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マルクス主義者と言語学の諸問題

『言語が存在し、創造されたのは、まさに社会全体に対して奉仕するためであり、人々の間の交流の手段となるためでもあり、社会の構成員にとって共通のものとなって社会の単一の言語を構成するためでもあり、そして何より階級的状態に関わらず社会の構成員に平等に仕えるためである。』

――I.V.スターリン


***


「……目覚めた、か。」

 秋の朝の光、鳥の鳴き声と共に、ソフィアは夢も見ない深い眠りから文字通り呼び起こされた。


――そう。彼女は昨夜、気絶に近いとはいえ、「眠って、起きた」のである。


「天井……変わってないわね……手も……変わってない、と……」

 そうこぼすと、彼女は目をつぶり、その変わっていない子供の右手をまぶたの上に重ね置いた。もちろん二度寝を決め込むわけではない。思考の海へと沈んでいくのだ。


(あの2つの月……赤と青の月……未だに鮮明に思い出せてしまう。やっぱりあれは、どう考えても夢でもなんでもなく、私が肉眼で目撃した実際の天体。)

 赤い月と青い月の輝く夜空が想起される。


(それに、もしこの現状が、走馬灯や幻覚だったら、意識を失って再び目覚めて同じ光景が続くなんてやはりどう考えてもあり得ない。発狂説はまだ棄却されないけど、しかし検証のしようもない……)

 意識を失い眠って起きたら時間経過以外の変化がない。


 こうして、以上からソフィアは現状を総括する。

(つまり、最も可能性が高いのはこうね。)


1.現状の一切は現実である。

2.今の私は48年生きたこれまでの人生の肉体ではなく、ギムナジウムに入るかどうか程度の年齢の健康体の、少なくとも昨日まで自分の幼少期と思えたくらいには瓜二つの子供として存在している。

3.しかも今の私は月、いや衛星が2つあるという「少なくとも地球でない」のは確定している、でも地球とよく似た宇宙の何処かの惑星に存在している。


(以上のこの状態に至るまでに、あのルビャンカでの時間以来何が起きたか、どうして、どのようにしてこうなったかは一切不明、かつ現状は不明点が多すぎて全て棚上げするしかない。要は、全く何もわからない。)

(……客観的現実は、意識とは独立して存在する、か。私もそう思ってるけど、けど……)


「はぁ……そうは言ったって、こんな現実、どうすればいいのよイリイチ……」

 思わず嘆きは声に出ていた。今は亡き師父の顔が脳裏に思い浮かぶ。彼だったら果たしてどう思考し行動したか。いずれにしろ、ソフィアにとっても十年以上前に死んだ男は、その問いに答えることはない。オマケにここは異世界である。なおさらそうだろう。


 そう言うなりゆっくりと上半身だけ起こすと、ソフィアは深呼吸して、両の頬を両手で叩いた。

「ええい、しっかりしなさいソフィア・レーベン。ここは現実よ。私は生きているのよ。どうせなら、もう一度死ぬまで生きてやりなさいよ。」

 こうして無理やり切り替えようとした彼女だったが、ある意味外部からの救済のように、扉をノックする音が鳴り出した。思考に夢中で部屋に近づく足音にソフィアは気づいてなかったのだろう。


「お嬢様。おはようございます。お目覚めの時間ですよ。」


(……あっ。そうだった。今の私も貴族の娘じゃない!こうなるに決まってるわよ!)

 ギムナジウム時代、まだ「ローゼンブルク男爵令嬢シャルロッテ・ヘレーネ」だったころ、生来の性質を誤魔化し必死に社会に溶け込もうと努力していた記憶が蘇る。しかし同時にあの時は、成長段階と共に既知の社会に少しずつ進出していったのであり、未知の社会にいきなり放り出されたわけではない。

 今の彼女は、ある意味一面では白紙状態(タブラ・ラサ)なのである。

(……でも溶け込もうにも分からないことが多すぎる。とりあえず流れに身を任せつつ、不審がられないようにしないと。こんなアンシャン・レジーム期の社会なんて、19世紀末のあの反動的なバルト貴族社会よりヘタしたら非科学的よ。最悪、”治療”と称して変な行為をさせられ、それこそ本当に発狂しかねないわ!)

 このように脳内で延々と思考しているせいで、実際の返事がされない。


 もちろん彼女の頭の回転は基本常人より早いので、絶対量ではそこまで時間は経過していないのだろう。

 だが少なくとも部屋の外にいたメイドが待つことをやめて別の行動をするには十分だった。


「お嬢様、入りますよ。」

 その声が聞こえたソフィアは思考を中断し、どう取り繕うか考えた末に、あることを試してみることにした。


 ソフィアは扉を開けた音がするなり急いでシーツに潜る。

 入ってきた女性がベッドに近づき、寝具を一枚一枚剥ぎ取って行くと、当然くるまった子供が出てくることになった。要は、遊びで隠れる、というふりをするのだ。


「はあ……お嬢様、起きてたら返事してくださいよ。バレてますからね。」

 当然、シャルロッテ・ディ・ミルネージュという少女の前科……いや遊び心は、ソフィアがカモフラージュをするには十分すぎるほどだった。

「えへへ、見つかっちゃった。」

「はい、見つけました。では、お着替えをしましょうね。さ、ベッドから出ましょうシャルロッテ様。」

「はーい。」


 こうして、ソフィアは朝の支度をしてもらうことになる。


 中年のメイドによる手慣れた手つきで着替えさせられ、概ね無言の時間が流れていた。そしてこれ幸いとソフィアは目の前のメイドを観察している。しかし、”ノイズ”が挟まるのだ。


 ふくよかな頬、優しげな目元。年齢は四十代半ばといったところだろうか。

 ここまでは、単純な観察の結果である。そしてここからが”ノイズ”である。


――エルマ。


 このように、名前がごく自然にソフィアの頭に浮かんだ。()()()()()()()()()()()人間に対して。


(……エルマ。この女の名前は、エルマ。姓は知らないが、名は分かる。何年も前からこの屋敷にいて、南の方の出身で……)

 ごくごく断片的な情報とはいえ、まるで最初からそこにあったかのように色んな情報が次々と引き出されてくる。

 ソフィアは思い出そうとすらしていないし、もちろんかつてのリガの屋敷でも見たことはない。しかし、頭には何故かすぐに思い浮かぶ。

 

(……やっぱり、おかしい。)


 昨日も同じことがあった。教育係のマダム・カトルー。アンリエッタという少女。マリアンヌという少女。この屋敷の構造。両親の顔。

 全て、初めて目にしたはずなのに、まるで「知っている」という感覚があった。一方で、ソフィアのこれまでの人生を辿れば「知らない」と断言できる。


 何より、その「知っている」という感覚に奇妙な軽さ、と言うべき何かがある。

 まるで、人生について事細かに書かれた詳細な日記を読んだような、知っているのに、経験したという体感が欠如していて、”情報”だけがあるような気分がするのだ。


 そもそも昨日のソフィアは、それらの情報を「走馬灯が記憶を元に捏造し構築した登場人物」として処理していた。脳が過去の記憶を組み合わせて、精密な幻覚を作り出している――そう定義することで。

 もちろん”思い込もうとした”のは否定できないとはいえ、「記憶のツギハギだとすれば、記憶にないのも仕方ない」と昨日まで無意識的に強弁できたのだろう。


 だが、今はもう、そうは言えないのだ。


(現状は現実で、走馬灯ではない。これこそが本来の答え、全ての前提。つまり彼ら彼女らは、私の脳が私の人生の記憶から勝手に作り出した架空の人物ではなく、現実にいる人間と言うしかない。……では、そもそもこの記憶は、情報は、どこから来たの?)


 いくら考えても、問いの答えは変わらない。


(……結論は一つ。私の、ソフィア・レーベンの48年の人生に由来しない記憶が、今の私には、脳の中には、明確に存在している。これは、何なの?)




 ここで少し視線を外に戻すと、朝の支度は着替えの半分ほどが終わっている。

「お嬢様、上の肌着をお替えしますね。」

 思考に夢中のソフィアは促されたのに軽く頷くと、たちまち上半身が裸になって、鏡に映る自分の姿に直面することになる。

 今朝と違って昨夜は無我夢中で観察するモチベーションが特になかったとはいえ、それでも欠片も自己の連続性を肉体の面から疑うことができなかった程度には、かつての自分とやはりよく似ている。薄い金の髪。薄氷色の瞳。白い肌。背丈。顔立ち。


 しかし、じっくりと観察すると、やはり違いは分かるものだ。

(……右胸の下側に黒子。左肩の側面に裂傷の自然治癒した跡。こんなもの、かつての私にはなかった。断言できる。逆に左頬の黒子がない。……やっぱり、肉体が、違う。)

 彼女は、「なぜここに傷があるのか?」ということすらも()()()()()()()()ことからして、結局一つの答えを導くしかなかった。


(この肉体は明確に私ではない。そして私が若返ったわけでもない。しかし今や意識は完全に私であり、同時に私は、私ではないこの肉体の……シャルロッテ・ディ・ミルネージュという少女としての記憶を持ってしまっている。)


 唯物論者として、「魂」などという概念を信じてはいない。意識は脳髄の産物だ。ソフィアはそう信じている。だが今は同じ脳に、二つの意識が時間軸は違えど確かに存在しているとしか説明できない。

 同じ人間の中に複数の人格が存在する症例――二重人格。すぐに医学・生理学の範疇での概念が思い浮かぶ。

(同じ肉体に二つの人格。……近いかもしれない。でも、違う。)

 二重人格は、通常同じ人間の中で人格が交代する。記憶も部分的に相互に共有される。少なくともそういう場合が多いとされている。

 しかし今のソフィアの中には、「シャルロッテとしての人格」は欠片も存在しないし、認識すらできない。あるのは、あくまで体感した感覚が欠落した情報としての記憶だけだ。


(……二重人格に類似した何か、というところかしらね。完全な説明にはならないけど。でも、私は明確に別の人間の肉体に属していたのが、やはり引っかかるわね。)

 しかし、説明がつかないからといって、立ち止まっている時間はない。今の彼女は、現実を生きているのだ。

(分からないことは、分からないままにしておくしかない。これについても棚上げね。……それにしても、少し気の毒ね。)

 

 実感は全く無いとはいえ、この少女としての記憶は明瞭にある。

 遊び回るのが楽しい、イタズラをするのが楽しい、お菓子を食べるのが幸せ……いずれも、かつてリガの屋敷にいた同じような年頃の自分とは似ても似つかない。

 あからさまなくらい、無邪気な子供だ。


 しかし、彼女の意識は、最早存在しなくなった可能性すらある。


――それは死と何が違うのか?


 自分との違い故に、明確に他人であると割り切れたことで、しかし同じ肉体の同居人として、こうして大人と子供の差ゆえの奇妙な感傷が思い浮かぶのだ。


 とはいえすぐにそれをソフィアは振り切った。

(……それは観念論だし、小市民(プチブル)的な感傷主義(センチメンタリズム)よ。しっかりしなさいソフィア。同情したところで何も建設的なものはないわ。彼女は、もう一人のシャルロッテは、今や私なのよ。)


「さ、お嬢様。もうすぐ終わりますよ。髪を整えますから、動かれないように。」

「わかってるわ、エルマ。早く朝ごはんが食べたいもの。」

「その通りですね。では、急ぎますよ。」

 熟練の手つきで素早く、丁寧に髪を仕上げられると、そのまま部屋を出て朝食の席へ向かうこととなった。




 朝食の席に着いた時、既に両親と兄姉たちが揃っていた。シャルロッテ、つまりソフィアはどうやら最期だったようだ。

 昨夜にいなかったのでソフィアは彼らとは初対面だが、シャルロッテの記憶を辿ると、すぐに名前と自分との関係が出てくる。長男のアンリ、長女のマルグリット、次男のフィリップ、次女のイザベル。それぞれ年齢も性格も、断片的だが情報として存在している。


 とはいえ結局他人を演じてこれから生きる以上、明確に注意しないといけない。自然とソフィアは観察と会話の聞き取りに集中しようと黙ってしまう。朝食は幸いにも昨夜と同様、かつての人生で食べていたものと似たようなものであった。


 しかし、それはすぐに断ち切られてしまう。

「シャルロッテ、おはよう。今日は静かね。」

 次女のイザベル、下の姉にあたる人間が、こちらを見て言った。


「おはよう、イザベル姉様。……少し、考え事をしていたの。」

「まあ、珍しいわね。」


 その瞬間、ソフィアは先述したように会話の聞き取りに集中していたおかげなのか、ある違和感に気づいた。

(……私は、今、何と発した?”Guten morgen.”と口が動いてない気が……えっ……)


 そう。彼女は、これまで常に母国語のドイツ語で思考していた。

 一方で彼女はロシア帝国の貴族令嬢であるという環境と教育、各国を渡り歩く革命家としての必要性、そして個人の才能も相まって、語学に優れた多言語話者であった。それ故に、気づくのが遅れたのかも知れない。


 客観的に言えば、彼女は、昨日からずっと、ドイツ語でもロシア語でもフランス語でも、その他地球にある言語のどれでもない言葉で話していた、聞き取っていたのである。――ただ、本人だけが気づいてなかった。


(一旦、ロシア語で考えましょう。)

「イザベル、シャルロッテだって昨日は”天啓の儀”だったのよ。ちょっと変でもそういうものじゃないの?」

「でも姉さま、あのシャルロッテですよ?」

 会話は続いていたが、シャルロッテつまりソフィアが脳内で思考言語を切り替えようと何も起きなかった。


(……()()()()()()()()。)


 ラトビア語、スウェーデン語、ラテン語……どう切り替えても、何も変わらなかった。


(……今度は発話を。言うわよ、ソフィア。”Доброе утро.”)

 ソフィアは、さりげなくスープを口に運びながら、内側で実験を始めた。ロシア語で「おはよう」と言うのを強く意識してやってみる。

「ドーブラ……。」

(発音が、できない……!)


「……あら?」

 音に反応して母親が、こちらを見た。

「シャルロッテ、何か言った?」

「ううん、何でもないわ。お母様。」

 この答えを言うのには、何の差し障りもない。


 ソフィアは取り繕いながら、内側で激しく動揺していた。


(意味だけが一緒で、出てきた言葉が、音が、違う。私は確かに今の答えはドイツ語で発音しようとした。でも、口から出たのは……知らない言語。)


 どこの……?と言う問いは、少女の、シャルロッテの記憶が補ってくれた。ここは、この国は、クリヴィア。王様が治める……

(……Königreich Krivia、クリヴィア王国ね。そしてこの国の公用語でクリヴィア語、というところかしら。)


(……つまり。)


 頭の中で何語で考えても、口から出てくるのは「この身体が知っている言語」――そういうことらしい。

 無論、別人の子供故に発音の感覚が肉体にないからソフィアにとって既知の言語は発話できないだけで訓練で再習得できる可能性は否定できないが。


(思考と発話の間に、私の意識しない過程で、翻訳・変換が挟まっている。という感じかしら。同時にこの星は地球ではないことを踏まえれば、明らかに私が無意識でできることでもない。……また不条理が増えたわね。これも棚上げ、か。流石に多すぎるけど、仕方ないわ……ああ、イライラするわね。)

 水を少し飲んでフラストレーションを鎮めようと試みる。

(でも、言語の……自動的な翻訳現象?は肉体の、もう一人のシャルロッテの記憶が紐づいている部分があるなら、悪くはないわね。少なくとも私は、”クリヴィア語を母国語にしている10歳程度の人間”として学習を始められる。当面の意思疎通にはこれまでで分かるように困らないはずだし、普通なにかの言語を会得するときに挟まる過程を大部分、既習の感覚で処理できるはずよ。異星の言語だから本来もっと困ってもおかしくないのに、これは大きいわ。……まだこの知性の欠片もない子供の語彙なのは、少々癪に障るけどね。まあ積み上げていけばいいわ。)


(シャルロッテの記憶を、私が知った形で一つずつ確認し、そして同時にこの世界の全てを知る。勉強嫌いの子供みたいだけど、”天啓の儀”で色々変化の根拠にさっきからされている以上、どうにでもなるでしょう。)


 本来の肉体の持ち主が見たら抗議をしてもおかしくない物言いをしながら、ソフィアはゆっくりと朝食を続けていた。

 思索より行動、理論より実践。


――少なくともこの”白パン”のようなものは、やはり地球のそれと全然変わらないわね。


 などということを思いながら、彼女は無事にまた一つ一日の過程を消化したのだ。

お気づきの方もいらっしゃると思いますが、基本的にエピソードタイトルはマルクス主義関連の著書名やスローガンが元ネタです。今回のようにそのままじゃなくてパロディな時もあるので、みんなもどれが元ネタか考えてみよう!

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