだけのことが、どれほど難しいかはわかっていた。

 でも、やってみようと思った。

 初めて、そう思った。


 誠司が帰ってきたのは、十時を少し過ぎた頃だった。

「ただいま」

「おかえり」

 美紀はソファから立ち上がった。

 誠司が靴を脱いで、コートをハンガーにかける。

 いつもの動作。

 いつもの背中。


 聞こう、と思った。

「ミネストローネ、温めようか」

 口から出たのは、それだった。

 誠司が振り向いた。

「ああ、頼む。腹減った」

「今日、遅かったね」

「ちょっと得意先と飯食って」


 得意先と。

 美紀はキッチンに向かいながら、その言葉を口の中で転がした。

 得意先と。

 それだけ。

 それだけで済む関係を、十六年かけて作ってきた。

 それが今は、その「だけ」が息苦しかった。


「どこで食べたの」

 言えた。

 聞けた。


 誠司が少し間を置いた。

 その一秒を、美紀は数えた。

「駅の近くのイタリアン。先方の指定でな」

 美紀は鍋のミネストローネをかき混ぜた。

 イタリアン。

 駅の近く。

 先方の指定。

 あのレストランかもしれないし、違うかもしれない。

 駅の近くにイタリアンは他にもある。

 赤いピンが示していた場所が正確にどこかなんて、美紀には確かめようがない。


「そう」と美紀は言った。

「温まったよ」

「ありがとう」

 誠司がカウンターに座って、ミネストローネを食べ始めた。

「うまいな、これ」

「昨日の残りだけど」

「十分うまい」


 美紀はその横に立って、お茶を入れた。

 聞けた、と思った。

「どこで食べたの」と聞けた。

 それだけだけれど、いつもと違った。

 いつもは聞かなかった。

 怖くて聞けなかったのか、聞く気力がなかったのか、聞いても意味がないと思っていたのか——とにかく、今夜は聞けた。

 答えが本当かどうかはわからない。

 でも聞けた、ということは本当だ。


 誠司が寝室に入った後、美紀はソファに座ってスマホを開いた。

 SNSのアプリを開いて、少し迷ってから投稿した。

「今夜、夫に『どこで食べたの』と聞けました。十六年目で初めて。答えが本当かどうかはわかりません。でも聞けた。それだけのことが、今夜は少し誇らしかったです」

 投稿して、スマホを置いた。


 しばらくして通知が来た。

 いつものフォロワーから「いいね」がついた。

 それから、先週コメントをくれた人から返信が来た。

「よかったです。聞けたこと、すごいと思います。私もやってみます」

 美紀はその一文を読んで、少し笑った。

 やってみます、か。


 私もやってみた。

 次は何をやってみようか、とは考えなかった。

 今夜はとりあえず、これでよかった。


 アプリをもう一度開いた。

 赤いピンは「自宅」にあった。

 当たり前のこと。

 美紀は今夜だけ、そのピンを「当たり前だ」と思えた気がした。

 明日もそう思えるかどうかは、わからないけれど。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ