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第三話 お姉ちゃんの尾行作戦

 田中結衣が弟の後をつけ始めたのは、二週間前の火曜日のことだった。


 きっかけは偶然だ。

 塾をサボって図書館に寄り道していた帰り道、弟の学校の近くを通りかかったとき、昇降口の前に人だかりが見えた。

 近づいて確認するまでもなかった。

 輪の中心にいるのが翔太だと、遠目にもわかった。


 何かが起きているわけじゃなかった。

 暴力も、怒声もない。

 ただ四、五人が翔太を取り囲んで、何かを言っている。

 翔太は笑っていた。

 うんうん、と頷きながら、ずっと笑っていた。


 その笑顔が、結衣の足を止めた。

 翔太はああいう笑い方はしない。

 少なくとも、結衣の知っている翔太は。

 楽しいときは目が細くなって、口が半開きになって、時々鼻から息が漏れる。

 そういう笑い方をする。

 あの笑顔じゃない。

 あれは——結衣には、なぜかそう見えた——笑い方を覚えた人間の笑顔だ。


 帰り際、輪の中の一人が翔太の肩をどんっと叩いて「じゃあな」と言った。

 翔太は「またな!」と返した。

 声も明るかった。

 人だかりが消えると、翔太は少しだけ俯いてから、歩き出した。

 その一秒が、結衣にはひどく長く見えた。

 それから結衣は、火曜と木曜に遠回りをするようになった。

 翔太の通学路を、気づかれない程度の距離で後ろから歩く。

 二週間で計四回。

 今日が五回目。


 今日は木曜日。

 結衣は学校が終わると、友人の「塾、今日も行かないの」という声を「うん、ちょっとね」で流して、一人で正門を出た。

 制服のまま、リュックを背負って、翔太の学校の方角へ向かう。

 翔太の中学は、結衣の高校から歩いて十二分の距離にある。

 結衣は七分で着いた。

 少し急ぎすぎた。

 昇降口の前で生徒がまだ大勢いる時間に来てしまって、結衣は近くの自販機の前に立って、買う気もない缶コーヒーのボタンを眺めながら時間をつぶした。


 十分後、人の流れが落ち着いてきた頃、翔太が出てきた。

 紺のジャージ姿で、リュックを背負って、イヤホンを片耳に差している。

 去年の誕生日に誠司が買ってやったイヤホンだ。

 翔太は嬉しそうにしていた。——今も使っているんだな、と結衣は思った。

 そういう細かいことに、最近よく気づく。


 翔太は誰とも話さず、一人で歩き出した。

 結衣は自販機から離れて、三十メートルほど間を置いて後を追った。

 商店街を抜けて、住宅街に入る。

 翔太の歩き方はゆっくりだった。

 急いでいる様子はない。

 イヤホンから何を聞いているのかはわからないが、時々口が少し動いた。

 歌っているのかもしれない。

 翔太は昔から、一人のときに歌う癖がある。

 お風呂でも、自分の部屋でも。

 家にいるときは筒抜けで聞こえてくるから、結衣はそれを知っている。


 十分ほど歩いたところで、翔太の足が止まった。

 公園の入り口の前だった。

 小さな公園で、ブランコが二つと、錆びたジャングルジムがあるだけの、子どもたちがもう使わなくなって久しい公園。

 翔太はそこに入っていった。

 結衣は公園の外から、フェンス越しに様子を窺った。

 翔太はジャングルジムの根本に腰を下ろして、リュックを抱えて、何をするでもなく空を見上げた。

 イヤホンを外して、ポケットに入れた。

 それから、誰もいない公園で、一人で静かにしていた。


 五分が経った。

 十分が経った。

 翔太は動かなかった。

 スマホも見ない。

 ただ、ジャングルジムに背中を預けて、秋の空を見ていた。


 結衣はフェンスに手をかけたまま、動けなかった。

 声をかけるべきか、と何度も思った。

 でも、かけられなかった。

 翔太の横顔は、誰かに踏み込まれることを拒んでいた。

 というより——ここにいることを、誰にも知られたくないと思っているように見えた。

 家でも学校でもない、翔太だけの場所。

 ここで翔太は何をしているのか。

 何も考えていないのか、全部考えているのか、それさえも結衣にはわからない。


 しばらくして、翔太はゆっくり立ち上がった。

 リュックを背負い直して、公園を出た。

 また歩き出す。

 今度は少し足が速い。

 家に帰る人間の歩き方だ。

 結衣は翔太が角を曲がるのを見届けて、その場に立ち尽くした。

 もう追わなかった。今日はここまでだ。


 翌週の月曜日、結衣は放課後に翔太の学校の近くを通りかかった。

 今日は尾行の日ではない。

 塾——行かない塾の帰り道として、なんとなく足が向いてしまっただけだ。


 昇降口の前を通り過ぎようとしたとき、中が見えた。

 靴箱の前に、翔太が立っていた。

 上靴を片手に持って、きょろきょろしている。

 その様子がおかしかった。

 靴箱を何度も開けたり閉めたりして、棚の奥や隣の靴箱の下を覗き込んでいる。


 もう片方の上靴が、ない。

 傍でそれを見ている男子が二人いた。

 結衣には見覚えのない顔だ。

 翔太と同学年くらいだろうか。

 二人は何も言っていない。

 ただ立って、見ている。

 翔太がうろたえるのを、見ている。


 結衣の胃が、冷たくなった。

 翔太はしばらく探し続けたあと、何かに気づいた様子で別の場所へ歩いていった。

 少しして戻ってきたとき、手には泥のついた上靴があった。

 どこかに隠されていたのか。

 その間、二人組はずっとそこにいた。

 翔太が上靴を見つけた瞬間、何も言わずに背を向けて歩いていった。

 翔太は上靴を手に持ったまま、少しの間、その場に立っていた。

 それから顔を上げて、誰もいなくなった廊下を見て、ゆっくり上靴を履いた。

 そして、歩き出す前に、一度だけ笑顔を作った。


 誰もいないのに。

 誰も見ていないのに。

 笑顔の練習をするみたいに。

 結衣は昇降口の外で、壁に背中を預けて、息を止めていた。


 家に帰るまでの道を、結衣はほとんど何も考えていなかった。

 いや、正確には、何かを考えないようにしていた。

 今見たことを、頭の中で言葉にしないようにしていた。

 言葉にすると、本物になる気がしたから。

 電柱を数えながら歩いた。

 一本、二本、三本。

 信号が赤になった。

 止まって、待った。

 青になった。歩いた。

 それだけのことを、ただ繰り返した。


 親に言うべきだろうか。

 その考えが浮かんで、すぐに沈んだ。

 言ってどうなる。

 お父さんは「先生に相談しよう」と言うだろう。

 お母さんは「翔太、本当のこと話してみなさい」と言うだろう。

 翔太は「なんでもない」と笑うだろう。

 あの笑顔で。練習した笑顔で。


 翔太が自分で言う気になるまで、待った方がいいのかもしれない。

 でも、いつまで待つんだ。

 待っている間に、何か起きたら。

 結衣には答えが出なかった。

 十八年生きてきて、こんなに答えが出ないことは初めてかもしれなかった。

 受験の志望校を変えることより、難しかった。


 家の近くまで来たとき、翔太が前を歩いているのが見えた。

 今日は少し早く帰ってきたらしい。

 ランドセルならぬリュックを背負って、のんびり歩いている。

 結衣は歩調を緩めて、距離を置いた。

 翔太は気づいていない。


 玄関の前で、翔太が立ち止まった。

 鍵を取り出す前に、一度だけ大きく息を吸った。

 結衣にはそれが見えた。

 それから翔太は鍵を開けて、「ただいまー!」と声を張り上げて中に入っていった。

 結衣は玄関の前で、しばらく立っていた。

 家の中から、美紀の「おかえり、どうだった今日」という声がした。

 翔太の「めちゃくちゃ楽しかった!」という声がした。


 結衣は目を閉じた。

 三秒だけ、目を閉じた。

 それから鍵を取り出して、玄関を開けた。

「ただいま」

 声は、普通に出た。よかった。


 夜、風呂から上がった結衣が廊下を歩いていると、玄関に泥だらけのスニーカーが一足あった。

 翔太のスニーカー。

 白地に青のラインが入った、春に新しく買ってもらったやつ。

 それが今日は泥で汚れている。

 片足だけじゃない。

 両足とも、底のあたりが茶色く汚れていた。


 廊下の奥から、翔太と誠司の声がした。

 夕食の後片付けをしながら何か話しているらしい。

 誠司が笑っている。

 翔太も笑っている。

 結衣はスニーカーをじっと見た。


 翌日の朝、誠司が「翔太、そのスニーカー洗っておけよ」と言った。

 翔太は「あ、うん。転んだだけだから」と言って、トーストを一口食べた。

「どこで転んだんだ」

「帰り道。段差があってさ、よそ見してたら」

「気をつけろよ」

「うん、わかってる」

 美紀が「怪我はなかったの」と聞いた。

 翔太は「全然!ドジなだけ!」と笑った。

 誠司は「ならいいか」と言って新聞に目を戻した。

 美紀は「ならよかった」と言ってお茶を注いだ。


 結衣はトーストを嚙みながら、翔太の顔を見た。

 翔太は結衣と目が合うと、「なに」と言った。

「……なんでもない」

「そう?」翔太は首を傾けて、また朝ごはんに戻った。

 転んだだけ。

 そう言えるなら、それでいい。

 そう言い続けられるなら、それでいい。

 でも結衣は知っている。

 昨日の靴箱の前で、翔太は転んでいない。


 その夜、誠司が帰ってきたのは十一時を過ぎていた。

 玄関の電気をつけて、コートを脱いで、スマホをポケットから出したとき、画面に通知が一件入っていた。

 着信。

 田中義雄——父親の名前。

 発信時刻は、午後七時十四分。

 四時間近く前。

 誠司は少しの間、スマホの画面を見た。

 折り返すには遅い時間だ。

 親父は早寝だから、もう寝ているだろう。

 明日かけ直せばいい。

 用があればまたかけてくる。


 誠司はスマホをコートのポケットに戻した。

 台所に向かいながら、今夜の疲れを首を回してほぐした。

 ラップのかかった皿が冷蔵庫に入っていた。

 今夜は豚の生姜焼き。

 メモが一枚貼ってあった。

 美紀の字で「翔太、今日機嫌よかった」と書いてある。


 誠司はそのメモをしばらく見てから、レンジに皿を入れた。

 機嫌よかった、か。

 それは、よかった。

 それだけのこと。

 スマホの画面は、もう暗くなっていた。

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