第一話 完璧な我が家の、完璧な嘘
田中家の朝は、いつも七時二十分に始まる。
トースターの音、コーヒーメーカーのため息、二階から降りてくる足音のリズム。
どれも変わらない。
どれも正確。
まるで、誰かがそう決めたみたいに。
そして全員が、テーブルにつく前に一つだけ確認することがある。
スマホを、裏向けに置くこと。
いつから始まったのかは、誰も覚えていない。
ただ気づけばそうなっていた。
食事中はスマホを見ない、という家族のルール。
口で決めたわけでも、誰かが提案したわけでもない。
田中家では、そういうことが多い。
◆ 誠司
田中誠司は、四十五歳にして「おはよう」の言い方を三種類持っている。
妻の美紀に向けるのは、少し低く、少し穏やかな「おはよう」。
娘の結衣に向けるのは、短くて軽い「おはよ」。
息子の翔太に向けるのは、わずかに声を張り、わずかに笑みを乗せた「おはよう」——翔太がまだ信じているような、頼れる父親の声で。
ネクタイを締めながら、今日のスケジュールを頭の中で並べる。
朝イチで得意先に電話。
十時から外回り。
昼前に部下の石川と合流して、夕方以降は駅近くのラーメン屋に寄るつもりだ。
いつもの席で、いつもの味噌ラーメンを食べて、石川と他愛もない話をする。
それが最近の「息抜き」。
家族には言っていない。
言う必要もない、と思っている。
思うことにしている。
部下と飯を食っているだけだ。
やましいことは何もない。
でもなぜか言えない。
言えないというより、言わなくていいと思っている。
その違いが何なのかは、誠司自身もよくわかっていない。
コーヒーカップを手に取り、窓の外の曇り空を見る。
今日は傘が要りそう。
美紀が背中でトーストを焼いている。
翔太がリビングに降りてくる音がした。
「おはよう」と、誠司は三番目の声で言った。
今朝も三種類、すべて完璧に使い分けた。
◆ 美紀
田中美紀は、今朝で十四日連続、スマホを裏向けに置いている。
理由は一つだ。
表向けていると、あのアプリを開いてしまうから。
アプリの名前は言わなくていい。
要するに、地図。
ひと月ほど前、特に深い考えもなくインストールして、誠司の鞄に小さな端末を仕込んだ。
最初は「確認するだけ」のつもりだった。
赤いピンが、今日も夫の鞄の中にある。
昨日は「会社」、一昨日も「会社」、その前も「会社」。
当たり前のことを毎日確認して、毎日少しだけ安堵して、毎日少しだけ惨めになる。
それが最近の美紀の朝だった。
トーストが焼けた。
バターを塗って、四枚、皿に並べる。
誠司の分は耳まで焼けるように、翔太の分は少し薄めに、結衣の分はそのまま——家族の好みを体が覚えている。
十六年分の積み重ね。
それだけは本物だ、と美紀は思う。
毎朝思う。
「おはよう」と誠司が言った。
振り向いて、笑顔を返す。
「おはよう。今日も早いね」
「ちょっと外回りがあってな」
「そう。ご飯、食べていきなよ」
「ああ」
会話はそれだけだ。
それだけで足りる。
十六年かけて最適化された夫婦の朝の会話量が、これだ。
さすがね、と美紀は心の中で付け足した。
嘘が上手くなったわね、私も。
◆ 結衣
田中結衣は、今朝の塾のテキストをリュックに入れなかった。
入れても意味がない。
今日も行かないから。
別に怠けているわけじゃない——と、自分に言い聞かせる毎朝がある。
本当のことを言えば、塾に費やす三時間を、もっと別のことに使いたい。
文学部の過去問。
現代文の参考書。
それから、翔太の帰り道を確認すること。
先週の火曜、靴箱の前でクラスメートに囲まれている弟の背中を見てしまってから、結衣は週に二回、遠回りをするようになった。
翔太の通学路を、気づかれない程度の距離で後ろから歩く。
翔太は振り返らない。
振り返らないから、何もわからない。
でも何かをわかりたくて、結衣は今日も歩く。
理系の大学志望、という嘘はまだ続いている。
親に言えていない。
言えるわけがない。
お父さんは、娘の夢より娘の偏差値の方が気になるタイプだから。
お母さんは、今それどころじゃなさそうだから。
何がそれどころじゃないのかは、結衣にも正確にはわからない。
ただ最近の母は、時々スマホを見ながら眉間に皺を寄せていて、誠司が帰ってくると急にしまい込む。
十八年間一緒に暮らしていれば、それくらいのことは見える。
テーブルに着くと、父と母がちょうど向き合って笑っていた。
なんの話をしていたのかは知らない。
結衣は「おはよ」とだけ言って、トーストを一枚取った。
◆ 翔太
田中翔太は、階段を降りる前に三秒かける。
三秒で、顔を作る。
眉毛を少し上げて、目の力を抜いて、口角を自然に——と言っても「自然な笑顔」はもう自然じゃない。
鏡で練習した笑顔だ。
中学三年生、十五歳の翔太は、もう随分長いこと、この笑顔で家に帰ってきている。
いつからか、出かけるときにも使うようになった。
「ただいま」の次に「楽しかった!」を言う。
それがルールになっていた。
自分で決めたルール。
今日も学校は楽しいはずだ。
楽しかったことにする。
楽しかったと思えば、そのうち楽しくなるかもしれない。
なるといいな、と翔太は思っている。
毎朝、思っている。
思わないと、階段が降りられない気がする。
リビングに降りたら、父が振り向いた。
「おはよう」
いつもより少しだけ声が大きい。
元気そうに聞こえる声だ。
翔太は「おはようございます!」と返した。
「!」が要る。
それも、ルール。
四人が揃った。
椅子を引く音、コーヒーカップの音。
いただきます、の声が重なる。
スマホは四台、全部、裏向けになっている。
「翔太、学校どう?」
誠司が聞いた。
トーストを嚙みながら、でも目はちゃんと翔太を見ていた。
いい父親の目で。
「最高!」
翔太は答えた。
一秒も迷わず。
「友達とか、仲ええやつおるの」
「おるよ!クラスの田村とか、めっちゃ面白いし」
「そっか。部活は」
「バスケ、今月大会あるんだよね。楽しみ!」
誠司は頷いた。
「そっか、それはよかった」と言って、コーヒーに口をつけた。
翔太の笑顔に、何かが引っかかった——気がした。
「田村」という名前を聞いたのは初めてだ。
「楽しみ」という言葉の前に、ほんの一瞬、間があった気もする。
でも誠司は、その「気がした」をコーヒーと一緒に飲み込んだ。
今日は朝イチで得意先に電話しなければならない。
十時には外回りに出る。
昼前に真央と合流して、夕方以降にラーメン屋に寄れるか確認する。
やることは多い。
父親の心配は、後回しにできる。
「結衣、今日塾か」
美紀が聞いた。
「うん」結衣は目を上げずに答えた。
「夜、遅くなるかも」
「何時ごろ帰る」
「九時くらい」
「わかった。ご飯、ラップしとくね」
「ありがとう」
それだけの会話。
美紀は翔太のグラスに麦茶を注いだ。
誠司は残りのトーストを食べた。
誰も余計なことを言わない。
静かで、穏やかで、整った朝。
完璧な朝。
四人とも、そう思っている。
食器を重ねていた美紀の手が、一瞬止まった。
誠司の上着の裾から、かすかに甘い香りがした。
ほんの一瞬。
誠司本人は気づいていない香りだ。
ヤシの実みたいな、南国みたいな、知らない誰かのハンドクリームの香り。
「……なんでもない」
美紀は洗い物を始めた。
水の音が、台所いっぱいに広がった。
結衣が立ち上がる拍子に、チェストの上の写真立てが目に入った。
七歳の翔太と、三十八歳の誠司が、リビングで向き合って両腕を広げている。
二人とも、本気の顔をしている。
変身ポーズ。
今となっては誰も話題にしない写真が、今日も埃をかぶって、田中家の朝を見ていた。




