第六話 彼女が離婚した理由
石川真央が一人でいる夜は、静かすぎる。
マンションの六畳一間。
テーブルの上に飲みかけのほうじ茶。
テレビはつけていない。
音楽も流していない。
この部屋に越してきてから二年が経つが、真央は今もこの静けさに慣れない。
慣れようとも思っていない。
慣れてしまったら、何かが終わる気がするから。
今日も誠司と二人でラーメン屋に寄った。
帰り際、駅の改札で「またな」と言われた。
「おつかれさまでした」と返した。
それだけ。
それだけのことなのに、帰りの電車の中で真央はずっと窓の外を見ていた。
今夜はなぜか、昔のことを考えている。
考えたくないのに、考えてしまう夜がある。
回想
山本賢一と出会ったのは、真央が二十六歳のときだった。
合コンだった。
山本は当時二十九歳で、中堅の不動産会社に勤めていた。
背が高くて、よく笑う人だった。
声が大きくて、場を仕切るのが上手くて、初対面なのに十年来の友人みたいな話し方をする人だった。
真央はそういう人が苦手だったのに、なぜか山本だけは違った。
帰り際に「また会いたい」と言われたとき、断る理由が見つからなかった。
付き合い始めて一年、結婚した。
式は小さくやった。
山本の希望だった。
「どうせ親戚に気を遣うだけだから、二人だけでいい」と言われて、真央も同意した。
そういうものかと思った。
新居は山本が決めた。
真央の通勤には少し不便な場所だったが、「俺の方が帰りが遅いから」と言われた。
そういうものかと思った。
最初の一年は、普通だった。
普通、という言葉しか出てこない。
楽しいとも、苦しいとも、はっきりとは言えない。
ただ、普通に夫婦として暮らしていた。
変わり始めたのは、二年目に入ってからだ。
山本が仕事で大きなミスをした。
詳しいことは真央には教えてくれなかった。
「お前にはわからない」と言われた。
その一言が、真央には少し刺さった。
でも、そういうものかと思った。
帰りが遅くなった。
飲んで帰る夜が増えた。
それ自体は仕方がない、と真央は思っていた。
仕事が大変なんだろう、ストレスがあるんだろう。
ただ、酔って帰ってきたとき、山本の声が変わった。
怒鳴るほどじゃない。
怒鳴られたことは、最初のうちはなかった。
ただ、低くなった。
ゆっくりと、一言一言を区切るような話し方になった。
「なんでこっちに置いてあるんだ」
「言っただろ、こうするなって」
「なんでそんなこともできないんだ」。
真央は謝った。毎回謝った。
何が悪かったのかを考えながら謝った。
次はこうしよう、ああしようと考えながら謝った。
謝れば、山本の声は元に戻った。
だから謝ることが正解だと思っていた。
そういう夜が、増えた。
結婚三年目の冬に、真央は朝が怖くなった。
山本が起きる前に、今日の山本はどんな顔をしているかを考えるようになった。
昨夜は機嫌がよかった。
だから今朝は大丈夫かもしれない。
いや、でも先週、機嫌がいい翌朝に急に怒鳴られたことがあった。
だから油断できない。
朝食のトーストの焼き加減、コーヒーの濃さ、タオルの畳み方。
どれも正確にやった。
正確にやれば、怒鳴られない。
怒鳴られなければ、今日は普通に過ごせる。
ある朝、山本が出かけた後、真央は台所で十分間、何もできなかった。
立ったまま、シンクを見ていた。
今日は何も言われなかった。
何も言われなかったのに、体の力が抜けてしまった。
そのとき初めて、おかしいかもしれない、と思った。
でも、どうすればいいかわからなかった。
誰にも言えなかった。
「夫に怒鳴られる」と言えば、何をしたのかと聞かれる気がした。
何もしていない、ただ存在しているだけで怒鳴られる、とは言いにくかった。
自分でも、信じてもらえないような気がしていた。
離婚を決めたのは、結婚四年目の春だった。
その夜も、山本は酔って帰ってきた。
真央は夕食を用意して待っていた。
テーブルに並べた皿を見た山本が、「また同じもの作ったのか」と言った。
真央は謝った。
山本は椅子を引いて座りながら、「お前は本当に気が利かないな」と言った。
低い声で、ゆっくりと。
その瞬間、真央の中で何かが静かに決まった。
怒りじゃなかった。
悲しみでもなかった。
ただ、ああこれはもう終わりだな、という感覚だった。
川の流れが変わるみたいに、静かに、はっきりと。
「そう」と真央は言った。
謝らなかった。
それが、四年間で初めてのことだった。
山本は少し驚いた顔をして、それからまた何か言いかけた。
真央はその声を聞かないようにして、寝室に入って鍵をかけた。
翌朝、山本が出かけた後、真央は弁護士を調べた。
現在
ほうじ茶が冷めていた。
真央はカップを両手で包みながら、自分が今何を考えていたのかを整理した。
部長——田中誠司という人のことを、真央は好きだと思う。
でも、それがどういう「好き」なのかは、自分でもよくわからない。
山本と一緒にいた四年間、真央は一度も「大丈夫か」と聞かれなかった。
体の具合でも、仕事のことでも、気持ちのことでも。
山本は真央の状態に興味がなかった。
それが普通だと思っていた時期もある。
今は思わないけれど。
誠司は、聞く。
「今日どうだった」
「疲れてないか」
「無理してないか」。
大した言葉じゃない。
営業部の課長として部下に声をかけているだけかもしれない。
でも真央には、その「どうだった」が、四年間一度も聞かれなかった言葉に聞こえる。
それが「恋」なのかどうかは、わからない。
たぶん、違う。
真央が誠司に感じているのは、もっと別の何かだ。
安堵、というのに近い。
この人の隣にいると、怒鳴られない。
急に声が低くなることもない。
「気が利かない」と言われることもない。
ただの、穏やかな時間がある。
それが、たまらなく懐かしかった。
懐かしい、というのも変な言い方。
そんな時間を、真央はそれほど長く過ごしたわけじゃない。
でも、それ以外の言葉が出てこない。
それから——もう一つ。
誠司には、家族がいる。
妻がいて、子どもが二人いる。
田中家、という場所がある。
真央が踏み込んだことのない、でも確かに存在している場所。
ラーメン屋から帰る誠司の背中を見るたびに、あの人はあの場所に帰っていくんだな、と思う。
その場所のことを、真央は羨ましいと思う。
帰る場所がある、ということ。
待っている人がいる、ということ。
自分の名前を当たり前に呼んでくれる人たちが、ご飯を作って待っている場所があるということ。
真央にはない。今は、ない。
だから誠司の隣にいると、その「ある」の匂いが少し分けてもらえる気がして——それが心地よくて、それが怖い。
欲しいのはこの人じゃない、と真央は自分に言い聞かせる。
欲しいのは、この人が持っているものだ。
それは、誠司から奪っていいものじゃない。
翌朝、出社すると誠司がもうデスクにいた。
「早いですね、部長」
「朝礼の資料が間に合ってなくてな」誠司は画面を見たまま言った。
「お前こそ早い」
「電車が空いてる時間に来るのが好きなんです」
「そういうとこ、律儀だな」
「律儀じゃなくて、混んでるのが嫌いなだけです」
誠司が少し笑った。
真央はデスクにバッグを置いて、パソコンを立ち上げた。
起動を待ちながら、昨夜考えていたことを頭の隅に押し込んだ。
こういうことは、仕事の時間に持ち込まない。
それが真央の決めていることだ。
「石川」
誠司が呼んだ。
「はい」
「昨日の件、先方から返事来てた。問題なかったって」
「よかったです」
「お前のおかげだよ。ありがとう」
真央は画面を見たまま「いえ」と返した。
ありがとう、という言葉が、山本の口から出たことは一度もなかった。
そのことを、今更思い出した。
パソコンが起動した。
今日のスケジュールが画面に並んだ。
真央はそれを確認しながら、昨夜のほうじ茶の冷たさを思い出して、それから仕事を始めた。
その日の夜も、二人でラーメン屋に寄った。
誠司が「今日も来てしまった」と笑いながら暖簾をくぐった。
真央はその後ろについて中に入った。
いつも、少し後ろを歩く。
並んで歩けないわけじゃない。
でも自然とそうなる。
誠司の少し後ろ、半歩だけ離れた位置。
そこが真央の場所。
それ以上近づかない。
それ以上離れない。
なぜそうするのか、誠司は気づいていないと思う。
真央自身も、最初は気づいていなかった。
ある夜、ふと自分の足元を見たとき、いつも同じ距離を歩いていることに気がついた。
これ以上は、いけない。
体がそれを知っている。
カウンターに並んで座って、いつもの注文をした。
出汁の香りが広がった。
誠司が今日あった話を始めた。
真央は相槌を打ちながら、ラーメンを待った。
「今日は早く帰れそうか」と誠司が聞いた。
「そうですね、特に残業はないと思います」
「そっか。ゆっくり休めよ」
「部長こそ」
ラーメンが来た。
二人でしばらく黙って食べた。
誠司は今夜も、帰る場所がある顔をしていた。
疲れていても、どこかに帰る場所がある人間の顔。
真央には、それがわかるようになっていた。
山本と暮らした四年間で、逆の顔を毎日見てきたから。
帰る場所であることを重荷に感じている人間の顔を、真央はよく知っている。
誠司はそうじゃない。
少なくとも、今夜の誠司はそうじゃない。
それが、真央には、何より眩しかった。




