何が、いかにして起こったか?
『それぞれの時代には、それぞれの時代の偉人がいる。もし不在ならば、時代こそが彼らを産み出すのだ。』
――L.D.トロツキー
***
《大陸暦687年収穫月23日・王都ウル=ソール・クリヴィア王立魔法アカデミー》
磨き抜かれた白い大理石の床。そこに終わりかけた朝の陽光が差し込み照らされている。
荘厳な雰囲気、そして静寂に包まれたこの空間には、ほんの僅かな小さい埃がフワフワと宙に浮かんで漂い、それもまた光に照らされていた。この様子に、何故か目が離せなかった少女がいた。
心ここにあらず、という表現が相応しいのだろう。
座っているのに床に届かない、その幼い故に短い足を、まるで振り子のように少し前後に揺らしている。――明らかに落ち着かない様子だ。
「こら、シャルロッテ様。はしたないですよ。それにもうすぐ貴女様の番なのですから。しっかりと、気品あるお姿を保ってください。」
従者であろうか。豪著な服装の少女よりは目立たない控えめな格好をした中年の女が、少女のその様子に気づき、やんわりとたしなめる。
「はぁい。」
少女は素直に従う素振りを見せるが、やはり「退屈だ」という雰囲気を全身から醸し出しており、従者の女もそれ以上は強く言えなかった。
クリヴィア王国の魔法研究の最高権威、そして王国一の高等教育機関である王立魔法アカデミー。
今日、ここではやや珍しく、学生や教授ではない外部の人間が、しかも上質な服に身を包んだ貴族たちが、学院の中に大勢出入りしていた。
もちろん当然理由はある。
秋、黄金の穂と葡萄が大地に満ちるこの月。王国の全土では日々『天啓の儀』と呼ばれる儀式が開かれている。そして少女らはそのためにこの場所にいるのだ。
十歳になった子供は、ここで“神々の祝福”を詳らかにされる。――儀式に従事する人間たちに語らせれば、そのような仰々しい言い方になる催しだ。
より簡潔に言えば、この儀式で示される“神々の祝福”とは、『職業』、『技能』あるいは『加護』――などなど、いくつかの種類の名前で称される個人の異能のことである。
『天啓の儀』は、概ね都市でも農村でも、大抵の場合宗教施設で行われる。だが、王都でのそれは例外で、この権威ある学院の方で開かれている。
「なぜそうなったか?」という問いについては、答えが“伝統”という言葉に包まれて久しい。そのため、どう考えようと最早どこまでいっても真実ではなく推測の域を出ず、そもそも大抵の人間は理由など気にしない。
そして今秋、無事この『天啓の儀』の対象者となった少女シャルロッテが、いかにも退屈そうに待つここは、アカデミー中央講堂へと続く長い回廊であった。
彼女と従者の他にも、何組かの子供と大人の一団が回廊に並んで座り、呼び出しを待っている。
扉から遠い場所ではまだ会話が楽しめるだろうが、いつ次が呼ばれるかも分からない今の場所ではそうもいかないらしい。少なくともそういう雰囲気であった。
この少女も、少し前までは右隣に座っていた女の子と楽しくお喋りをしていた。
だが、その子が次に呼ばれる番になり、彼女は儀式への緊張や大人の注意で黙ってしまった。こうしてシャルロッテは退屈を紛らわす術を失い、ただ無為に待つしかなくなったのだ。
とはいえ子供の退屈を紛らわす程度の状況変化というものは、得てしてすぐに訪れるものである。
十歳の少女の体感時間からすればかなり長く、しかし客観的な時間では5分も経たないうちに、回廊と講堂を隔てる重厚な扉が開かれた。
上質な木材に精緻な意匠が施されたそれはゆっくりと動き、外界へと光が入り、そしてそこから無機質な呼び声が響く。
「――次の方。ラヴィエン子爵令嬢、アンリエッタ様。ご入室願います。」
シャルロッテと話していた時が嘘のように、ただ黙って背筋をピンと伸ばして座っていた少女が、緊張で強張った顔で立ち上がる。
子爵家の令嬢。シャルロッテの生まれたミルネージュ伯爵家に比べれば少し格下だ。
しかしそれでもこの場にいる以上、場にいる権利を担保する何かがある、選ばれた「特権階級」の一員であることに変わりはない。
アンリエッタと呼ばれた少女は、すがるような視線で隣の母親を見上げた。
しかし少女にとって少し不運なことに、母親つまりラヴィエン子爵夫人は美しい扇子で口元を隠したまま、ただ厳格に頷くだけだった。
貴族階級にとって、そもそもあるかどうかも保証のない“神々の祝福”とやらの内容以上に、その場に相応しい振る舞いができるかどうかこそが重要であり、今の彼女にはその一員たるためのことこそが求められているのだ。
扉が閉まり、再び回廊に静寂が戻る。
シャルロッテの従者は、主人の一人である少女の少し乱れた髪を一筋、手際よく直しながら溜息をついた。
「もし農村の子供であれば、一晩中神々に祈りを捧げるような大事件でしょうに。王都の、それも高貴な身分の皆様にとっては、ただの“お披露目”の準備運動のようなものですわね。」
従者の言葉は、あえて事実よりやや過小な評価を口にして、シャルロッテを安心させたかった、というそんな意図も確かにあっただろう。
とはいえ、この場の空気に関しては、半ば正確に言い表していた。
かつての時代。この世界には、個の力と異能そして意志で、現実を動かす者たちがいた。
人々は彼らを、英雄、勇者、聖人、賢者……様々な名で称え呼んだ。
『神々の祝福に恵まれた選ばれし勇士が、山を砕き海を割いて、万軍を大いに破る。』――そんな記述が、この世界の歴史書には確かに刻まれている。
これは、神話や伝説の類でありながら、しかし一面では「事実」であった。
だが今や、そうした卓越した異能を持って生まれる確率は、極めて小さい。統計ではなく経験則に近いが、ここ数百年は特にそうだ。
神話の時代は終わり、世界の現実は平穏で退屈な「歴史」へと塗り変わりつつある。
だからこそ、既に領地と財産という“富”と、領主権力と軍事力という“力”を持ち、そして世襲する貴族たちにとって、『天啓の儀』とはあくまで”事実確認”に過ぎなかった。
いかなる才が示されようと、それは多くの場合人生の彩りでしかない。特に女子であれば、縁談の有利不利とか、”妻”や”母”としての生活、そういったものに多少関わる程度のものだ。
庶民にとってのそれが、泥の中から這い上がり、より良い生を送るための、唯一の黄金の糸であるのと対称的に。
いずれにせよ、歴史を動かすような卓越した異能など、誰も――当人たちですら――ろくに期待してはいなかった。
十五分も経たないうちに、再び扉が開いた。
先ほど入室したアンリエッタが、拍子抜けしたような、どこか安堵した表情で出てくる。その後に続く母親らの顔には、満足も失望もなかった。
予想通り、無難な『職業』と、目立たない程度の異能だったのだろう。
それが果たして『加護』なのか『技能』なのか、あるいは別のものか、またそれらの内容は一体何なのか。
いずれにしても、世間話を埋める話の種程度であったらしい。
シャルロッテの横を通り過ぎる際、アンリエッタは一瞬だけ足を止め、小声で囁きかけてきた。
「……シャルロッテ様。その……全然、怖くなかったわ。」
「あら、そうなの?」
「ええ。冷たい水晶に手を触れるだけ。光が少し揺れて、紙に文字が浮き出て、おしまい。神官様のお髭が見たことないくらいふさふさしてたけど、でもとってもお優しい方だったわ。試験の結果を待つ時とかの方が、よほどハラハラしちゃう。」
アンリエッタはくすくすと目立たない程度に破顔した。彼女にとっては、これで“貴族の義務”が一つ終わったことを意味したからだ。
これからは、神々がその魂に定めた無難な肩書き――すなわち職業を添えて、無難な貴族令嬢としての幸福な人生を歩んでいけばいい。それがあなたにはできる、というお墨付きが出たのだ。
幼くして既に可愛らしく気品ある淑女である彼女には、特に障害もないだろう。
「緊張して損しちゃった。シャルロッテ様なら、きっともっと素敵な祝福が出るわ。お父様たちがいつも仰っているもの。ミルネージュ家の未来は明るい、って。」
「ふふ。ありがと、アンリエッタ。わたしも早く終わらせて、お祝いのケーキを食べたいわ。」
シャルロッテは、年齢相応に無邪気にこう返答をした。
彼女の関心は、扉の向こうにある神秘よりも、屋敷に帰ってから待っている特別なおやつ、つまり苺のタルトの方に大きく向けられていたのだ。
今日行われる『天啓の儀』は一生に一度の特別な日、しかも今日はシャルロッテの誕生日とはいえ、季節外れのものをわざわざ調達した両親がどれだけ彼女を甘やかし、同時に富と力を持っているかが伺えるだろう。
だが、当の本人の方が実は問題であり、そんな無邪気な期待は次の呼び声によって断ち切られる運命にあったのだ。
「――お待たせいたしました。次の方。ミルネージュ伯爵令嬢、シャルロッテ様。どうぞ中へ。」
促されるままに、シャルロッテは立ち上がった。
重厚な扉が、まるで運命の断層のようにゆっくりと開かれる。
向こう側に広がる薄暗い部屋の奥、冷え切った空気の中で、鑑定の水晶だけが淡く青い、不思議な光を放っていた。
それは、後に振り返れば、静かなる崩落の序曲であった。もっとも、シャルロッテが振り返ることができれば、の話である。
「さあ、お嬢様。ゆっくりとお手をこちらに。」
「分かりました。」
「そうそう、お上手ですよ。」
老神官の促しに従い、彼女は吸い込まれるようにその冷たい水晶へ指先を触れた。
水晶は光り、輝きとともに魔力を放つ。その刹那。
少女の世界から、色彩と音が消えた。
指先から伝わったのは、優美な魔力の波動などではない。
十歳の少女がこれまでの生で一度も知るはずのなかった、忌まわしく、しかし懐かしい、あの乾いた鉄の衝撃。
後頭部を貫いたはずの、剥き出しの殺意。鉛玉の熱い感触。
魂の深淵に澱んでいた“異物”は、一気にその表層へと跳ね上がった。
シャルロッテという小さく、未熟な器が、内側から激しく軋む。
そして視界が、白くそして激しい光に染まる。
意識の縫い目が音を立てて引き千切られ、幼い記憶の断片が、濁流のよう何かに飲み込まれていく。
抵抗する間も、悲鳴を上げる暇もなかった。
ただ、目の前で、悪趣味で滑稽な「他人の物語」の上映会が始まったのだ。
***
ノイズが視界から消えるなり最初に感じたものは、音だった。
大理石の床を叩く高価な靴音。吹きすさぶリヴォニアの風が窓を揺らす。
「ああ、シャルロッテ。お前は、新世紀の我が家に送られた、最高の宝だ。」
紳士の陶酔した声がした。
やがて目の前が開ける。
冬、分厚い雲に覆われた灰色の空。バルトの港から漂う潮騒の匂い。
琥珀色をしたガス灯の輝き。唸り声をあげる歯車と金槌。
街を一望できる巨大な屋敷。息が詰まるほど清潔で、柔らかい絹のシーツの香り。
薄汚れた人々。冷たい色をした石畳。豪著なドレス。
全てが、理由もわからず、ただただ、気持ち悪かった。
世界が、運命が、ただ憎かった。
――これ、なに?誰なの?
次に、声がなだれ込む。
退屈な講義を聞く少女。空虚に響く称賛の声。安っぽく輝く金色のメダル。
初めて見る帝都の景色。何も変わらないと思った諦め。自由を夢見る学友の言葉が、酷く軽薄に見えた。
荒い紙質のビラ。ぼんやりとした明かりの灯る地下。禁書の紙擦れ音。インクと安煙草の、焦げ付くような煤けた臭気。
地下の読書会で、目を輝かせた女たちが吐き出す、熱に浮かされた吐息。
私はここで、「答え」を知ったのだ。
――違う。知らない。これは、私の記憶じゃない。
――わたしは、シャルロッテ・ディ・ミルネージュ。今日、十歳になった……いや、私は……
――ふふ。あなたもシャルロッテなの?奇遇ね。私もよ。
不意に、視界が赤く染まった。
吹き荒れる雪嵐。
凍てつく広場に響き渡る、一斉射撃の轟音。
崩れ落ちる群衆。煌めくサーベルと、舞い散る血飛沫。
喉を焼くのは、心の燃える熱さと、火薬のピリついた味。
(ああ、そうだ。私はあの日、大学を飛び出したのだ。)
(何を言ってるの?)
意識の輪郭が、急速に歪み始める。
西欧の街角、異国のカフェで聞いた、あの”父”のような男の甲高い、しかし磁石のように強烈な演説。
古都にて、遂に私は「私」を捨てた。……ああ、私は、自由だ。
(たすけて、こわい、ここはどこ?)
封印された列車の、油臭い車内。揺れるランプの火影。
不自由すら楽しめた、心躍るような旅路。大好きな"家族"と、一緒だったから。
「――お前は、革命の娘だ。」
誰かが、私の髪を撫でた。母のように慈しみ深い、あの女性の、古びた紙のような手の感触。嬉しかった。誇らしかった。
血統ではなく、精神による連帯。私はあの場所で、皆を愛し、愛されていた。
――わたしは、私は、わたしは、……誰?
最初は、無垢な十歳の少女にも理解できる、あまりに切実な生存の悲鳴だった。
「Хлеба!」
お腹を空かせた子供たちの、枯れ果てた泣き声。
「Мира!」
帰らぬ父を、息子を、夫を待つ女たちの、祈るような慟哭。
「Земли!」
泥を噛むような労働から、自分たちの居場所を求める渇望。
それはまだ、シャルロッテという少女の“共感”の範疇に留まっていた。
けれど、その震えは次第に激しさを増し、空気を引き裂く鋭い鉄の響きへと変質していく。
「Прав!」
虐げられた人々が、己が人間であることを突きつける意志。
「Свободы!」
鉄鎖を断ち切らんとする、その軋む音が世界に響く。
個々のバラバラな悲鳴が、研ぎ澄まされ、一つの巨大な矛先へと収束していく。
祈りは、爆発的な破壊のエネルギーへ。
私は、私たちは、それを一つの方向へ導こうとした。
「――Вся власть Советам!」
もはや、器は耐えきれない。
内側からひび割れた魂の隙間に、1917年という時代の巨大な質量が、数百万人の怒号が、津波となって流れ込む。
『全ての権力を評議会へ!』
そのシュプレヒコールが響く度、シャルロッテの意識の壁が剥がれ落ちていく。
『全ての権力を評議会へ!!』
お菓子の甘い香りも、家族の優しい微笑みも、十歳の少女が積み上げてきた平穏な記憶の全てが、その荒々しいリズムに粉砕され、歴史の濁流へと押し流される。
『全ての権力を評議会へ!!!』
それはもはや音ではない。時代の巨大な質量が、少女という空っぽの器を無理やり満たし、形を歪め、塗りつぶし、その中身を魂のあるべき姿へと造り変えていく。
引き返すことも、戻すこともできない境地を、超えてしまったのだ。
"歌"が響く。赤旗と共に。ライフルと銃剣、艦砲射撃。そして――怒号。
「「「立て、呪いを刻まれし者!飢えたる者、奴隷たちの、全世界よ!」」」
「「「そして我々は新世界を築き、無であった者が全てとなるのだ!」」」
「「「――インターナショナルと共に、人類は再び立ち上がる!」」」
一瞬が無限のように思える中、遂に歓喜の瞬間は訪れた。
私は実に無邪気にはしゃぎまわり、狂ったように歌い、戦友たちと抱擁し、喜びのままに踊っている。赤旗の翻る冬宮を見つめながら。
『――以上を以て、大会はここに、臨時労働者農民政府の樹立を宣言する!』
そして髭をたたえた男が、こう高らかに叫ぶのを、私は確かにその場で聞いた。
ああ、私たちは、ついに成し遂げたのだ。
――わたし、たち?
――ええ、そう。私たち。……あなたはもう、ここにはいない。
弾むような凱歌は、即座に硝煙と飢餓の悲鳴にかき消された。
吹き荒れる内戦。“内”からの包囲、“外”からの干渉。
薪すら足りない部屋でペンを握りしめ、
泥濘に沈むタチャンカを押し、
凍てつく前線で文字通り泥を啜り、
この手をただひたすら血に染め、
私たちは軍隊を、暴力を、“恐怖”を組織した。
「Кровь за кровь!」
慈悲など不要だ。この苦しみの先にしか、約束の果てはないと信じていたから。
撃った。撃たせた。署名した。吊るした。飢えさせた。銃を手に取らせた。
敵対者を。裏切り者を。あるいはただ躊躇しただけの者を。
罪なき者はいないと信じて、勝利のために己が意志を鋼鉄にして、あらゆる人間を力づくで「歴史の屑籠」へと掃き捨てた。
何百人も。何千人も。何万人も。
いや、何十万、何百万?――正しく数えることなんて、できるはずがない。
多くの戦友が倒れた。飢え、病、暴力、老い、狂気。その度に戦列は強くなり、心は凍てついた。
やがて訪れた、嵐のあとの静寂。
廃墟の上に築かれた、“人々が自らを支配する国”の産声。
クレムリンでの充実した日々。タイプライターの打鍵音は軍隊の進軍よりも心地よく、電化の青白い光は春の陽光そのものに見えた。
“父”――ウラジーミル・イリイチと共に、自らの出自を捨て去って勝ち取った真の“家族”と共に、私は働き続けた。地図の上に指を走らせ、ペンは踊るように動き、数世紀に及ぶ停滞を理性のメスで切り裂いていく。
私たちが流した血には意味があった。私たちが奪った命には価値があった。
同志たちと酌み交わした黒薬草酒は、勝利の味がした。
不眠不休の議論、執務室に立ち込める最高級の葉巻と安煙草の混じった臭気。
明日への階段を見た。”未来”は、私たちの指先にあった。
この日々の果てに、やがて新世界が築かれると、全人類が永遠の解放に導かれると、そう信じていたのだ。
時代は流れる。それでもやることは変わらないと思っていた。
「ねえ、イリイチ。……私、頑張るから。」
「私は、私たちは、あなたの夢を、理想を、決して終わらせはしない。」
「何十年かかろうと、あなたの遺したものを、人類の希望に変えてみせるわ。――だから、見てて。」
命数を使い果たした“父”の棺を、涙を流して見守りながら、まだ私はそんな事を言っていた。
『働き、学び、そして富もう!』
私たちはそう叫んでいた。貧しさを分け合うんじゃない。
分け合うために、豊かになるのだ。心を、国を、大地を。
親友と笑いながら、そう信じていた。
穏やかに、一歩ずつ歩んでいけばいいと。いつか必ずその日は訪れるのだと。
しかし、狂気が始まった。私たちは梯子を外された。私たち以外の全員に。
『階級の敵!』
『日和見主義者!』
『インテリの屑!』
私の愛した”家族”の中身は、入れ替わっていた。
私たちの家に入り込んだ、知らない他人。
そうとしか言えない連中が、私たちをひたすら詰った。
――ただ、意味が分からなかった。
かつての同志、あの“鋼鉄の男”。
彼が、私たちの積み上げた議論と現実を、亡き“父”の遺志を、農民たちのささやかな暮らしを、軍靴と銃剣で粉砕していく。
理性は熱狂に塗りつぶされ、科学は意志にねじ伏せられる。
人間が、血の一滴まで使い潰されて、穀物と鋼鉄とコンクリートへ変わっていく。
「正気なの、コーバ!? 計算が合わない!こんなバカげたやり方で上手くいくはずがないわ!無為に死体の山を築き、未来を食い潰しているだけよ!」
「――で、それが何だ?」
「だから、私が、」
「……まさか、お前はまだ自分が特別な人間だと、勘違いしていたのか?」
「はぁ?何言って――」
「出ていけ。貴様なぞ、もはや誰にも必要とされていない。思い上がるな、『ローゼンブルク』。俺の国に、お前は――不要だ。」
目の前が、ひび割れるような音がした。
一夜にして全てが変わった。クレムリンははるか遠く、坂を転がり落ちるような、無惨な没落。
かつての同志たちは目を背け、感じるのは顔も見たことのないような人間からの刺すような侮蔑の視線。
誰かが去り、誰かが上り詰める。ただそんな下らない争いに、私は負けたのだ。
「女の分際で」――違う!
「貴族の分際で」――違う!
「外国人の分際で」――違う!
私を詰る声。嘲る声。蔑む声。
こんな国を、こんな世界を、作り上げるために、私は人生を捧げたのか?
違う、と否定したかった。抵抗したかった。しかし唇を噛み締め、自己を貶める日々。
正しさを決める男に、正しくないと言われたから。
「おえっ……気持ち……悪い……うっ……なんで……私が……」
泥を混ぜたようなパンの、涙で惨めな味。据えた生臭い匂いのする、粗末なベッド。
身体の中から響く、不快で汚らしい痛み。老いていくのは心か、身体か。
(私は、誰だ。私は、この小さな手を持つ少女か?)
違う。私は、あの暗い地下室を知っている。
コンクリートの湿った冷気。額に押し付けられた、火のついた煙草の熱。
そして、後頭部に突きつけられた、無機質な鉄の感触。
『罪を認めろ!』
『人民の敵め!』
『裏切り者!』
(……馬鹿な。何を言う。私は、一度たりとも党を、“家族”を、裏切ってなどいない!)
終の場所で。横に並んだ、かつての戦友。
靴職人の息子から革命の元勲へと駆け上がり、今や無残に腫れ上がった顔で「先に行っているよ」と不敵に笑った、あの男――ニコライ・パヴロヴィチの最期。
「――大十月社会主義革命、万歳!!!」
耳を劈く銃声。隣で崩れ落ちる同志の肉体、その重量感。
そして、自分自身の後頭部に押し当てられた、冷たいナガンの銃口。
閃光。脳漿が弾け、意識が闇に呑まれたあの刹那。
四十八年の重みが、十歳の空っぽな器に一気に注ぎ込まれ、溢れ出し、内側から魂を焼き尽くす。
私は、誰だ。
わたしは、シャルロッテ――。
いや。
私は、ソフィア・レーベン。――革命家だ。
***
赤い文字が収束していく。
この場にいる誰も、真実を知る術と事実を観測する術、いずれも持ってはいない。
しかし、それは確かにこの世界に刻まれた。十歳の少女は、その魂の本質を呼び起こされたのだ。
――特殊状態:「転生者」
――固有技能:「赤い書庫」
――常時技能:「ステータス自動偽装」「飢餓耐性」「気候耐性」「精神異常耐性」……
――職業:革命家
***
水晶を覆っていた淡い光が、何事もなかったかのように収束していく。
鑑定の間の中心に立ち尽くす少女の背中は、第三者の目には、ただ魔力の奔流に当てられて一時的に呆然としているようにしか見えなかった。
神官は、その異様な静止を都合よく『天啓の儀』には“そういうこと”がよくあるという経験則に基づく常識に従って、しかし当然の理由で「問題ない」と解釈した。
無理もない。少女の魂の本質を象ったその特異な職業は、おそらくこの世界に存在した記録がある可能性がほぼ皆無だ。
そして職業に付随するスキルによって、本人の意志とは無関係に、既に隠蔽のプロセスを終えていた。
羊皮紙には儀式の手順に従い、水晶の魔力によって自動的に記述がされている。
平凡な範疇の内容。無論これは嘘八百の偽装なのだが、神官にとっては少なくとも目の前の子供に顕著な変化もない以上、その記述を疑う余地がなかったからだ。
「……様。シャルロッテ様?」
傍らに控える従者の不安げな声が、部屋の静寂を破る。
少女は、ゆっくりと瞬きをした。
その瞳に宿る輝きは、数秒前までの無垢なものとは明らかに異なっていた。
それは、地獄を潜り抜け、一度死の淵を越えた者だけが持つ、凍てついたしかし鋭く輝く光。
「……ええ。なんでもないわ。」
少女――シャルロッテは、自身の小さな掌をじっと見つめた後、誰にも悟られないほど微かに、口元を歪めた。
声のトーンは、驚くほど落ち着いていた。
人格と記憶の統合に伴う激しい拒絶反応。脳内を駆け巡る莫大な情報量。
それらを革命家ソフィア・レーベンが前世で培った鉄の意志が、前世においても人並み外れた知性が、強引に総括しようとしていた。そして一つの器の中に、前世の本名と同じ名を持つ少女の中に、無理やり押し込めていた。
とはいえ、彼女は、まだ“寝起き”の状態でしかなかった。
その主観においては、正確に言えば銃声を耳にするより前に、視界と意識含めた自己認識が完全に消滅した瞬間を迎えたばかりだからだ。
自分の置かれた不合理な状態も、死という客観的事実とこの生の矛盾も、今どんな状況にあるのかも、今は何一つ整理はついていない。
ただ、一つだけ確かなことがある。この健康な、痛みのない、幼い体。
それだけは、感じることができた。
「戻りましょう。……少し、疲れちゃった。お家に帰りたいわ。」
今やソフィアは、ミルネージュ伯爵令嬢シャルロッテとして、最初の一歩を動き出そうとしていた。
かつて幼少期に自身の異常性を周囲に糊塗していた時、あるいは欧州の社交界で完璧にサロンの華を演じていた時。
深く被っていた貴族令嬢の仮面を無意識のうちに記憶の引き出しから取り出し、皮肉にも前世のそれとよく似た十歳の相貌に貼り付けた。
周囲の人間はこうして異変をただの疲れだと判断し、彼女を労わりながら部屋を後にした。
その足取りは、もはや迷い子のそれではない。
歴史の残滓となり、一度は屑籠へ捨てられたはずの“革命家”が、異世界の土を初めて踏みしめる足音であったのだ。




