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ネストは絵の具や筆、パレットの置かれた小さなテーブルを力任せに倒した。
そして、いつもの小声とは全く違う、驚くほど大きな声を出した。
その声は怒鳴り声というよりも、悲痛な叫びだった。
「ケイトさんは、あんな絵しか描けない僕を捨てたんだ!」
あんな絵というのは、あの素晴らしい風景画のことだろうか?
「違う!! 落ち着いてくれ! ネスト!」
俺の言葉など聞こえていないのだろう。
ネストはその大きな手を俺に伸ばしてきて、大きな両手で俺の首を掴んだ。
「っ!?」
驚いている間に、徐々にネストの手には力が込められていく。
「価値のない絵ばかり描いている僕なんていらないから、ケイトさんは僕を捨てたんでしょ!? ケイトさんに捨てられなかったら、こんなことにはなっていないのに!!」
まさか、そんなふうに思われているなんて思わなかった。
「誤解だ」と、伝えたくても、喉が圧迫されて声は出ない。
「あなたが僕を捨てたからこうなったんです」
ネストは泣いていた。
大きな体を震わせ、大きな手で俺の首を絞めながら、涙を流していた。
震えるネストの手が首を絞めてくるが、それはすぐに意識を失うほどには強くない。
きっと、抵抗したら、ネストから逃げることはできる。
だけど、絵を描く人間の手を乱暴に扱いたくはなかった。
今、俺の首を絞めている手は、最高に美しい絵を生み出す神の手なのだ。
意識が遠のく中で、前世の最後を思い出した。
彼女は、あの後、幸せになれただろうか?
抑圧された中で、たった一枚の絵を隠して持つことさえもできなかった女は、どうなってしまったんだろう?
抑圧され、搾取されているなら、一度くらいは、搾取する側に回ったっていいと思った。
『旦那様に絵を隠している方もいますよ……』
俺の言葉は、彼女をさらに追い詰めただけだった。
そうか、俺がネストから逃げたから、ネストは追い詰められてしまったのか……
どうやら、俺はまた、殺されることになるらしい。
……この手に、殺されるのならば、悪くはないかもしれない。
「リュエルさん!!」
意識が薄れる中で、ケイジの声が聞こえた。
結局のところ、俺はケイジに助けられた。
執事は初めて聞くネストの叫び声に驚き、ケイジを呼びに行ってくれたそうだ。
意識は失ったものの、体は無事だ。
「どうして抵抗しなかったんですか?」
そう聞いてきたケイジに、手というものが画家にとっていかに大切なものかと語ると、呆れた眼差しを向けられた。
俺だってわかっているのだ。自分を守らないなんて、馬鹿なことだって。
それと同時に、自分がいかに酷い人間なのかもわかっているつもりだ。
そんなことがあった数日後、俺は皇帝陛下の前にいた。
そこはいつもの謁見室ではなく、皇帝陛下の執務室だった。
そこには宰相と、そしてケイジがいる。というか、ケイジがここに連れてきたのだ。
いつもは広い謁見の間で遠い玉座に向かって跪いているため、ローテーブルを挟んで、ソファー席に座っている状態が落ち着かない。
皇帝陛下と宰相との距離が近すぎる。
緊張感でどうしていいかわからず、ただただ紅茶で満たされたカップを見つめていた。
「リュエルよ、バッティスのことは宮廷画家とする」
唐突な皇帝陛下の言葉に、俺は思わず顔を上げて、皇帝陛下のご尊顔を直視してしまう。
思わず顔を上げてしまったが、ルネスの件に関して、俺がどう返していいのかわからない。
「バッティスが描いた神の子が侯爵の死に繋がったかどうかをはっきりと証明することはできない」
ネストの絵が結果的に侯爵の死を招いたのだとしても、実際に手をかけたわけではない。
直接的な脅迫などで侯爵の心を乱したのならばまだしも、ネストはただ、望まれるままに絵を描いただけなのだ。
ネスト自身は手を下していない。
「これから、バッティスには宮廷画家として、貴族たちの肖像画を描いてもらうつもりだ」
「風景画ではなく……ですか?」
思わず、無礼にも皇帝陛下の話を遮るような形で言ってしまった。
「お言葉を遮り、申し訳ございません」
俺は慌てて謝罪した。
「よい。気軽に話をするためにそなたにはここに来てもらったのだからな」
皇帝陛下に俺みたいな平民が気軽に話せるわけがない。
「それで、風景画というのは、どういうことだ?」
「恐れながら申し上げます。バッティスの真の才能は、風景画にこそ活かされるのです」
「ふむ」と、皇帝陛下は何かを思案するように黙り、宰相も何かを考えているようだった。
しばらくすると、二人は視線を合わせた。
「陛下、風景画の方が都合がいいかもしれませぬ」
宰相の言葉に、陛下は「そうだな」と頷いた。
都合がいいとは、一体何のことだろう? 先ほど、貴族たちの肖像画を描いてもらうと言っていたことに関係があるのだろうか?
「では、バッティスには風景画を描いてもらい、その風景画に魔力の絵の具で神の子を描いてもらおう」
風景画に、魔力を流し込まなければ見ることのできない神の子を描く……
「彼の才能で、断罪したい者がいるということでしょうか?」
思わずそう聞いてしまい、俺は焦った。
俺は、今まさに陛下たちの何らかの計画に巻き込まれようとしているのだ。
そして、今の言葉は、俺が自ら罠にかかってしまった瞬間だっただろう。




