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第五話 今日も『楽しかった』と言えた

 翔太には、朝だけ苦手な時間がある。

 目が覚めてから、布団を出るまでの五分間。


 その五分間だけ、翔太は正直でいられる。

 学校に行きたくない、と思う。

 声には出さない。

 出したことは一度もない。

 ただ布団の中で、天井を見ながら、そう思う。

 思って、思い切って、それから起き上がる。

 毎朝そうやって、布団から出てきた。


 起き上がってしまえば、あとは体が勝手に動く。

 顔を洗って、制服に着替えて、階段を降りる前に三秒かけて笑顔を作る。

 三秒で、今日の翔太になる。

 今朝も、できた。

「おはようございます!」

 お父さんが「おはよう」と返した。

 お母さんが「早く食べなさい」と言った。

 お姉ちゃんはトーストを食べながら、ちらっとこっちを見た。

 いつもの朝だ。

 今日も始まった。


 一時間目が始まる前、翔太は自分の机の中から国語のノートを取り出した。

 表紙に書いた名前が、消えていた。

 正確には、消されていた。

 黒いマジックで、「田中翔太」という文字の上に線が引かれている。

 丁寧に、はみ出さないように、名前の部分だけを塗りつぶすように。

 翔太はノートを机の上に置いたまま、少しの間、その黒い線を見た。


 誰がやったのかは、わかっている。

 証拠はない。見たわけでもない。でも、わかる。

 こういうことをするのは、決まっていた。

 翔太は引き出しからシャーペンを取り出して、黒い線の横に「田中翔太」と書き直した。

 消されたなら、また書けばいい。

 それだけのことだ。

 そう思うことにした。

 一時間目のチャイムが鳴った。

 先生が教室に入ってきた。翔太は顔を上げて、前を向いた。

 今日も授業が始まった。


 休み時間、翔太はたいてい本を読んでいる。

 最初はそういうキャラになろうとして始めたことだった。

 本を読んでいれば、誰かに話しかけられることもないし、一人でいても「本が好きなやつ」で済む。

「友達がいないやつ」とは違う。

 そういう計算が、中学一年の翔太にはあった。


 今は、本当に本が好きになっていた。

 図書室で借りた冒険小説を、翔太は今日も机の上に広げた。

 主人公は十四歳の少年で、見知らぬ島に流れ着いて、一人で生き延びようとしている。

 翔太はこの主人公が好きだった。

 泣き言を言わない。

 諦めない。

 傷ついても次の朝には立ち上がる。

 俺もこいつみたいになれればいいのに、と思う。

 でも島に流れ着いた少年と、教室にいる自分では、どこかが根本的に違う気がして、それが何なのかは翔太にはうまく言葉にできなかった。


「田中、その本、面白いの」

 声がして、翔太は顔を上げた。

 同じクラスの宮本だった。

 特に仲がいいわけじゃない。

 席が前後になったことがある、という程度の関係。

「まあまあ面白いよ。無人島もので、サバイバルっぽいやつ」

「へえ」宮本は翔太の机を覗き込んだ。

「俺、本あんまり読まないんだよな。何から読めばいいかわかんなくて」

「じゃあこれ貸そうか。読んだら次のやつ教えるよ」

「いいの?」

「うん、もうすぐ読み終わるし」


 宮本は少し考えてから「じゃあ、借りる」と言った。

 それだけの会話だった。

 でも翔太には、それが嬉しかった。

 誰かと普通に話せた、というだけのことが。

 名前を呼んでもらえた、というだけのことが。

 チャイムが鳴って、宮本は自分の席に戻った。

 翔太はまた本の続きを読んだ。

 今日の休み時間は、悪くなかった。


 給食の時間、翔太は自分の席で食べる。

 中学の給食は班ごとに机をくっつけて食べる形式だが、翔太の班には五人いて、いつもなんとなく四対一の配置になる。

 四人が向かい合って、翔太だけが少し離れて座る。

 誰かが意図してそうしているわけじゃない、と思う。

 ただ気がつくとそうなっている。


 今日のメニューはカレーだった。

 翔太はカレーが好きだ。

 家のカレーより少し甘めだが、それはそれで悪くない。

 四人の会話が聞こえてくる。

 昨日のゲームの話、週末の部活の話、誰かが転んだ話。

 笑い声が上がる。

 翔太はカレーを食べながら、その会話の端を聞いていた。


 輪の中に入れないのか、と聞かれると、正直よくわからない。

 入ろうとしたことが、ないわけじゃない。

 でも入ろうとするたびに、少しずれた。

 タイミングが合わなかった。

 話の続きを拾い損ねた。

 そういうことが何度かあって、だんだん入ろうとしなくなった。

 それだけのことだ、とも言える。

 でも毎日続くと、それだけのことが、重くなる。

 翔太はカレーを全部食べた。おいしかった。

 それだけは本当のことだった。


 放課後はバスケ部の練習がある。

 翔太がバスケを始めたのは中学に入ってから。

 体を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。

 それが一番の理由だった。


 今日は三対三の練習試合をした。

 翔太はシューティングガードで、動き回るのが仕事だ。

 走って、パスを受けて、シュートを打つ。

 体が汗ばんで、息が上がって、頭の中が空っぽになる。

 一本、シュートが決まった。

 チームメイトの西川が「ナイスシュート」と言った。

 翔太は「サンキュ」と返して、またコートに戻った。


 練習中、翔太は別人になれる気がした。

 教室の翔太じゃない。

 笑顔を作る翔太じゃない。

 ただボールを追いかけて、走って、汗をかく人間。

 名前を呼ばれるとき、「田中」という声が普通の声で、ただのチームメイトへの声で、それがなんでもなく嬉しかった。


 練習が終わって、体育館の床にへたり込んだ。

 隣に西川が座った。

「翔太って、三ポイント練習してる?最近入るじゃん」

「家でイメトレしてる。あんまりうまくいかないけど」

「イメトレ、俺もやってみようかな」

「やってみ。なんか変わる気がするよ」

 他愛もない会話だった。

 でも翔太には、こういう会話が好きだった。

 誰かと並んで床に座って、汗が冷えていくのを感じながら、バスケの話をする。

 これは本物だ、と思う。

 練習が終わった後のこの時間は、笑顔を作らなくていい。

 ただし、それは体育館の中だけだ。


 着替えて体育館を出ると、空が暗くなっていた。

 十月の夕方は早い。

 五時を過ぎると、あっという間に夜の色になる。

 正門を出たところで、翔太は一人になった。

 西川は自転車通学だから、ここで別れる。

 他の部員たちも、それぞれの方角に散っていく。

 翔太の帰り道は、一人だ。

 イヤホンをつけて、歩き出した。

 今日は何を聞く気にもならなくて、音楽は流さなかった。

 無音のまま耳に差し込んで、外の音を少し遠ざけるために使った。


 商店街を歩きながら、今日一日のことを頭の中で並べた。

 ノートの名前を消された。

 宮本と本の話をした。

 給食はカレーだった。

 シュートが一本決まった。

 西川と話した。


 どれが本物で、どれがそうじゃないか、翔太にはわかっていた。

 ノートの名前を消されたこと、それは本物の痛み。

 でも宮本と話したことも、シュートが決まったことも、西川と並んで座ったことも、それも本物。

 どっちが多いかは、今日は五分五分くらいだった。

 そういう日もある。


 公園の前を通りかかった。

 いつも一人で寄り道をする公園。

 今日は寄らなかった。なんとなく、まっすぐ帰りたかった。

 住宅街に入ると、家の明かりがついている窓が増えてくる。

 夕食の匂いがどこかから流れてくる。

 知らない家の、知らない夕方が、通りに滲み出してくる。


 うちにも、今頃誰かがいる。

 お母さんが夕食を作っている。

 お姉ちゃんが部屋にいる。

 もしかしたらお父さんも、今日は早く帰っているかもしれない。

 その光景を頭に浮かべたとき、翔太の足が少しだけ速くなった。

 自分でも気がつかないくらい、ほんの少しだけ。


 家の前に着いた。

 翔太は鍵を取り出す前に、一度だけ立ち止まった。

 大きく息を吸う。

 それから、ゆっくり吐く。

 三秒で顔を作る。

 眉毛を少し上げて、目の力を抜いて、口角を自然に。

 いつもの笑顔。

 練習した笑顔。

 でも今日は——少しだけ、本物に近い気がした。

 シュートが決まったこと、宮本に本を貸すと言えたこと、西川と話せたこと。

 そういうものが、笑顔の底に少しだけある。


 翔太は鍵を開けた。

「ただいまー!今日めちゃくちゃ楽しかった!」

 台所から「おかえり、ご飯もうすぐよ」という母の声がした。

 二階から「うるさい」というお姉ちゃんの声がした。

 翔太は靴を脱ぎながら、少しだけ笑った。

 今度は、作った笑顔じゃなかった。


 夜、布団に入ってから、翔太は天井を見た。

 今日も一日が終わった。

 ノートの名前は消された。

 でも、また書いた。

 給食の時間は、少し遠かった。

 でも、カレーはおいしかった。

 宮本に本を貸すと言った。

 明日、持っていかなきゃ。

 シュートが決まった。

 西川が「ナイスシュート」と言った。

「楽しかった」と玄関で言った。

 全部が本当じゃないかもしれない。

 でも、全部が嘘でもなかった。


 翔太は目を閉じた。

 明日も、ある。

 明日も、ノートの名前が消えているかもしれない。

 明日も、給食の時間は少し遠いかもしれない。

 それでも、明日も宮本に本を返してもらえるかもしれない。

 明日も、シュートが決まるかもしれない。

 どっちが多いかは、明日になってみないとわからない。


 翔太は布団を少し深く引き上げて、目を閉じた。

 眠るまでの間、今日を何度か繰り返した。

 痛いところも、温かいところも、全部ひっくるめて。

 今日も「楽しかった」と言えた。

 それは、嘘じゃなかったと思う。

 思いたかった、かもしれないけれど。

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