唯物論と経験批判論
『物質とは、人間の感覚に対して与えられる客観的現実を指す哲学的範疇であり、その客観的現実は我々の感覚によって複製され、撮影され、反映されながら、同時に人間の感覚とは独立して存在するものである。』
――V.I.レーニン
***
「ではマダム、お受け取りください。」
「ありがとうございます、神官様。」
丸められた羊皮紙が、このやり取りと共に老人から手渡された。
そこには、「ミルネージュ伯爵令嬢シャルロッテ」という少女に与えられた、とされる”神々の祝福”、つまり個人の才能と適正そして異能が、情報として明確に記述されていた。
庶民ならばともかく有力貴族のそれは、所謂個人情報どころではない機密中の機密だ。普通ならば「本人の預かり知らぬ所では明かされない」という習慣がつきまとうが、あくまでそれは成人した人間の話である。
教育係であるこの従者に、両親がそれを託すとしたのならば、本人が十歳の少女であるのも相まって習慣の例外であるとされる。しかし同時に彼女は両親の付託によって、本人の教育にそれを最大限活用しなければならない。
信頼と実績を担保にした重い責任が伴うのだが、既に伯爵家の子女の教育に関与すること数度。もはやマダム・カトルーは、もちろん遠縁の親戚であることも前提としてあるが、ミルネージュ伯爵家にとって身内も同然の人間であったのだから。
「お待たせいたしました、お嬢様。では行きましょう。」
こうして彼女は先に待機していた主人のもとへ歩みだした。
「ごめんなさい、マダム。……少し早すぎたかしら。」
しかし肝心の”主人”本人の中身は、マダム・カトルーが知らぬ間に、つい先程前世の人格と意識が覚醒したばかりの転生者、革命家ソフィア・レーベンになってしまったのである。
ソフィアの二度目の人生となった少女、シャルロッテの十年の人生の記憶も今しがた組み込まれた。だとしても、目の前の人間つまりマダム・カトルーはほぼ初対面の他人だ。
故郷リガで「ローゼンブルク男爵令嬢シャルロッテ・ヘレーネ」をやっていた前世の少女時代。ソフィアは、ロシア帝国貴族の子女らしく、最高峰のフランス人家庭教師を招聘されて家庭教育を受けていた。
この経験がなかったら、目の前の他人を”マダム”なんて無難な呼び方をして、とっさに取り繕うことなどできはしなかっただろう。
「とんでもないことです。大事な儀式を終えられたのですから。気持ちが逸るのも当然です。むしろシャルロッテ様らしいくらいですわ。……まあ、”マダム”なんて、誰にも指摘されてないのに言われたのには驚きましたけど。」
「そ、そうかしら……?」
「いえいえ。そういうものを積み重ねて、皆様日々一歩、大人のレディに近づくのです。素晴らしいことでございます。」
こうして二人は部屋を出て歩き出した。
もちろん、マダム・カトルーが先導しているため、今のソフィアは幸運にも、「どこに行けばいいか分からない」という事態は免れたようである。
(……良かった、いきなり話しかけられて驚いたけど、普通に教育係みたいね。……なんだか懐かしいわ。)
かつての記憶を少し思い返す中で、徐々に覚醒の余韻、本人の視点に立てば「頭の回転が妙に遅い」としか理解できていないその感覚も収まってきた。
だが、むしろそれは並行して起こった感覚の明瞭化の代償とは釣り合っていないのかもしれない。
何しろ、”違和感”に気づくこととイコールだったのである。
(……ん?身体が……痛くない?)
そう。ソフィアの意識の最期の記憶は、ルビャンカの地下。
あの時は、要するに”気合”とか”根性”とか、そういう言葉で表現できる類のもので耐えていたのであり、身体はNKVD職員達による拷問と暴行でひどく衰弱し、損傷し、はっきり言えば回復の見込みすら怪しいほどボロボロだった。
結局のところ、「痛みを我慢する」とは「痛みがない」とは違う概念だ。
綺麗さっぱり痛みがなく、なんだったらまともに歩けている。
それは、本来おかしいのだ。
――少なくとも、彼女の主観では。
(え、なんで?)
ふと、立ち止まってしまう。立ち止まってしまうと今度は、別のことに気づく。
(あれ?視界が……低い?というか、ここ……どこ?)
何しろ十歳の少女の背丈である。
当時の成人女性の平均かそれより上程度とはいえ、160cmほどあった前世の背丈。
明確に大人であったソフィアからすれば、それこそが「つい先程までの視界」であり、これとは明らかに「今の視界」とは異なっている。
さらに風景すら、やはり見覚えがあまりない。
すぐに自分の手を上げて見つめた。
視界の低さのせいであろうか、彼女は「やはり」と思ってしまった。……短い。シワもない。瑞々しく、滑らかだ。
――まるで、ギムナジウムに入った時くらいの……。
ソフィアの背筋に一瞬、悪寒が走った。
――意味がわからない。ルビャンカどころか、ギムナジウム?あり得ない。四十年近く前だ。
こうして理解不能な不条理に襲われた彼女は、ある意味”都合の良い”解釈へと若干強引に着地した。
(……ああ、これが走馬灯と言うやつか。やっぱり死んだのね、私。いや、正確に言えば走馬灯は死ぬ前に起きるらしいけど。どっちにしたって変わらないわね。)
そう。ソフィアは、ボリシェヴィキだ。
つまり、彼女は「死後の世界は存在しない」「宗教はアヘンである」という教義を、世界に押し付けようとした国を作った側の人間である。
オマケに21世紀の現代を生きる日本人でもないのだ。
天地が逆立ちしたって、「異世界に転生した」なぞ、思い至るはずもない。
また、「Charlotte」という”捨てた名前”とはいえ、かつてのソフィアの本名であるファーストネームで、今の彼女も呼ばれているということ。
これも、ソフィアに「過去のことである」という前提に違和感を抱かせなかった原因なのは間違いないだろう。
ただ、このように少し思索に意識が飛んで歩くことを怠っていたせいで、マダム・カトルーからしたら後ろの足音が聞こえなくなったというのが察知できたようだ。
「シャルロッテ様、どうかしましたか?」
彼女が振り返り、慌ててソフィアは思索から現実へと引き戻された。
「あっ、ちょっとぼーっとしちゃって。ごめんなさい。」
「……少しお疲れかもしれませんね。とりあえず、向こうに着いたら少しお休みしましょう。もうすぐですよ。」
「分かりました。」
こうして数分ほど歩くと、二人は目的地に着いた。今日、このアカデミーで儀式が終わった子供たちと付添の大人たちの待機する談話室である。
談話室は、アカデミーの一角にある広めの部屋だった。
儀式を終えた人々が思い思いに過ごしている。窓から差し込む秋の昼の光が、磨かれた床に長く伸びていた。
ソフィアは、マダム・カトルーに促されるまま椅子に腰を落ち着けた。
(さて。整理しなければ。まず私は今……。)
「シャルロッテ様!終わりましたの?」
甲高い声が思索を遮って飛んできた。
振り返ると、見覚えのある顔がある。先ほど回廊で隣に座っていた少女だ。
名前は……記憶を手繰ると、すぐに出てきた。
アンリエッタ。ラヴィエンとかいう子爵家の娘。その隣にいるのはマリアンヌだったか。確か侯爵の娘……。
――そんな人間と会ったこと、あったか?
ところで、今やソフィアはこう思い至ってしまう。本人には”今世の記憶”という自覚がないのだから、当たり前だ。
ただ「会ったことがない」とも彼女が断じれなかったのは、西欧社交界で本当に貴族令嬢をやっていたせいなのだが。
「……ええ、終わったわ。その……マリアンヌも?」
「もちろん!もうずっと前に!ねえ、どうだったの?すごい祝福が出た?」
「マリアンヌ様、はしたないですわよ。」
アンリエッタが遮るも、好奇心を隠す気もない目が、まっすぐにこちらを見ている。
(……子供というのは、本当に遠慮がないわね。)
前世のリガでも、飛び級して入ったギムナジウムを出るまでの十五年の人生で、こういう目をした自分と同年代の貴族の少女たちと、山ほど中身のない会話をした。
ドレスがどうの、宝石がどうの、殿方がどうの。
どうでも良すぎて中身が思い出せないほどだ。もちろんその頃も、彼女にとって少女らの関心事は、今と同じく大抵どうでもいいものだった。
それでも愛想よくこなせたのは、ある種の訓練の成果なのだろう。
つまり、バルト・ドイツ人貴族社会という閉鎖性の塊のような世界を、自身の「異常性」を幼い頃から自覚していた少女が上手く生きていくために身につけた、まさに努力の賜物だった。
「それは秘密よ。マリアンヌは?」
「わたし?わたしは『癒しの手』ですって!お母様がとっても喜んでくださって、それからね、」
そこからしばらく、マリアンヌの話が続いた。
ソフィアは適切なタイミングで頷き、「まあ素敵ね」なんて適当な相槌を打ちながら、内側では別のことを考えようとした。
(あれ、やっぱり衣服の意匠が違う?あの時の私たちって、普段こんなもの着てたかしら?そもそも、私の実家は”男爵”であって、”伯爵”では……。)
「ねえシャルロッテ、聞いてる?」
「ごめんなさい、ちょっとぼーっとしてたわ。続けて?」
(……ああ、集中できない。)
いや、正確には違う。
思索しようとするたびに遮られる、というより——そもそも頭が、重い。
感覚に集中すると原因はすぐに分かった。――空腹だ。
十歳の肉体は、成人した人間の、それも空腹に慣れきった大人の革命家の身体とは、明確に違う。
思索どころか、単純な集中力すら、血糖値という些末な問題に左右される。
またコルセットの締め付けも、じわじわと体力を削っていた。
客観的事実としてはこうなる一方、ソフィア本人はそれをどこまで自覚できていたが怪しいが、少なくとも感覚は正直だ。
もちろん前世だって、人生の前半二十年程度はそれを身につけていたが、それでもキツいものはキツい。
服装に関しては、明確に革命家になってからの方が”自由”だったのだ。
(……なんという非効率。)
怒りとも呆れともつかない感情が湧いた。ルビャンカでは、6日間ほぼ何も食べずに尋問に耐えた。それに比べればなんてことは……。
(いや、そもそも。幻覚のくせによくこんなものまで正確に。過去の走馬灯って逐一昔の記憶を辿るってことね。それにしたって、感覚まで……。)
「……ねえシャルロッテ様、もしかして具合が悪いの?」
アンリエッタが心配そうに首を傾けていた。
「大丈夫よ。少し疲れただけ。」
「儀式って、疲れるのよね。わたしも終わった直後は、ぼーっとしちゃって。」
マリアンヌがソフィアに都合よく賛同してくれたのはやや幸運というべきだったかもしれない。彼女が喋るままに場を任せる。
「そうね。……そういえばマリアンヌ、『癒しの手』って、どんな感じなの?」
話題を振り直す。相手の関心に乗っかれば、自分が喋らなくていい。
マリアンヌはすぐに目を輝かせた。
「それがね……。」
(……少し楽になった。)
口を動かさなくていい間、ソフィアは窓の外に視線を向けた。
秋の午後の光の中、アカデミーの中庭が見える。石畳、整えられた植え込み、遠くに見える建物の尖塔。
(建築様式は……バロック以前、といった感じかしら。18……いや17世紀かそこら?もっと前か?少なくとも、私の子供時代を過ごしたあの時のリガとは、似ているけど少し違う。絵画か何かで見た前近代の西欧の都市に近い気がする。)
ここでソフィアは、彼女なりに閃いてしまった。
(……ああ、そうか。知識という、一種の「過去の記憶」を組み込んでいるのか。じゃあ、元の”素材”となるものがかつてパリとかにいた時の記憶にしても、古臭いというか妙に華美なのはそのせいか?)
「ねえ、シャルロッテ様ったら!」
(……また遮られた。)
こういった感じを繰り返して、談話室での時間が過ぎた。一時間半ほどであっただろう。
アンリエッタ、マリアンヌとの会話に、途中から合流してきた別の令嬢二人。
誰かの祝福がどうだとか、今年の社交界の話だとか、どこそこの家の令息がどうだとか。
中身は相変わらず何もない。
しかしそれは今に始まったことではなかった。
前世のギムナジウム時代も、亡命先の西欧の社交界でも、「シャルロッテ」という仮面を被った女は、こういう会話を延々とこなしてきた。
大きく違うのは、あの頃は“大人の心に、子供の身体”ではなかったということだ。
疲れた。単純に、疲れた。
これほど単純な会話を、これほど消耗してこなしたのは初めてかもしれない、とソフィアは内心で苦く笑った。笑うしかなかった。
昼下がり。
今日の儀式を全ての対象者がこなしたらしく、解散となり、適宜子どもたちと付添の大人たちは帰途へ着いた。
ミルネージュ伯爵家の馬車の乗員は、令嬢シャルロッテつまりソフィアと、少女の教育係マダム・カトルー。そして御者であろうか、アカデミーの建物の中には入れなかった中年の男性がもう一人。
こうして三人の乗る馬車はアカデミーを出発し、静かに、そしてゆっくりと王都の道を歩んでいた。
マダムによって、貴人を見せびらかさないようにと、カーテンは閉められている。
とはいえ、手持ち無沙汰のソフィアは揺れに身を任せながら、少しだけカーテンの端を指でずらして外を見ることにした。
明らかに秋を感じさせる風。
雑然とした石畳の街路。軒を連ねる建物。行き交う人々の服装。
(様式は……やっぱり百年とか二百年とか前のものみたいね。少なくとも、工場の煙も、蒸気の音もしない。ガス灯もない。……それに潮騒の音も。)
いくらリガが風情ある古くからの港湾都市であっても、前世でソフィアが少女だった20世紀初頭、ロシア帝国が浴びていた工業化・産業革命の波から逃れられるわけではない。
港湾は賑わい、新しい工場が乱立し、鉄道は蜘蛛の巣のように張り巡らされていった。
そう。むしろリガを筆頭に、バルト地方とは、ロシア帝国では繁栄著しい先進地域であったのだ。
ソフィアの生まれたローゼンブルク男爵家に至っては、むしろその波に乗って飛躍し、地主貴族から大資本家へ見事に転身した家系である。
もちろん、この「近代」の波はリガを中心に数多くのプロレタリアートを生み出した。
この出来事に加え、同時期に起きた”民族意識”の覚醒に伴い、「絶対的な支配階級たる少数民族バルト・ドイツ人」と「絶対多数を占める被支配階級ラトビア人」という古来からの構図が先鋭化し、民族闘争と階級闘争が直接結合した複雑な政治情勢をリヴォニアの地に現出させてしまった。
これこそが、「ローゼンブルク男爵令嬢シャルロッテ・ヘレーネ」が乗り込む革命の波をバルトに呼び込むことになったのだが、それはまた別の話である。
(少なくとも、ここはリガではない。私の知っているリガでは。これは事実ね。とは言っても内陸の都市なら、標高は低そうだからパリか、ベルリンか……。にしたって、古すぎよ。)
ややぼやきのような感情が混じる。
(……バロック期の入り口あたりか、あるいはもう少し手前かしら。結局のところ、さっき思い至った結論と変わらなそうね。馬車、荷車、露店も。じゃあ生産力の水準は……。)
前世の記憶を使って、無意識かつ自動的に類推を始める。しかしそこまでだった。
(いや、何をしているんだ私は。おおかたこれは、アンシャン・レジーム期のそれっぽい景色で、要は、歴史を学んだ記憶とかその辺が走馬灯に混ざっているだけだ。それに今は……。)
馬車が石畳の継ぎ目を越え、大きく揺れた。
(……今は、やっぱり、眠いわ。)
思索が途切れた。十歳の肉体は正直だ。
談話室での消耗が、ここに来て一気に出てきている。おまけに昼食も食べられていない。
ソフィアは、カーテンをそっと戻した。そうすると揺れと共に、うとうとと、リズムを刻み始めてしまった。
屋敷への到着は、眠ったのもあって思ったより早かった。
迎えに出た使用人たち。玄関ホールの広さ。磨かれた床。
マダム・カトルーが手際よく受け答えをしてくれる。今世の両親への報告も、ほぼ彼女が仕切ってくれた。
(……助かるわね。)
その最中、二人をソフィアはちらりと観察した。
父親は堂々としているが娘の前だから温厚そうな、とにかく自信のある目をした壮年の男。
母親はいかにも貴族らしい、品のある女性。
(有力貴族、か。それらしい雰囲気ね。あとやっぱり、どう見てもアンシャン・レジームね。あんなカツラ、絵画でしか見たことないもの。)
それ以上の興味は、今は湧かなかった。
実際の父母に似ている気はしなかったが、走馬灯の登場人物に、今は深入りしても仕方がない。そう思ってしまった。
「シャルロッテ、疲れた顔をしているわね。」
母親が心配そうに覗き込んできた。
「少し疲れてしまって。でも大丈夫よ、お母様。」
口が自動的に動く。前世から持ち越した令嬢の仮面は、まだ機能していた。
苺のタルトは、テーブルの上で待っていた。
鮮やかな赤。秋の陽光の中で、艶やかに光っている。
(……秋に、苺?)
ソフィアは一瞬、眉を動かしそうになった。抑えながら、さりげなくメイドに尋ねる。
「ねえ。これって、どうやって用意したの?」
子供らしい好奇心に聞こえるよう、声のトーンを意識した。
「魔法ですよ、お嬢様。今日は『天啓の儀』でしたし、お誕生日の特別なおやつですから。」
中年の女はにこやかに答えた。
(……魔法。)
ソフィアは内心で止まった。
(魔法、ねえ。……子供相手のはぐらかしにしても、ずいぶん荒唐無稽ね。昔、十歳の私に実家の人間はこんな説明は多分しなかったけれど。……まあ、走馬灯なのだから、細部の辻褄が合わなくても当然か。)
そう結論づけて、フォークを手に取った。
一口、食べた。……甘い。
冷たく、瑞々しく、舌の上で溶けるような甘さだった。
ソフィアは一瞬だけ、思考が止まった。
(……美味しい。)
それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
ただそれだけのことなのに、なぜか少しだけ奇妙な心地がした。48年の人生の中で、タルトひとつにこれほど素直に反応したことが、あっただろうか。
子供の舌は、正直すぎる。
ソフィアは静かにもう一口、もう一口と食べて、すっかり平らげてしまった。
数時間後。夕食。
スープと肉料理。パンと果物。それと菓子。
豪勢だが、見覚えも食べた経験も飽きるほどある。伊達に二十年近く大資本家とバルト貴族の両方の子供をしていた訳ではない。
(穀物の種類は……味とか食感は、やっぱり小麦に近いわね。明らかに白パンみたい。となると地理的には……やっぱりフランスかしら?懐かしいわね。)
(……何かある度にフランス料理ばかり出して、国際主義者の私が言うのもなんだけど、もう少しバルト・ドイツ人の文化への愛着とか無かったのかしら。あの男は。)
食事をしながら前世の記憶と照合しかけ、アレクサンダーという名をした男、つまりソフィアの前世の父が頭によぎる。しかしすぐに止めた。
(これは走馬灯よ、ソフィア。細部を分析しても意味がない。しっかりしなさい。)
何より、今日一日で、これほど消耗したことへの驚きがあった。大した出来事など何もなかったはずだ。
自分の記憶はないとはいえ、儀式のような何かが起きるまで、もこの一日は含むだろう。
だが少なくとも、自覚が始まってからの移動と会話と食事。それだけで、十歳の身体はもう限界に近い。
(子供って、体力があるのかないのか分からないわね……。どんなに歴戦の革命家でも、親になったら誰も彼も大変そうなのも頷けるわ。)
広間での両親への挨拶も、ほぼ自動的にこなした。
多少ぎこちなかったとしても、疲れているからで誤魔化せる……と、ソフィアはそう信じることにした。
こうしてソフィアは私室に入る。
寝室のメイドは、手慣れた動作でソフィアの服を脱がせ、夜着に着替えさせ、髪を丁寧に梳いた。
他人の手が、身体に触れる。当たり前のように、他人に全ての世話をされる。
(……久しぶりね、こういうのは。)
前世の少女時代もそうだった。
だからこそ、ふと、リガの屋敷の記憶が浮かんだ。
乳母の手。絹の夜着の感触。暖炉の火。
それは遠い記憶だ。しかし今の状況と奇妙に重なって、少しだけ頭が混乱した。
革命活動に入ってから、こうした貴族的な日常とは完全に縁を切っていた。それを切り捨てることは生まれ変わるための儀式だった。
北欧の安宿、内戦期の宿営地、そしてヴォロネジの食品工場の官舎。色々な場所で寝泊まりした。
自分のことは自分でやれる、そうなることがまず、「階級を裏切る」ということだ。
――少なくとも、”ローゼンブルク男爵令嬢”を捨て去るために、ソフィアが信念をもって努力していたのは疑うべくもない。
まあ、だからといって、「得意」になれるわけではなかったのだが。
(ナージャには苦労をかけたわね……。)
彼女に「一人で生きる術」も教えてくれた先達、”母”のように慕った女性革命家の柔らかな視線が思い出される。だが、今現在自分の肌を触れられる感覚がすぐに現実へと引き戻した。
着替えが終わり、メイドがベッドの傍らのカーテンに手をかけた。
「しばらく開けておきましょうか?風を入れますね。」
「ええ。そうしてちょうだい。」
特に考えもなく、ベッドに入っていたソフィアは頷いた。
「では、お休みなさいませ。シャルロッテお嬢様。」
扉が閉まる。ようやく、一人になった。
(さて。)
ソフィアは天井を見上げた。今日一日、まともに考えられなかった。今からだ。整理しなければならないことが山積している。
この状況は何なのか。
走馬灯にしては長すぎる。幻覚にしては精密すぎる。しかしどう考えてもそれ以外あり得ない、はずだ。
一応、「実はとっくの昔にNKVDの拷問か何かで発狂している」「そもそも6日耐えたとか、グレボフと会ったとか、尋問が終わって銃殺されたとかのあの下りから幻覚」という可能性も、有り得ないことはないが……。
そんなことを思っていた彼女の視界の端に、何かが入った。
窓の外の、妙に明るい夜空。
ソフィアは、反射的に視線を向けた。
そこに輝いていたのは、円盤状の発光体が二つ。
大きい方が青く、小さい方が赤く。
このように目に見える色彩こそ違えど、ソフィアからすればその見え方は、形状含め「星」ではなく「月」であった。
――そう、ソフィアの知る夜空には、一つしか存在しないものである。
ありえない景色に対し、ソフィアはベッドから夜空を見上げたまま、完全に動けなくなった。
「……は……?月が……二つ……?」
彼女があまりにか細く漏らした疑問に答える者など、誰もいない部屋には最早存在しない。そもそも聞き取れもしない声量だろう。
しかし重要なのは、ソフィアの頭脳つまり現在十歳児のそれである器官は、彼女の意志の要請により、猛烈な負荷をかけながら急速に回転を始めたことである。
(違う。そんなはずはない。今の状況は私の死に際の夢。妄想に過ぎないはずよ。)
彼女は脳内に残る全知性を動員し、強引に論理を補強する。
これは妄想のはずだ。
死の直前の走馬灯、あるいは外部の化学的介入によって作られた幻覚。
いずれにしても、脳が記憶を元に生成した、高度で精密な、しかしあくまで脳内の電気信号の産物に過ぎない空想だ。
そう定義することで、思い込むことで、この過去の記憶のそのままの投影にしてはやや異常な光景を、彼女は唯物論者としてやり過ごしてきた。
死ねば意識は消滅する。人間は絶対に若返ったりしない。
それこそが、彼女の知る世界であったからだ。
心臓の奥で冷たい警鐘が鳴る。ずっと唱えてきた自己暗示が、”二つの月”という視界情報によって砂の城のように崩れ去ろうとしていた。
(目の錯覚?幻覚?いやあんな色、今まで見た天体と結びつかない。せいぜい恒星の色であって、月としか言いようがないものが、そういう類の色になったことなんて見たはずがない……!)
(そもそも、あれはどういう軌道になってるの?というか、大きさも私の知るあの月と違う気が……?)
(……知らない、ありえない。こんなの、私の脳が思いつくはずがない。一旦、脳による一からの捏造であったと仮定を置いてみる?)
(……いや、ダメだ。そうしたところで、私の知らないものを、想像し得なかったものを、全く何の材料もなしに脳が作り出せるはずがない!)
思考が急速に熱を帯びる。
十歳の未熟な脳が、前世の知性を高速で回そうと悲鳴を上げていた。二つの天体が、彼女の認識の境界線を侵食する。
(もし、これが幻覚ではないとしたら……。もし、この二つの月が私の意識とは無関係に、天体としてあそこに浮かんでいる実体だとしたら……?この若返った肉体も、存在しているこの空間も、呼吸しているこの空気すらも……。)
――現実?
その単語が脳裏を掠めた瞬間、彼女の論理の鎖が大きく軋んだ。
もしここが現実なら、私はそもそもあの時死んだはずではないのか?
銃口の感覚は? 意識が消えた感覚は?
矛盾が溢れ出す。死と生、前世の知識とこの身体の未熟さ、夜空の二つの月。
(あぁ、整理がつかない。思考が、追いつかない。なんで、どうして、どうなって……)
そして、脳が焦げ付くような感覚がした。
二つの月が交互に明滅するようで、ソフィアは頭を抱えそうになり、無意識にシーツを強く握りしめている。
ソフィアが置いていた「これは脳が作り出した妄想である」という全ての前提が、「月が二つある」という不可思議な景色によって覆ろうとしていた。
思考、推論が、矛盾が、内部で激しく衝突し、相殺し、混沌の渦を作り出す。
(おかしい。計算が、合わない。……これは、私の脳が構築した夢?それとも、私の肉体が、私の意識が……。)
結びつかない。答えが出ない。
論理の限界を告げるように、視界の端から輪郭がぼやけていく。最後に彼女が見たのは、嘲笑うかのように輝く青と赤の月の残像だった。
――これは……現、実……?
その言葉が思考の中で完全に形を結ぶ前に、強制的に遮断機が落ちた。
視界や意識や思考は再び薄れていき、ベッドの中にいるシャルロッテの肉体がやがて脱力していき、穏やかな寝息を立て始める。
革命家ソフィア・レーべン。異世界の夜空を初目撃、そして気絶。
異世界にて2度目の生を得てから、実に十時間にも満たない中での出来事であった。
※21世紀現代科学の主流の見解は「脳は世界を認識する時に、予め作った高度なしかしある意味”勝手な予測”を組み立てて、意識に投映されたそれを我々は追体験していると言ったほうが良く、外界からの情報はそれを適宜修正するのに使われるだけ」らしいです。
認知科学難しすぎる……!




