第二話 ハンドクリームは甘く、疑惑も甘い
駅から会社まで、徒歩八分。
その道を十八年歩いているから、誠司は目をつむっても歩ける。
横断歩道の段差の位置も、街路樹の根が持ち上げたアスファルトの膨らみも、全部体が覚えている。
だから逆に、何も考えなくていい。
朝はこれから始まる仕事のことを考えながら歩く。
夜は、今日起きたことを頭の後ろに追いやりながら歩く。
どちらにしても、この八分間は誠司の「誰でもない時間」。
夫でも父でも課長でもない、ただの四十五歳の男が、夜の歩道を歩いている八分間。
今夜はその八分間が、少し長かった。
石川真央と二人で、駅前のラーメン屋に寄ってきたからだ。
「中華そば 一福」は、駅の高架下にある十二席の小さな店。
カウンターが八席、二人掛けのテーブルが二つ。
昼は行列ができるらしいが、夜の九時を過ぎると客が減って、ちょうど話しやすくなる。
誠司がここに初めて入ったのは、三年前の冬だった。
残業で終電を逃して、ふらりと暖簾をくぐったのがきっかけだ。
以来、月に二、三度、気が向いたときに一人で来る店になった。
それが「二人で来る店」になったのは、今年の春のことだ。
「今日も来てしまいましたね、部長」
隣の席に腰を下ろしながら、石川真央は言った。
「来てしまった、という言い方はよせ。俺が誘ったんだから」
「そうですけど。今月、もう三回目ですよ」
「そうか」誠司はメニューも見ずに「いつもので」と店主に声をかけた。
「お前は」
「私もいつもので。塩ラーメンの、麺かため」
二人分の「いつもの」がある店になってしまった、とどこかで気づいている。
だからといって、何かあるわけじゃない。
部下と飯を食っているだけだ。
誠司は今夜も同じことを思い、同じように結論を出した。
「今日の得意先、どうでした」
真央がレンゲを手に取りながら聞いた。
今日の午後、誠司の担当先でクレームが入って、真央が一緒に謝罪に行った。
「まあ、なんとかなった。先方の田村部長が話のわかる人でよかったよ」
「あの方、怖い顔してますけど優しいですよね。お茶まで出していただいて」
「お前が謝り方うまいんだよ。俺一人だったら長引いてた」
「そんなことないです」
「ほんとのことだ」
真央は少し困ったような顔で笑った。
それがまた、誠司には少し目に痛い笑顔だった。
三十二歳、誠司より十三歳下。
離婚した、とだけ聞いている。
詳しい事情は知らないし、知ろうとしたことも一度もない。
ただ、真央が時々見せる「困ったような笑顔」が、妙に気になる。
笑っているのに疲れているような、そういう顔。
ラーメンが来た。
しばらく二人とも黙って食べた。
店内にはBGMもなく、厨房から出汁の香りと包丁の音だけが漂っている。
こういう沈黙が苦にならなくなったのも、最近のことだ。
「部長って、ご家族と夜ご飯、食べますか」
真央が唐突に聞いた。
「帰りが遅いからな。あんまり一緒には食えてない」
「そうですよね」
「お前は」
「私は一人なので」真央はそっけなく言った。
「帰っても誰もいないですし、こういう店で食べる方が落ち着くんです。変ですかね」
「変じゃない」
誠司は即答した。
自分のことのように思えたから。
帰っても誰もいない、と真央は言った。
誠司には帰れば家族がいる。
それなのに、ここに来てしまう。
その違いが何なのかを、誠司はうまく説明できない。
説明しようとしたこともない。
ただ、この十二席の店の中だけは、課長でも夫でも父でもなく、ただの田中誠司でいられる気がした。
食べ終わって、外に出た。
十月に入ったばかりなのに、夜風はもう冷たかった。
誠司はコートの前を合わせながら、ふと自分の手を見た。
指の節の皮が、白くひびわれかけている。
毎年この季節になると手荒れがひどくなる。
「部長、手、荒れてますよ」
隣を歩いていた真央が、当たり前のような口調で言った。
「ああ、毎年この時期はな」
「ちょっと待ってください」
真央はコートのポケットをごそごそ探って、小さなチューブを取り出した。
白いパッケージに、ヤシの木のイラスト。
「どうぞ」
「なんだこれ」
「ハンドクリームです。よく効きますよ、これ」
誠司は一瞬躊躇した。
三十二歳の女性部下から、夜の路上でハンドクリームを差し出される状況を、冷静に考えれば断るべきだったかもしれない。
でも手が痛かった。
それだけのことだ。
チューブの口を開けると、甘い香りが鼻先に広がった。
ヤシの実みたいな、南国みたいな、この季節には少し不似合いな香り。
少量を手に取って、指の節に擦り込む。
「……確かに、よく効きそうだな」
「でしょ。私、乾燥肌なんで年中これです」
真央はチューブをポケットに戻した。
二人は並んで駅に向かって歩き始めた。
「ありがとう」と誠司は言った。
「いえ」と真央は言った。
それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、誠司の手から甘い香りがした。
玄関の鍵を開けると、リビングにテレビの音がした。
「ただいま」
「おかえり」
美紀の声がした。
台所から。
今夜も遅くなる、とは連絡してあったから、夕食はもう片付いている時間だ。
コートを脱いで、ハンガーにかける。
靴を揃える。
これは誠司の十六年来の習慣で、どんなに疲れていても崩したことがない。
美紀に最初の頃よく「几帳面だね」と言われていた。
最近はそういうことを言わなくなった。
習慣は、言葉にならなくなるくらい当たり前になると、誰も褒めなくなる。
リビングに入ると、美紀がソファでテレビを見ていた。
情報番組の再放送らしく、タレントが海外の市場を歩いている映像が流れている。
「飯は」
「冷蔵庫に入れてある。温めて食べて」
「ん」
誠司はネクタイを緩めながら、冷蔵庫を開けた。
ラップのかかった皿に、肉じゃがとサラダ。
几帳面に整えられた盛り付けが、なんとなく申し訳なかった。
レンジに入れて、タイマーをセットする。
「翔太は」
「もう寝た。明日、実力テストがあるとかで早めに」
「そうか」
「結衣は十時前に帰ってきた。塾、今日は遅かったみたい」
「ん」
レンジが鳴った。
皿を取り出して、カウンターに置く。
箸を手に取ったところで、美紀がソファから立ち上がって台所に来た。
「お茶、いれようか」
「いや、いい。ビール飲む」
「そう」
美紀は冷蔵庫からビールを一缶取り出して、誠司の隣に置いた。
その手が、ほんの一瞬、止まった。
誠司は気づかなかった。
肉じゃがを一口食べて、「うまいな」と言った。
美紀は「ありがとう」と言って、テレビの方に戻ろうとした。
その瞬間だった。
誠司の手から——いや、誠司の上着の袖口のあたりから——かすかに甘い香りがした。
ヤシの実みたいな、南国みたいな、知らない誰かの香り。
美紀は一瞬、足が止まった。
振り返らなかった。
振り返れなかった、というより、振り返ってどうするんだ、という考えが一瞬で頭を駆け抜けた。
「その香り、なに」と聞けるほど美紀は強くない。
聞いて、笑って「石川のやつに借りたんだよ」とでも返ってきたら——それが本当のことでも嘘でも——どちらにしても美紀は笑って「そう」と言うしかない。
それがわかっているから、聞けない。
テレビに向かいながら、美紀はスマホを手に取った。
裏向けに置いてあったスマホを、今夜だけは表に向けた。
アプリを開く。
地図が表示される。
赤いピンが光っている。
場所は、自宅。
当たり前のことだ。今、誠司はここにいる。
わかってる。
それはわかってる。
美紀はアプリを閉じた。
スマホをまた裏向けに置いた。
テレビの中では、タレントが南国の果物を嬉しそうにかじっている。
台所から、肉じゃがを食べる音がした。
箸の音、茶碗の音、ビールを飲む音。
いつもの夜。
何も変わっていない。
——でも、あの香りはなんだろう。
美紀はテレビを見ながら、その答えをどこにもしまわないまま、静かに夜を過ごした。
翌朝、美紀はドラッグストアの棚の前で五分間立ち尽くした。
買い物に来たついでに、ハンドケアのコーナーを覗いた。
なんとなく、というのは嘘で、本当はわかっていた。
あの香りを確認したかった。
棚にはずらりとハンドクリームが並んでいる。
薔薇の香り、ラベンダーの香り、無香料、シトラス。
その中に一つ、白いパッケージのチューブがあった。
ヤシの木のイラスト。「ミルクアンドコーナッツ」という商品名。
手に取って、キャップを開ける。
甘い香りがした。
ヤシの実みたいな、南国みたいな。
美紀はしばらくそのチューブを持ったままでいた。
これだ、と思った。
昨夜、誠司の手から漂っていた香りは、これ。
この香りを知っている誰かが、誠司の手に触れた。
それだけのこと。
それ以上ではない。かもしれない。
でも、それ以下でもないかもしれない。
美紀はチューブを棚に戻した。
買わなかった。
買って確認してどうするんだ、という声が頭の中でした。
それは美紀自身の声だったか、それとも昨夜から住み着いた誰かの声だったか、自分でもよくわからなかった。
レジに向かいながら、美紀は今夜もスマホを裏向けに置こうと決めた。
裏向けに置けば、見なくて済む。
見なければ、知らなくていい。
知らなければ——まだ、何も始まっていないことになる。
そういう論理で、最近の美紀は生きていた。
同じ朝、誠司は洗面台の前で手を洗いながら、昨夜のことを思い出していた。
ハンドクリームのおかげか、指の節の荒れがずいぶんましになっている。
夜塗って、朝になってもまだ少し香りが残っていた。
別に、なんてことはない。
部下が親切にしてくれただけだ。
石川は気が利く。
それだけのこと。
今夜も残業になりそうだから、また声をかけてみようか——そう考えながら、誠司はネクタイを締めた。
台所から、美紀の声がした。
「翔太ー、七時二十分よー」
二階から翔太の「はーい!」という声が返ってきた。
田中家の朝が、今日も七時二十分に始まった。
スマホは四台、全部、裏向けになっている。
誠司の手には、かすかにヤシの実の香りが残っている。
美紀は今朝も、何も言わない。




