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第四話 深夜のポンコツ探偵と、匿名アカウントの夜

 田中美紀がGPS端末を注文したのは、夫が珍しく定時で帰ってきた夜のことだった。


 逆説的だが、そういうものだ。

 誠司が早く帰ってきた夜に限って、美紀は何かを疑う。

 普段より早い、ということは、何か理由がある。

 理由があるということは、何かを帳消しにしようとしている。

 ——とまあ、そういう思考回路が最近の美紀には出来上がっていた。

 自分でも「めんどくさい女だな」とは思う。

 思うけれど、止められない。


 誠司は「今日は早く上がれた」とだけ言って、風呂に入り、晩酌をして、十時には寝室に消えた。

 何も怪しいことはなかった。

 それがまた、美紀には怪しかった。


 一人になったリビングで、美紀はスマホを開いた。

 検索窓に「GPS 小型 追跡 バレない」と打ち込んで、出てきた商品の中から評判のよさそうなものをカートに入れた。

 値段は四千八百円。

 送料無料。翌日配送。

 購入ボタンを押した。

 それから、少しだけ後悔した。

 でも取り消さなかった。


 翌日の午後、インターホンが鳴った。

「ご不在の場合は——」という録音音声の前に美紀は玄関を開けて、段ボール箱を受け取った。

 思ったより小さい箱。

 GPS端末はコンパクトな商品が多いと聞いていたから、これくらいで正解なのかもしれない。


 テーブルの上に置いて、ハサミで丁寧に開封した。

 中から出てきたのは、スマートフォンスタンドだった。

 卓上に置くタイプの、折りたたみ式の、シルバーのスマホスタンド。

 美紀はしばらくそれを見つめた。

 注文履歴を確認した。

 スクロールしたら、GPS端末の下にスマホスタンドが入っていた。

「おすすめ商品」として表示されていたやつを、無意識にカートに追加していたらしい。

 購入したのはスマホスタンドで、GPS端末はカートに入れただけで注文していなかった。

 美紀は箱を閉じた。

 スマホスタンドをしばらく見つめた。

 それから「使えるかもしれないし」と呟いて、テレビの前に置いた。

 翌朝から注文しなおすことにした。

 今度はちゃんと確認してから押す。


 三日後、本物のGPS端末が届いた。

 今度は間違いなかった。

 手のひらに乗るくらいの、薄い黒いプラスチックの板。

 電源を入れると、スマホのアプリと連動して現在地が表示される。


 誠司の鞄に仕込む作戦は、その夜に実行した。

 誠司が風呂に入っている間に、玄関の鞄を開けた。

 内側のファスナーポケットの奥に、GPS端末をそっと入れた。

 手が少し震えた。

 ドラマでこういうシーンを見たことはある。

 まさか自分がやる側になるとは思っていなかった。


 翌朝、アプリを開いた。

 赤いピンが光っている。

 場所は——家。

 誠司はまだ家にいる。

 当たり前だ、朝の七時なのだから。


 誠司が出勤して、ピンが動いた。

 駅、電車の中、会社。

 赤いピンが「会社」に落ち着いて、そこから動かなくなった。

 当たり前のことだった。

 当たり前のことを確認して、美紀は少しだけ安堵して、少しだけ惨めになった。

 これを毎日続けるのか、と思った。

 やめればいい、とも思った。

 でも、やめなかった。


 仕込んで五日目の夜、誠司がリビングで鞄の中を探っていた。

 美紀は台所で夕食の片付けをしていた。

 水を止めて、様子を窺った。

 誠司は鞄の中のものを一つ一つ取り出している。

 財布、名刺入れ、ハンカチ、ノート、充電器——そして内側のポケットに手を入れた。


 美紀の心臓が跳ね上がった。

「美紀、これ何」

 誠司が振り向いた。

 手の中に、薄い黒いプラスチックの板があった。

 美紀の頭が一瞬、真っ白になった。

 次の瞬間、口が動いた。

「あ、それ——あなたのじゃないの?」

「俺のじゃないぞ、こんなもの。なんだこれ」

「知らない、どこかで拾ったんじゃないの」

「拾わない」

「じゃあ翔太か結衣のかもしれない。最近こういうの流行ってるらしいよ、モバイルバッテリーか何かじゃない」

 誠司は端末をしばらく眺めてから「まあいいか」と言って鞄のサイドポケットに入れた。

 美紀は冷蔵庫を開けて、冷たい空気に顔を当てた。

 心臓がまだうるさかった。


 翌日、美紀は端末を鞄の別の場所——内側ポケットではなく、底の、折りたたんだエコバッグの下——に移し替えた。

 今度こそ見つからない場所に。

 こういう工夫に労力を割いている自分が、少し悲しかった。

 でも、やめなかった。


 その夜は、誠司が遅かった。

 十一時を過ぎても帰ってこない。

 アプリを開いたら「会社」から「駅近く」に動いていて、それからしばらく動かない。

 駅のどこかで時間をつぶしているらしかった。

 居酒屋か、それとも——。

 美紀はソファに深く沈んで、スマホを天井に向けた。

 天井は何も答えない。

 当たり前だ。


 こういう夜が、最近増えている。

 誰かに話したいけど、話せない。

 友人に「うちの夫、浮気してるかも」とは言えない。

「してるかも」でしかないから。

 証拠もない。

 確信もない。

 ただ、甘い香りと、遅い帰宅と、どこかよそよそしい気がする会話と——そういうものが積み重なっているだけ。


 気晴らしにSNSのタイムラインを眺めた。

 知人の料理写真、誰かの旅行記、犬の動画。

 何も頭に入ってこない。

 ふと、投稿ボタンを押した。

 衝動だった。

 後先を考えなかった。

 アカウント名を求められた。

 本名は入れたくない。

 一秒考えて「浮気調査中の主婦」と打ち込んだ。

 プロフィール写真は設定しなかった。

 自己紹介欄に「夫の手からヤシの実の香りがしました。調査中です」と書いた。


 投稿欄に、今思っていることをそのまま打ち込んだ。

「夫が遅い。アプリを見たら駅近くで止まっている。居酒屋かもしれないし、そうじゃないかもしれない。どちらにしても、帰ってきたとき私は『おかえり』と言う。それ以外に、言えることがない」

 投稿した。


 しばらくして通知が来た。

 知らない人から「いいね」がついていた。

 続けてもう一件。

 それからまた一件。

 フォロワーが一人増えた。

 五分後にまた増えた。


 美紀は画面を見つめた。

 三十二人になったころ、コメントが一件入った。

「私も同じです。毎晩アプリを見ています。おかしいですよね、私たち」

 美紀は少しの間、そのコメントを見ていた。

 おかしいですよね、私たち。

 ——そう言ってもらえると思っていなかった。


 返信を打った。

「おかしくないと思います。信じたいから、確認してしまうんだと思います」

 すぐに返事が来た。

「そうですよね。信じたい自分がいるから、怖いんですよね」


 美紀はスマホを胸の上に置いた。

 天井を見た。

 さっきと同じ天井。

 でも、少しだけ違う気がした。

 孤独じゃないかもしれない、とそのとき初めて思った。

 知らない誰かが、同じ夜を過ごしている。

 それだけのことなのに、なぜか息が楽になった。


 玄関の鍵が開く音がした。

 美紀はスマホを裏向けにして、「おかえり」と言った。

「ただいま。遅くなった」

「ご飯、温める?」

「いや、食ってきた。悪い」

「そう」

 誠司はコートを脱いで、ネクタイを緩めながらリビングに入ってきた。

 疲れた顔をしていた。

 本当に疲れているだけの顔に見えた。

 美紀は「お風呂、沸いてるよ」と言った。

「助かる」と誠司は言った。

 それだけだった。

 それだけの夜が、今夜は少しだけ軽かった。

 理由は、うまく説明できない。


 翌朝、誠司は出勤前にスマホを見た。

 三日前の父からの不在着信が、まだ残っていた。

 折り返すなら今だ、と思った。

 朝の七時半、父は早起きだから起きているはず。

 外回りの前に電話しておけば、夜に気になって眠れない、ということもない。

 ——別に気になってはいないが。


 発信ボタンを押した。三コールで繋がった。

「誠司か」

「ああ。この前、電話くれてたから」

「ああ、うん。なんでもない。ただかけてみた」

 父の声は、いつもと変わらない。

 低くて、ぶっきらぼうで、必要なことしか言わない声。

「ただかけてみた」なんて言葉が出てきたのは、珍しかった。

 七十二年生きてきて、用のない電話をかける人間じゃなかった。


「体の具合でも悪いのか」

「悪くない」

「そうか」

「お前こそ、どうだ」

「まあ、普通に」

「仕事は」

「忙しいよ、相変わらず」

「そうか」

 沈黙が来た。

 電話越しの沈黙は、対面より長く感じる。

 誠司は玄関の鍵を手に持ったまま、待った。


「翔太は、元気か」

 父が言った。

 誠司は少し間を置いてから「元気だよ」と答えた。

「学校も楽しんでる」

「そうか」

 また沈黙。

「結衣は」

「受験で忙しい。頑張ってるよ」

「そうか」

 それだけだった。

 父は「じゃあ、な」と言って電話を切った。


 誠司はスマホをポケットに入れて、玄関を出た。

「ただかけてみた」。

 その言葉が、駅までの八分間、誠司の頭の隅にあった。

 用のない電話をかけてくる父親というのが、うまく想像できなかった。

 七十二年間、用のあるときしか電話をかけてこなかった人間が、用もなく電話をかけてくる理由が。


 でも、考えるうちに電車が来て、誠司は乗り込んだ。

 吊り革を掴んで、今日のスケジュールを頭の中で並べ始めた。

 父親のことは、また後で考えよう。

 後でいつでも考えられると思っていた。

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