プロローグ
《1937年3月某日・ソビエト連邦首都モスクワ市・内務人民委員部庁舎》
「罪を認めろ!この害虫が!」
不自然なほどに明るく、尋問用でもあるその照明が照らすのはコンクリートの壁の所々に点在する赤黒い染み。そんな地下室に、何かがぶつかる鈍い音が妙に響く。
やや興奮気味の若い男が、くすんだ金髪の束ごと頭を掴み、元より腫れ上がった目の前の女の顔を机に叩きつけていた。
「……うぅっ!ぐっ……はぁ……はぁ……誰が、そんなことするものか……!私は、アンタみたいな下劣な……」
「黙れ!人民の敵め!さっさと、署名を、しろ!」
「あ゛あっ……!いっ……ぎっ……!」
――大粛清の嵐が赤き帝国の全土を吹き荒れるある春の日。
またしてもその毒牙にかかった古参の党幹部がここにも1人いた。
『コンベアー』と称される不眠尋問は既に6日目。
海千山千のオールド・ボリシェヴィキですら、3日もすれば正気を失い廃人になり、そして“自白と署名”へ至る。そんな過酷な状況である。
そんな中で、女性ながら未だにその末路を拒否しているその精神力は、はっきり言って卓越していた。
一方、この女には配偶者も子供もいないし、家族親戚は出自の関係上自ら捨て去った。よって、“守るべきもの”がほぼ存在しない。
これが原因で通常の場合と異なる結果へ至っているという観点は否定できないだろうが。
彼女を“尋問”と称して暴行と拷問の限りを尽くしていたチェキストらにとっても、未だ知性の鋭く灯る彼女の目も合わさって、端的に言えば驚嘆――ひいては畏怖の対象であった。
もちろん当の尋問者たちからすれば、確かに驚いてはいるのだが、あくまで心中の大部分を占めていたのは、より卑俗な感情である。
つまり、「ノルマ未達」の可能性の要因としての苦々しさだ。彼女の粘りは“失態を招きかねない障害物”――というのが彼らにとっての正直な評価であった。
「もういい、やめろイワノフ。」
「しかし、クズネツォフ大尉……!」
「いい、時間の無駄だ。」
部下を遮った小太りの男は、そう言い捨てつつも、ふかしていたタバコの吸殻を尋問対象者の額に押し付ける。かつての美貌を伺わせる白い肌がジリジリと焼け、女がどれだけ堪えようと悲鳴は漏れ出た。男はそれを、まるで心地よい背景音楽にでもして泰然としている。
そしてこの中年男は、その悲鳴が途切れて満足したのか、雑に書類のファイルを机の上に持ち出した。
今からいつものルーチンワークを始めるぞ、とその旨を部下に目で示した後に取り出した書類を読み上げ始めた。
「被告、シャルロッタ・エレーネ・アレクサンドロヴナ・フォン=ローゼンブルク。」
「はぁっ……ふぅ……うっ……!」
痛みを堪えながら一呼吸し、女は反論を試みだした。
「何それ?これでドイツ語のつもり?そうなら、本当に発音が下手ね……しかも姓名表記の形式が混じって支離滅裂よ。バルト・ドイツ人のことがそんなに分からないなんて、今どきそんな教育をあの小男はやってるのかしら?こんな無知な有様で、ドイツの、ファシストのスパイを狩っていると言い張るなんて、本当に滑稽ね。」
私は“お前らの組織の前身”を作った人間だ、という矜持を持つ女は、腫れ上がった口元で歪な笑みを作った。
「それに、とっくの昔に私は“ソフィア・レーベン”よ、法的にね。あんな長ったらしい名前、党に入ったその時から“歴史のごみ箱”へ捨てたわ。あなた達みたいな連中に、分かるはずもないでしょうけど。」
「貴様……!」
「言わせとけ。時間が惜しいんだ。やるぞ。」
「1888年9月23日生まれ、リヴォニア県リガ市出身。旧帝国貴族・ローゼンブルク男爵家当主アレクサンドルの次女。同家は彼の代にリガ有数の大資本家として飛躍し、ローゼンブルク財閥総帥たるアレクサンドル氏は、バルト地域ひいては帝国全土に隠然たる影響力を持つに至る……ふっ、いかにもドイツの売女らしい。血統書付きの支配階級、という訳か。」
「ふっ、だから何?それを言ったら、エンゲルスだってそうじゃない。“階級の裏切り者”として、私たちは……」
「ははっ。おい、聞いたかイワノフ。この言い草、いかにもドイツ人どもに股を開いた雌犬らしい。労働者階級から搾り取った富を捧げて、ベッドで唆されたのがこの言い訳というわけだ。売春婦の分際でよく吠える。……よし、イワノフ。少しばかり“人民の正義”を教育してやれ。」
「はい、分かりました。」
こうしてまたもソフィアは顔をゴム棒で殴られた。彼女の沈黙を確認すると、クズネツォフは経歴の読み上げを続ける。
「1904年5月、リガ女子ギムナジウムを卒業。ほぉすごい、金メダルだと。貴族女のくせにな。……同年秋、ベストゥージェフ女学院人文学科に入学。入学後、“読書会”こと同大学のマルクス主義学生サークルに所属。ハハッ、世間知らずのガキらしい。」
「……あの時の私が未熟であることは否定しないわ。けどね、今の私の目の前にいる、日和見主義者のクズどもよりは百倍マシよ。」
「1905年、大学のあるサンクトペテルブルクでロシア第一革命に参加。学生サークルから候補党員を経て、1906年1月にロシア社会民主労働党に正式入党。同党ボリシェヴィキ派に所属。……全く、これほど長く貴様のような寄生虫が我らが党にいたとは、信じられんなあ?」
「ははっ、同感ね。私もよ。……あんた達みたいな意地汚い惨めなルンプロが、レーニンの、私たち選ばれし前衛の党にいるなんて、信じられなっ……!」
言い終わる前に再び衝撃が走る。鮮血が飛び散り、視界を赤く染めた。
こうしてあくまで“ソフィア”と自称するある女の経歴は、現在に至るまで読み上げられ続けた。
もちろんいちいち彼女は皮肉と罵倒を飛ばし、一方男たちは時折暴力で遮るということを延々と続けていた。しかし、意識は朦朧としながらも、身体は悲鳴を挙げながらも、彼女の抵抗の意志を挫くことは叶わなかったのだ。
「さて、長くなったが貴様の罪状だ、ローゼンブルク。
1、反革命右翼トロツキスト・ブロックへの参加及びソビエト権力転覆の共謀。
2、ドイツ・ポーランド・日本等、外国情報機関に対する国家機密の漏洩。
3、国家工業部門における組織的サボタージュ、破壊工作の計画と実行。
4、党中央に対するテロ行為、及び同志スターリンに対する暗殺作戦の計画。
5、革命及び内戦時における反ソビエト勢力への内通と労働者国家に対する裏切り。
6、ドイツ諜報員からの収賄、党資金及び国家財産の着服。
7、その他汚職、腐敗、売春、猥褻、不貞、不道徳。
……以上だ。」
「あははっ、笑わせないで。罪状?コーバにとって私が目障りなこと、でしょう?」
言い終わるや否や、鈍い音が今度は三回。念入りに殴られ流石に堪えたのか、笑っていた彼女が声にならない声を出してしばらく身悶えるしかなかった。
その間に、更に各項の個別の詳細が読み上げ続けられた。
しかしそれが終わると、激しい痛みが僅かに引くにつれて、彼女はあることに気づいたようだ。ソフィアの声色がみるみるうちに今までとは変化していく。
今までの皮肉めいた氷のように冷たい響きではなく、噴火直前の火山のような明らかな震えを帯びていた。
「……ねえ、なんでイリイチが出てこないのよ。」
その言葉と、ある意味幼児のような口ぶりに、尋問者たちも流石に意図が分からず一瞬面食らったようだ。
「は?」
「なんでわたしの罪状とやらに、イリイチが、ウラジミール・イリイチの名が一言も出てこないのかって聞いてるよ!わたしは、“イリイチの娘”よ!血の繋がりなんかない、ナージャとだってそう!……でも!私が反革命だというなら、せめてもっと大それたことを言いなさいよ!あなた達の言うことに合わせるなら、側近の私はあの人を、レーニンをいつでも殺せたはずじゃない!」
革命家ソフィア・レーベン、渾身の叫びであった。
「コーバは……スターリンは、どこにいるのよ!連れてきなさいよ、ここに!このくだらない筋書きを書いたのはアイツか!それともヤゴーダか、エジョフか?まさかお前か!?わたしを、党を、侮辱するな!」
かつてはクレムリンの住人であり、その前は多くの革命の元勲と共に『十月』の中心地にいた女は、その誇りだけで今の身体の抱える痛みと軋みをねじ伏せている。第三者が見てもそうとしか思えない様子だった。
身体的には衰弱しきっているとは思えないその剣幕にやや押されたのか、男たちは顔を見合わせて彼女の絶叫を聞いている。
「申し訳ありません、クズネツォフ大尉。……殴りすぎたかもしれません。」
「まあ気にするな。発狂したわけじゃない、どうせすぐ落ち着く。」
小声でそうささやきあっている間にも、演説と言うにはあまりに怒りに任せた主張が部屋中に響いていた。
「あの野蛮な反動、卑怯な政治的売春婦、裏切り者のボナパルティスト、レーニン主義の背教者は!一体どこにいるって聞いてるのよ!私を、ソフィア・レーベンを!こんなくだらない何番煎じの三文小説みたいな脚本で適当に殺すんじゃないわよ!グリーシャやレーヴァみたいにもっと、もっと派手に殺しなさい!」
「この女……!」
「フェリックスが聞いたら驚くでしょうね!あの“同志ソフィア”が、チェーカーの風上にも置けないダニどもの手にかかって、官僚主義的ノルマのために死ぬのか、ってね!ふざけるんじゃないわよ!」
「いい加減にしろ!ヒステリックに喚くな、売女が!」
「がっ……!」
しびれを切らしたイワノフにより、ソフィアはゴム棒を口にねじ込まれ、物理的に喋れなくされた。
今にも棒を噛みちぎらんばかりの気迫、そして目の前の男を焼かんとする烈火のような怒りが視線から伝わる。とはいえ、既に椅子に拘束されている以上、いくら暴れまわろうが、所詮はのたうち回るまな板の上の魚のようなものだ。
「まったく……増上慢の中年女のヒステリーを聞くにはなあ、俺達の時間はあまりに貴重で限られているんだ。分かるかインテリ?貴様のような反革命のスパイが、まだまだこの国には大勢いやがる。腐るほどな。人民のために、祖国のために、俺達は奴らを一匹残らず狩らねばならんのだよ。……よしイワノフ、次に行くぞ。アレをくれ。」
耳をほじりながらそう吐き捨てた彼の濁った視線は、ソフィアを最早一瞥もしていなかった。
「はっ。分かりました。」
しばらくしてイワノフは別の書類を持ってきた。受け取ったクズネツォフはわざとらしく咳払いをすると、ついに“結論”を読み上げ始めた。
「……ソビエト連邦内務人民委員部特別会議の決定を通達する。被告、えー……ソフィア・アレクサンドロヴナ・レーベン。」
――彼女を裁くのは革命軍事法廷ですらなかった。
“レーニンの党”の最高意思決定機関に、たった一度でも籍を置いた人間に対してするには、あまりにも杜撰かつ簡素な処刑の承認。
見せしめ裁判も、司法の体裁も与えない。
これこそが、ソフィア・レーべンという女の強烈なエゴとプライド、そして自負を熟知しているかつての同志、鋼鉄の独裁者からの、侮蔑と
嘲笑と侮辱であった。
「罪状、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国刑法第58条への違反。
該当箇所、第1項a、第6項、第7項、第8項、第11項、第13項。
被告人の自白及び証拠の提出を確認。判決、有罪。」
同時に一枚の書類が目の前に示される。
そこには、彼女が一度もペンを握っていないにもかかわらず、粗雑に捏造された“自白”と、同じく粗雑に筆跡を模した“署名”が醜く踊っていた。
「――第58条2項に基づき、被告人へ『最高度の社会保護措置』を適用。全個人財産の没収を付加し、銃殺刑に処す。」
イワノフがゴム棒を引き抜くと、ソフィアは血の混じった唾を床に吐き捨てた。
「……あっそ。死体置き場の番号札にしては、少しばかり仰々しい表現ね。それと通常の刑事罰はどうしたのよ、くだらない。“売春婦”なんてわざとらしく付け加えたくせに。やるなら最後まで、その安っぽい筋書きを全うしてみせたらどうかしら?」
「ふん。強がるのもそこまでだ。……連れて行け。」
こうして“人民の敵”は、部屋に新たに入ってきたチェキスト二人に両脇を抱えられ、引きずられるようにして地下の廊下へ出される。
ルビャンカの地下はまさに迷宮だ。湿ったコンクリートの臭気と、絶え間なく響く換気扇の重低音。
そこへ、別の独房から引き出されてきたらしい一人の男が同じく引きずられてきて合流した。
無惨に腫れ上がった顔。だが、その鋭い眼光だけはまだ死んでいない。
「……グレボフ?」
ソフィアの掠れた声に、その壮年の男が視線を向けた。
「おや、“同志ソフィア”。久しいな。……君のような真珠まで、この泥溜めに放り込まれるとは。この国の革命的良心とやらは、いよいよ壊れてしまったらしいな。」
1918年11月9日、レーニン率いる最初の人民委員会議の一角を占めた男。
彼もまた、ソフィアにとっては20年前のペトログラードを共に戦った戦友であり、クシシェンスカヤの住人としてお互いよく見知っていた。
「栄光ある世界初の労農政府、初代郵便電信人民委員さまにお褒め頂き、恐懼の極みね。……ていうか、なんでトラクター工場の所長さんが、わざわざモスクワまでいらしてるのよ。場所思い出せないけど、流石にここじゃないでしょ、その工場。」
「はっ、よく知ってるな、君。……ロストフだった、まあ悪くはなかったさ。俺は誰かさんと違って骨の髄からプロレタリアートだからね。……で、君の方はどこに?“男爵令嬢さま”?」
質問を返すことで、彼は少し話をそらした。
とはいえその表情には、靴職人の息子、熟練工、労働組合活動家、職業革命家と、この国の革命を駆け抜けた人間特有の、死を前にしても揺るぎない何かが、確かに刻まれていた。
一方ソフィアにとっては、それはともかく言い分の方がどこか可笑しかったのだろうか。あえて皮肉を先に返すことにしたようだ。
「あなただって、その誰かさんと同じく“労働者の敵”を宣告されたから、今ここにいるんじゃなくて?今更言ってもしょうがないけど。そうね……ヴォロネジよ。粗末な食品工場で“お茶くみ”をさせられてたわ。無為な時間が長すぎて、しわしわのおばあちゃんになるところだったわよ。」
「……そうか。確かに君には、向いてなさそうだな。」
笑い声と共に言われたそれは、端的な反応だが正確な事実であった。
「まったく、今思い返しても非合理的ね、腹が立ってきたわ。私だったら、あんな掃き溜めみたいな工場でも、連邦有数にしてみせるっての。……こう意気込むのなんて、それなりに長い付き合いで分かりきってるんだから、コーバも少しは上手に使い潰しなさいよね。」
「ははっ……減らず口は相変わらずだ。やんちゃ盛りの“生意気娘”の健在は、イリイチもさぞ喜ぶだろうよ。まあ、ロストフくんだりから、わざわざこんなとこに来た甲斐はあったかな。……死ぬ前に、本物の同志に会えたのだから。」
最後の言葉にだけ、少しだけ別の情感がこもっていて、震えていた。
「ふふ、口説き文句は間に合ってるけど、それに関しては私も同感だわ。ありがとう、同志グレボフ。」
ソフィアもまた、腫れ上がった顔の激痛を必死に誤魔化しながら意識の外へ追いやり、ぎこちないが笑顔を作った。「屈託のない」とそれに冠することは難しくとも、確かに偽りのない、心からの微笑みであった。彼女は、戦友の“揺らぎ”の様子を口にするほど野暮ではなかったし、何より彼の言葉がどこか嬉しく、救われた心地になったのかもしれない。
「しかし、結局なんでわざわざモスクワまで呼んだのかしら。私なんて、あんな下らない“特別会議”だなんて代物で裁かれてるのに。」
「さあね。強いて言うなら、当てつけだろう。コーバにとっては、我々がイリイチを知る事実こそが最大の不都合なのだから。彼は、未来だけではなく過去をも書き換えたいのだ。……我々という、動かぬ証拠を綺麗さっぱり消し去ることでね。」
大粛清の嵐は、今まさに全盛期。まだ終わる気配など微塵もなかったのだが、彼らもどこかそれを分かっていたのかもしれない。“書き換え”の対象者として、不気味な予感がこんなことを口にさせる。
そして二人は並んで、地下へと続くエレベーターを待っていた。
本来今の状況がありえないのは二人とも分かっている。だからこそ、「孤立もさせず、会話も許す」というこの状況、一種の運用の混乱というべき生涯最後の幸運を、噛み締め続けているのだ。
「……トゥハチェフスキーあたりはどうしているかしらね。赤軍が、“労働者と農民の武装せる腕”が、こんな馬鹿げた小人の暴走を黙って許すとは思えないわ。今更自分の命が惜しい気はしないけど、革命20周年記念で、派手な花火を打ち上げてくれないかしら?」
ソフィアの問いに、ニコライは悲しげに首を振った。
「物騒なことを言うな、君は。それこそ本当に反動だろう。……まあ、いずれにしてもあまり期待しないことだ。どうせ次は彼らの番だろう。この党は、国は、今や自分の細胞一つ一つが敵に見えるほどタチの悪い妄想症に罹っている。上を見ても下を見ても、さ。内戦の時のほうがよほど内も外も敵が多かったのを忘れてね。……もう、手遅れなのかもしれん。」
「あら、ずいぶん弱気ね。……1916年とかの方が、もっと希望は無かったわよ。なにせ、あのイリイチがすっかりしおれて、ちょっと諦めかけてたんですもの。ストルイピンの時代でもピンピンしてた、あの彼がよ?」
「流石は同志ソフィア、封印列車で帰ってきた人間だけはありますな。」
「ちょっと、変な言い方やめなさいよ。」
「ふっ、すまんすまん。……あの時期、俺はシベリア暮らしだったからな。外のことはよく分からなかった。“偉大なる二月”に感謝だな。」
「――そう。私はスイスにいたから。……つい、ね。」
エレベーターの扉が重々しく開く。着いた先は、鉄錆と硝煙の臭いが立ち込める密閉された小部屋だった。
彼女らと同じ運命を今夜辿った者、これから辿る者たちが、生死を問わず皆一列に並んでいる。
そして、事務机が一つ。そこには、先ほどまでの尋問官とは別の、ひどく無機質な目をした将校が座っていた。
「ニコライ・パヴロヴィチ・グレボフ=アヴィロフ。1887年生まれ。……間違いないか。」
「ああ。」
「エレーナ・アレクサンドロヴナ・フォン=ローゼンブルク。1888年生まれ。……間違いないか。」
「……ソフィア・レーベンよ。殺す時くらい正しい名前で呼びなさい、無能。」
将校は答えず、ただ手元のリストへ青鉛筆で印を入れた。その冷淡な動作こそが、この世における彼女らの存在が「処理済」となった合図だった。
こうして、二人もその列に加わることになった。
しばらくして、部屋に響く最期の祈りの言葉や泣き叫ぶ声を引き裂くように背後で銃鉄を引く音がした。二人にとっても最期の瞬間が始まる。一回、二回、三回と、等間隔に放たれる発砲音は、どんどん彼女らの元へ近づいていく。
ソフィアは、隣にいる戦友に最期の、かつてのような不敵なウィンクを送る。
「……死は虚無よ、ニコライ・パヴロヴィチ。でも、私たちの名前が歴史から消されることだけは、あの鋼鉄の男にだってできやしないわ。」
「ああ、そう思いたいね。……少し先に行って待っているよ、ソーニャ。」
「ええ。……さようなら。ニーカ。」
「――大十月社会主義革命、万歳!!!」
そう彼が最期の叫びを声に出した瞬間、またしても銃声が鋭く響く。
ソフィアの左隣にいた革命家の肉体はやがて崩れ落ち、今まさに、50年の駆け抜けた人生を終えた。彼女は確かに、“同志”の死に様を見届けたのだ。
そしてとうとう自分の後頭部に押し当てられる、冷たいナガンの銃口。
しかしソフィアは目を閉じなかった。あるいは、閉じられなかったのだ。
(ああ、悔しい。悲しい。呪わしい。腹立たしい。嘆かわしい。――どれも、違う気がする。だけど、どれもまた確かに心の中で存在する。ああ、でも……やっぱり……こんなのが、こんなくだらない結末が『わたし』の終わりだなんて……!イリイチ、みんな……!)
乾いた衝撃と銃声。思考と視界が瞬時に断絶する。
入党以来30年余り。そして48年の歳月が作り上げた豊かな知性と鋼の精神は、ルビャンカの汚泥の中へ一発の鉛弾と共に、脳漿として世界に解き放たれた。
意識は、脳髄の産物である。物質に由来するものである。だからこそ、その機能停止とともに意識は霧散し、肉体もまた活動を停止する。
『客観的現実の主観的反映』――彼女が父のように慕った革命家が自らの著書に記した“意識についての定義”をいちいち引用するまでもなく、ソフィアはそう堅く信じていた。
この結論を絶対的真理として内包する思想哲学に生涯を捧げた女は、今、自らの全てを捧げきった末に、その当然の帰結として『無』へと至った。
――その、はずだった。




