私の個人的課題
『今がまさにその時だ。常に今こそがまさにその時なのだ!我々は誰もその日、その時を知りはしない。だからこそ、その決定的な日へと至るまでの、毎日、毎時、毎分を、決して無駄にせず使い尽くすこと。それこそが、我々の義務であるのだ。』
――L.D.トロツキー
***
覚醒二日目。朝食を終えて。
年齢は二桁を迎え、さらに昨日の『天啓の儀』によって、この国の社会ではまず大人への一歩を確実に終えたとされる。とはいえ、いきなり毎日貴族の子女がやることが180度変わったりはしない。
もちろんある程度は子どもとして気ままに遊べるとはいえ、一方で彼ら彼女らはある意味勉強漬けでもある。特にミルネージュ伯爵家のような有力貴族ならばなおさらだ。
それ自体は『とにかく全てを学びたい』と思っているこの少女の中身からすれば、実に歓迎すべきことなのだが、一方で内容にもよる。
こうして、先日異世界へ転生し、そして自分でも”第二の人生”に向き合った元革命家ソフィア・レーベン、公的にはミルネージュ伯爵令嬢シャルロッテは、早速難題に向き合っていた。
「さ、お嬢様。次はこちらを。」
「……こうかしら?」
「そうそう、お上手ですよ。」
宮廷文化華やかなりしこのクリヴィア王国において、一人前の淑女になるとは、徹底して礼儀作法を覚えることでもある。
その点、前世も滅亡まで宮廷文化は華々しかったロシア帝国の貴族令嬢であり、さらに実家ローゼンブルク男爵家はリガ有数の大資本家でもあったのがソフィアだ。彼女は、ベル・エポックのバルト貴族社会と欧州社交界を、この旧世界を破壊したいという後に得た内心はともかく、確かに「聡明で可憐なシャルロッテ・ヘレーネ」として生き抜いていたのであり、既に学習を終えているようなものだ。
しかし、だからこそ問題が発生しているのである。
まず一つ。どれだけ”シャルロッテお嬢様”が教育係マダム・カトルーの指導を受けていても、転生前の彼女はむしろこの内容は落ち着きのない元気な子どもの彼女にとっては苦手なことであったこと。
もう一つ。それをソフィアは、この世界と地球という、酷似しているとはいえ別の国、別の時代の礼儀作法の完成形を既に身に着けてしまった彼女はは、どう誤魔化し、ほんの少しのしかし確かな成長をしているように見せかけるのかという課題に直面しているのであった。
上手すぎても不信感に繋がるのでいけないし、下手すぎるのもこの苦痛な時間がかえって長引く。
あくまでこの異世界の、ソフィアからすれば異星の礼儀作法を、学習途上の人間として演じる困難な演技を彼女はどうにかこなしていたのだ。
こうして朝食後の午前の時間は丸々礼儀作法の授業に使い果たし、五割増の疲労感を感じながらソフィアは昼食を、これまた家族との会話でボロを出さないように気を遣いながらしていた。
ちなみにあくまで彼らはクリヴィア語を話しており、ソフィアは本人は全く持って無知かつ無自覚だが『転生者』の特殊ステータスに紐づいた自動翻訳スキルによって、その意味が直に伝わってくる。
一方で転生先の、すなわちシャルロッテの肉体に紐づいてしまっているせいで、限界もある。
(あー、あの父親の言うことが、また聞き取れなかったわね。もはや音にしか聞こえないって感じ。)
パンを握るその子供の幼い手に、悔しさでほんの僅かに力が入る。
(ホントに、この子供は、どうしてここまで語彙が少ないのかしら。もう少し勉強しなさいよ!文字通りバカね!……せっかく家族との会話なんていう機密丸出しの空間でされる会話が聞き取れないなんて、なんたる機会損失!)
そう。自動翻訳スキルの範囲は、「覚醒前のシャルロッテが知るクリヴィア語」が現在のところ基準になっているのだ。
例えば、今ソフィアの聞き取ろうとしたことは、今世の父つまりミルネージュ伯爵と成人済の今世の長兄アンリの会話だった。
彼ら、有力貴族の当主とその後継者が話すような内容、もしかしたら領地経営や財産管理、家政や国政に関する情報が含まれている可能性のある、ソフィアからしたら値千金の情報が、自動翻訳スキルの最初の基盤が「十歳の勉強嫌いの元気な女の子」なので知らない語彙になり、なんと言っているのかが聞き取れないのである。
誰も見ていなかったら地団駄を踏んでいたかもしれない。
(落ち着きなさいソフィア、まずはクリヴィア語を学習するって決めたでしょう。シャルロッテの記憶がある以上、ベースの感覚はあるのよ。一歩ずつやっていけば、この妙な現象と組み合わさって、2年もあれば完全に物にできるはず。自分を信じるのよ。)
決意を改めて補強したソフィアは、昼食を終えると今度は午後の学習時間となった。
無論、本来のシャルロッテだったら昼寝か遊びを始めるのが関の山だったので、イタズラに注意するマダム・カトルーの警戒を誤魔化すというバカバカしい作業を最初にしないといけないのであったが。
とはいえ机に向かい、ソフィアにとって待望の座学の時間が訪れたのだ。
(文字は……アルファベットみたいな感じね。32字の記号、しかもある程度は洗練されているわね。文化の発達は薄々思ってたけど、やはりヴェルサイユ文化らしきものがこの国でも発達している以上、やはりフランスと似たような流れみたいね、……それにしても、キリル文字の正書法改革をやったのがなんだか懐かしいわね。)
1918年。
移行期間1年、違反者は秘密警察を印刷所に突入させて、旧字体の文字盤や印刷設備を物理的に破壊・没収するという、世界で最も暴力的な文字改革をロシア内戦の只中にやった。
そんな連中がボリシェヴィキ政権だった。ソフィアが幹部として生きたひとびとだった。
その当事者が、今や10歳の少女として懸命に文字の書き取りを羊皮紙にやっているとは、目の前のマダム・カトルーも、様子をこっそり見に来た今世の姉二人も、予想だにしないだろう。
(やはり、”翻訳現象”は、文章の読み書きにすら出てきてしまう。でも、意識すれば確かにこの本来の文字、本来の文章は見えるわ。それに、よく知らない語彙は、そもそも意味が最初から訳されない。……少々面倒だけど、できないよりずっとマシね。)
実際のところは自動翻訳スキルの仕様に苦戦しつつも、周囲の人間はそんな内幕は知らないし、同時に勉強嫌いで遊び大好きの少女しか知らない。なので「「あのシャルロッテ(様)がここまで……!」」と思われていたのであろう。
客観的にもかなりの時間机の前に集中して向き合っていたソフィアは、「おやつの時間まで休憩もせず頑張ったから」ということで半ば強制的にこの午後の勉強を終わらせられた。
本人からすれば全くの不完全燃焼だが、一方同時に手応えはあったようで、少なくとも菓子の甘みを満足しながら食べることはできたようだ。
おやつを終えて昼下がりの自由時間。
その時間、「お日さまを浴びたいわ」なんて先程食べた菓子のようにソフィアの内心からすれば甘ったるい言い訳をして、それを口実に庭を歩き回りながらソフィアはまたしても思索をしていた。
(結局、この今私がいる場所は、地球ではない。非常によく似ててもそれは事実だ。……つまり、あのクリヴィア語や、今のところクリヴィア文字としか名付けることのできないあの未知の文字のように、地球ではないということを念頭に、全部を学ばなきゃいけない。)
周囲に誤魔化すためにあてもなくてくてくと歩いているのだが、やはり少しずつスピードが遅くなる。
(全ての下部構造たる経済は、一旦シャルロッテとして生きるのには関係ないかもしれないけど、それでも言語、社会、地理、歴史、宗教、文化、自然、気候……あとは一般的なその他諸々の”常識”。これは必須。)
(一応このクリヴィアは、少なくとも今私がいるこの首都らしき都市は、それこそ17世紀みたいな、旧体制のフランスのようにも思える。今のところ、パリとか、ブリュッセルの秋とよく似ているわ。自然環境の類似性は、経済構造を規定すると考えれば思考の基準にはできるでしょう。でもクリヴィア王国が本当に歴史上のフランス王国のような国なのか、この大陸……少なくとも周辺諸国でそういう扱いなのかはまだ断定できない。慎重に扱わないと。)
頬を叩きたくなったが流石に周囲に見えるので一旦やめにした。
そして空に視線を向ける。ぼんやりと、しかしはっきりと、「地球でない証拠」は浮かんでいた。
(それに……月が2つあるの。地球を基準にしてしまっている物理法則も、全部違ってきてしまう。しかもさらに面倒なことに、こっちは学習ではなく自分で観察と実験をして当たりをつけないといけないのよ。)
(この星にも、偉大なりしニュートンが出ていて、”月が2つある惑星の”万有引力の法則を見つけてくれている、私はこの星の『プリンキピア』を読めばいい。……なんて流石に虫が良すぎるわ。)
(マルクスの言うように、科学の発展は生産活動の必要に応じるからこそ必然として現れてくるとはいえ、それはいつか必ずというだけ。今じゃない。もしかしたらこの星のニュートンが出てくるのは50年後かもしれないし、あるいは実は火あぶりに遭う類の宗教的異端かもしれない。とにかく、自分でやるしか今のところはないわ。でも元素とかは同一だと仮定しないと、流石に説明が難しいかもね。それにしたって、分からないことばかり……)
「はあ。多すぎるわよ。」
小声でため息と不満が口に出ていた。
「どうされました、お嬢様。……やっぱりお勉強をやりすぎたのでは。」
「も、もしかしたらそうかもね。でも、早く一人前のレディになりたいもの。このくらいお姉様たちもやっているわ。」
「まあ……シャルロッテ様……!やっぱりミルネージュの血を継いでいらっしゃいますわ。こんなに立派になられて。いずれ良きご伴侶と、必ず巡り逢えますわ。」
シャルロッテのイタズラにかつては翻弄されていたその若いメイドが、「主の成長」に感動していたのだが、当の本人は、非常に本心は冷ややかだった。
(……そして、この「結婚」という、有産階級が私有財産を継承するために築き上げたシステム。しかも封建制下のそれという、人身売買の合法契約。同志エンゲルスの歴史法則は、やはり異星でも健在みたいね。)
前世のソフィア、10代の頃。
ギムナジウムで「ローゼンブルク男爵令嬢シャルロッテ・ヘレーネ」をやっていた時、その少女はまだマルクス主義に出会う前すら、周囲の男たちが自分の知性と釣り合わないせいで、恋や愛という言葉で苦痛を誤魔化せると思えずに辟易していた。
だからこそ、自らを取り巻く世界を、己の背負わされた血の運命を呪い、憎み、絶望していた。
だからこそ、二人のドイツ人思想家の説く理論と思想に、自己の解放と救済を見出した。
だからこそ、革命家になり、世界のあらゆるものを破壊し作り直すことを、全てを捨てて選んだのだ。
それが、それこそが、革命に殺されて生を終えたソフィア・レーベンの一度目の人生だった。
おまけに今、この異世界では10歳の子供だが、既に恋愛も結婚もせず革命家として生ききった48年の人生を生きているのだ。
余計に、これから何をするとも見えなかろうが、少なくとも「座して家に従い結婚する」など、万に一つもあり得なかったのだ。
とはいえ、まだまだ先は遠い。もちろん今は結婚する年齢でもないし、それ自体が数年先のことだ。
短いようで長い。長いようで短い。無駄にはできないとはいえ焦りは禁物。結婚する前にボロが出て監禁とかじゃ話にならない。とりあえず15歳前後までが目処かしらね、と言ったことを思いつつも、日の沈む中そろそろ切り上げるよう促されたので、ソフィアはメイドに従って屋敷の中へと戻っていった。
その日もまた夕食を取り、ベッドに入って、思索にふけり、今度は自分からゆっくりと寝て一日を終えた。
2つの月は煌々と輝き、ソフィアは改めて見ると美しい景色ではあるなと思いつつも、子供の肉体はすぐ眠れるなどと思っていたら自然と意識は消えていった。
このように、シャルロッテとしてソフィアは一日一日を生きていく。
全てが学習の時間、全てが観察の時間、全てが未来への投資の時間。そう割り切って彼女は時に苛立ち、時に悩み、時に混乱して、しかしそれでもなんとか溶け込ませようと努めた。
その甲斐あって、家族も、周囲の人間たちも、少しだけ変わった、健全な成長が始まったのだと都合の良い解釈をできたのである。
無論、『天啓の儀』の影響だろうというのもその根拠ではあったのだが。
そんなある日、ちょうどソフィアは転生から2週間弱。その月の終わりを迎えていた。
「お嬢様、今日は収穫月の終わりでございますね。」
その日の授業を始める時にそういった世間話をやるのも、すっかりシャルロッテがちゃんと授業を受けるようになった以上、マダム・カトルーにとっては上機嫌にできるようになった習慣のようだ。
「そうなの。」
「はい、明日からは薄霧月でございます。」
「えーと、どういう意味なの?マダム?」
固有名詞の部分だけクリヴィア語がそのまま聞こえたので、ソフィアの思考していた疑問はとっさに口から出てしまった。
「ん?と言いますと?」
当然やや不審がられたのですこし誤魔化す。無論かなり慌てているが。
「その……月の言葉って何から来たのかなあって。9番目の月なのは暦を見たら分かるけど、でも収穫月はへヴェスタと言って、”9番目の月”とは言わないでしょう。不思議だなあって思っちゃったの。わたし、変かな?」
好奇心故に何か本質に気づいた子供を装うが、内心冷や汗がソフィアは出た気分なのは言うまでもない。
「ああ、そういうことでございますか。」
納得してくれたようなので、マダムは経緯を語り始めた。もちろんふんだんに神話的・物語的な、非常にポエティックな内容なので、ソフィアは話半分に聞いてはいるのだが。
(なるほど、「収穫」由来か。で、次の月は「霧」……”大革命”前なのにフランス共和暦みたいな暦なのね。ちょっと面白いわ。まあ、一日が32日の月がある時のほうがよっぽど驚いたけど……)
数日前、カレンダーを見た時のソフィアは、奇数月31日、偶数月32日の構成なのを見て改めて「地球じゃない」と実感したのは言うまでもない。要は、”一年が365日”ではなかったのだ。12か月なのを幸運に思うべきかとも思ったが、どうしてそうなったのかが現状わからない以上その時は保留するしかなかった。
少し過去を思い返していたがいずれにしろ、今回ソフィアはまた新たな語彙を得た、と切り替え彼女はまた勉強に戻る。
これからどうにか「普通の人間」になれるまでは綱渡りか、と少し胃のキリキリとした音を聞いたような気がした。
(あと5、いや4年かしら?いずれにしろリガにいた時より婚姻年齢は早いのがこのあたりの時代のはず。だってギムナジウムもないんだものね。やはり12歳ぐらいまでにはクリヴィア語は仕上げたいわね……)
(それに結婚を回避すると言っても、どうするのが都合がいいのか……そこも含めて考えなければいけないわね。本当に考えることが多い、しかも考えるのに昔よりかなり制約がある。これだから子供は……!)
この十日前後、何度も何度も寝落ちしたり頭痛に悩んだりしているので、少しずつブレーキを覚えていってる。だが理性を信じるソフィアにとって、自身の思考に肉体の制約によりブレーキを設けざるを得ないということ自体がストレスなのだろう。
(革命とか政治とかの前に、まずは私という個人が行動の自由を得ないと話にならない。これは確実。社会がブルジョワ革命にどこまで近いのかまだ不明でも、何をするにもこのあからさまに封建的な貴族そのままの家に縛られるなんて論外よ。これを軸に据えてついでに少しずつ考えていきましょう。)
(……それに、”天啓の儀”とか”魔法”とか、地球にない要素も引っかかるしね。地球にないがきちんと科学的に説明できる現象の可能性があるかもしれない。……しっかし、オカルトのはずのものをいちいち考慮しないといけないの、本当に異星って面倒くさいんだから。)
夕食の席。今日この日も少しずつだが確実に勉学は進展したとはいえ、頭をフルで動かすために自然と甘いものをどんどんとつまみ、そして余計に眠気に襲われながら、その日の夜も2つの月の光に気づきながら、彼女はまたベッドへと入っていく。
「お嬢様、カーテンを閉めますね。」
「……いいわ。少し、開けておいて。」
了承する仕草を取ったメイドが部屋を出ていった。
ソフィアは、ベッドに横になりながら、窓の外を見つめた。
大きい青い月と、小さい赤い月。
今度は、頭が焦げ付くような感覚はなかった。ただ、静かに、その光景を見つめる。
(……これが、私の新しい世界の空、ね。相変わらず見てて頭がおかしくなりそう。だけど、でもやっぱりなんか慣れてきてもいるわね。人間ってすごいわ。)
ソフィアは、ふふっと笑いながらゆっくりと目を閉じた。明日からもやるべきことは、山ほどある。
しかし、今夜は――ただ、眠ることにした。




