第七話 相合い傘と、昇降口の雨
その日の朝、天気予報は「午後から晴れ」と言っていた。
誠司は傘を持たずに家を出た。
美紀が「傘、持っていったら」と言ったが、「いらない」と答えた。
外回りの多い日に傘を持ち歩くのが面倒だった。
それだけの理由だった。
翔太も傘を持たなかった。
美紀が「一応持っていきなよ」と言ったが、「学校着いたら晴れるって」と笑って出ていった。
結衣だけが折りたたみ傘をリュックに入れていた。「念のため」と言いながら。
美紀は三人を見送って、洗い物をしながら空の色を見た。
西の方が少し暗かった。
でも何も言わなかった。
言っても聞かないのを知っていたから。
誠司
ゲリラ豪雨が来たのは、午後二時過ぎのことだった。
誠司は得意先の三件目を終えて、駅へ向かって歩いていた。
空が急に暗くなったと思ったら、五秒も経たないうちに雨粒が落ちてきた。
最初は点々と、すぐにざあっと、それからもう逃げ場がないくらいの本降りになった。
走れる年齢じゃない、と思いながら小走りになった。
コンビニの軒先に駆け込んで、濡れた肩を払った。
スーツの上着が重くなっていた。
「部長」
声がして振り返ると、真央が同じ軒先に飛び込んできた。
今日は午後から合流する予定だった。
待ち合わせの場所が近かったらしい。
「走ってきたのか」
「駅から全力で。びしょ濡れです」
真央の前髪が額に張りついていた。
コートの肩が濡れている。
それでも息を整えながら笑っているから、誠司もつられて笑った。
「傘、持ってないのか」
「朝、晴れるって言ってたじゃないですか」
「俺も同じ理由で持ってこなかった」
「部長まで」真央が呆れたような顔をした。
「二人して」
コンビニで傘を一本買った。
レジで手に取ったのはビニール傘で、値段は七百円だった。
誠司が財布を出すより先に真央がスマホで決済した。
「経費で落とします」と言った。
「俺が払う」
「いいですよ、私が買いましたから」
「だから俺が払う」
「細かいですね、部長」
結局、真央が払った。
コンビニを出ると、まだ雨は強かった。
次の得意先まで歩いて七分。
傘は一本。
「相合い傘しかないですね」と真央が言った。
当たり前のことを当たり前の口調で言うから、誠司は「そうだな」と答えた。
傘を広げた。
真央が左側に入った。
誠司が右側を持つ形になった。
二人の肩が、時々触れそうになった。
誠司は傘を少し真央側に傾けた。
自分の右肩が雨に当たった。
「傾けすぎです、部長も濡れますよ」
「いい」
「よくないです」
雨音の中を、二人で歩いた。
七分が、少し長かった。
得意先の商談は三十分で終わった。
ビルのロビーで外を見ると、雨はまだ降っていた。
小降りにはなっていたが、止む気配はない。
真央がカバンの中を探って「折りたたみ、ありました」と小さな傘を取り出した。
「最初から持ってたのか」
「気づきませんでした。焦ってたんで」
真央が苦笑した。
さっきまでの相合い傘が、少し馬鹿らしくなった。
でも誠司は「まあいいか」と思った。
七分間、悪くなかった。
そう思ってから、悪くなかった、という言葉の意味をすぐに打ち消した。
ビルを出るとき、真央が「今日もラーメン、行きますか」と聞いた。
「行くか」と誠司は答えた。
傘を並べて歩きながら、真央が言った。
「みんな何か隠してますよ、部長。私も含めて」
唐突な一言だった。誠司は歩きながら真央の横顔を見た。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です。なんとなく、そう思っただけです」
「お前は何を隠してるんだ」
「言ったら隠してることになりません」
真央は前を向いたまま言った。
「部長は」
「俺は隠してない」
「そうですか」
真央は特に追いかけてこなかった。
誠司も、それ以上続けなかった。
雨の中を、それぞれの傘の下で歩いた。
傘と傘の間に、少し隙間があった。
翔太
同じ雨が、翔太の学校にも降っていた。
放課後、バスケ部の練習が終わった頃には、雨はまだ降り続いていた。
部活が終わる時間に合わせたみたいに、ちょうど本降りのままだった。
部員たちが昇降口に集まってきた。
「やばい、傘忘れた」
「俺も」
「誰か一緒に帰る方向の人」
「バス乗ろうぜ」——そういう声が飛び交っていた。
西川が「翔太、どっちの方向だっけ」と聞いた。
翔太が「南の方」と答えたら、「じゃあ違う方向だ、ごめん」と言って別の部員と走っていった。
人が減っていった。
翔太は昇降口の内側に立って、雨を見ていた。
傘がない。
コンビニまで走ればいいが、学校の近くにコンビニはない。
バスは一時間に二本で、次は三十分後だ。
お母さんに電話して迎えに来てもらうこともできる。
でも部活が終わった、という電話をしたことがない。
してしまうと、迎えに来てくれることが当たり前になる気がして、なんとなく嫌だった。
雨粒が昇降口の屋根を叩いている。外は白く煙っていた。
隣に誰もいなかった。
少し前まで賑やかだった昇降口が、気がつくと翔太一人になっていた。
そういう場面が、最近増えた。
賑やかさの中にいるうちは気づかないが、人が引いていったあとに残る静けさが、翔太には堪えた。
ベンチに腰を下ろして、雨が弱まるのを待った。
スマホを出した。
ゲームを開こうとして、やめた。
音楽を流そうとして、イヤホンを忘れたことに気がついた。
何もすることがなかった。
ただ、雨を見ていた。
傘を持って走っていくみんなの背中が見えた。
二人組、三人組、横に並んで笑いながら走っていく背中。
遠ざかっていく声。
翔太は膝の上に肘をついて、雨の向こうを見た。
別に泣きたいわけじゃなかった。
悲しいわけでもなかった。
ただ、この昇降口に一人でいる自分が、今どういう状態なのかを、うまく名前をつけられなかった。
寂しい、というのとも少し違う。
疲れた、というのも少し違う。
ただ、いた。
雨の昇降口に、一人で、ただいた。
三十分待ったが、雨は弱まらなかった。
翔太は立ち上がって、リュックを頭の上に掲げた。
走れば十五分だ。
濡れるけれど、走れば帰れる。
それだけのことだ。
一歩、昇降口の外に踏み出した。
すぐに雨粒が肩を叩いた。
制服が重くなり始めた。
構わず走った。
商店街のアーケードで少し雨をよけて、また走った。
信号で止まって、また走った。
住宅街に入ると街灯が少なくて、水溜まりを踏むたびに足元が冷たくなった。
走りながら、翔太は笑いたい気持ちになった。
笑いたい、というのも変な話だが、なんとなくそうだった。
びしょ濡れになって一人で走っているのが、どこかおかしかった。
お父さんが見たら「なんで電話しなかったんだ」と言うだろう。
お母さんは「だから言ったでしょ」と言うだろう。
お姉ちゃんは「ばっか」と笑うだろう。
それを想像したら、もう少し走れた。
誠司
同じ頃、誠司と真央はラーメン屋のカウンターにいた。
窓の外に雨が降っていた。
誠司はスープを啜りながら、ふと思った。
翔太は傘を持っていったか。
朝、美紀が「一応持っていきなよ」と言っていた気がする。
翔太はなんと答えたか。
思い出せなかった。
「どうしました」と真央が聞いた。
「いや、息子が傘持っていったかなと思って」
「何年生ですか」
「中三」
「じゃあ大丈夫ですよ。中三なら、濡れながら帰るくらいのことはできます」
真央が笑った。
「それくらいの方が、思い出になりますし」
「そうか」
誠司はラーメンに戻った。
大丈夫だ。
中三なら、濡れながら帰るくらいのことはできる。
そのくらいのことだ。
でも窓の外の雨を、もう一度だけ見た。
翔太
家に着いたとき、翔太はほぼ全身濡れていた。
玄関を開けると、台所から美紀の声がした。
「おかえり——って、びしょびしょじゃない!」
「雨すごかった」
「だから言ったじゃない、傘持っていきなさいって!」
「ごめんごめん」
「ごめんじゃないでしょ、早く着替えてきなさい。風邪ひいたらどうするの」
美紀が玄関まで来て、翔太の頭にタオルを被せた。
「髪、拭きなさい。制服は洗濯機に入れておいて」
「はーい」
タオルを頭に乗せたまま階段を上がりかけたとき、美紀が「今日どうだった」と聞いた。
翔太は振り返った。
いつもなら「楽しかった!」と答える。
でも今日は、なぜかその言葉がすぐに出てこなかった。
一秒、二秒、間があった。
「……濡れた」
翔太は言った。
美紀が少し間を置いてから、「そうね」と言った。
それだけだった。
でも翔太には、その「そうね」が、今日一番温かかった。
階段を上がって、部屋のドアを閉めた。
制服を脱いで、乾いたシャツを着た。
窓の外でまだ雨が降っていた。
今日は「楽しかった」と言えなかった。
その代わり、「濡れた」と言えた。
どっちがよかったかは、翔太にはわからなかった。
ただ、少しだけ、体が軽かった。
誠司
誠司が帰ってきたのは、夜の十時過ぎだった。
玄関に、翔太の制服が干してあった。
洗濯されたのか、ハンガーにかけられて、玄関の脇の物干しに吊るされていた。
まだ少し湿っていた。
誠司はその制服をしばらく見た。
やっぱり、濡れながら帰ってきたのか。
リビングに入ると、美紀がソファでテレビを見ていた。
「翔太、傘なかったのか」
「びしょびしょで帰ってきた。言ったのに」
「そうか」誠司は上着を脱ぎながら言った。
「怒ったか」
「少しね。でも、なんか——」
美紀が少し考えてから言った。
「珍しいこと言ってた」
「何が」
「今日どうだったって聞いたら、『濡れた』って」
誠司はネクタイを緩めた手を止めた。
「……そうか」
「いつもと違ったから、なんか」
美紀は続けた。
「そっちの方が、なんか、よかった気がして」
誠司は何も言わなかった。
ネクタイを外して、テーブルに置いた。
冷蔵庫からビールを出して、ソファに座った。
テレビに映っているものは何も頭に入ってこなかった。
「濡れた」
翔太がそう言った。
美紀がそれを「よかった気がした」と言った。
なぜだろう、と誠司は思った。
なぜそれがよかったのか。
なぜ「楽しかった」じゃなくて「濡れた」の方が——。
考えかけて、ビールを一口飲んだ。
今夜は疲れた。
考えるのは明日でいい。
でも、翔太の制服が干してある玄関の光景が、頭の隅からなかなか消えなかった。




