幕間九【傷跡の対話】
五家の一角を占める鳥陽家。
その次男たけみは、神織の宮の長い廊下を腕を組みながらゆっくりと歩いていた。
一夜にして山が消えた。
そして、空に現れた不可解な裂け目。
その信じがたい事実。
しかし、目の前に突き付けられる現実。
裂け目が発生した北の村では被害も出ているという。
たけみは立ち止まると、きれいに整えられている中庭に向き直った。
池に沿う植え込みには薄紫の花が付き、季節の変わりを見せ付ける。
そんな彩も、たけみの目には届かない。
やはり……あの九宮がらみではないのか。
あの日、山中の庵で味わった思い。まるで自分の世界の矮小さを突き付けられるような。
ここ数日の出来事は、それをまた、より大きな規模で押し付けられたような、そんな気分だ。
一体何が起きたのか、誰に聞いても要領を得ず、回ってくる報告書も、あいまいな証言をまとめただけのものに過ぎない。
ただ、一つ。
二殿の巫女、すずさ。
実務能力にたけているという噂の、その巫女が関わっているということは確かなようだ。
この巫女について、もう少し追ってみるか。
たけみは組んだ腕をほどくと、足早に廊下を進みだした。
◇
雨月すいは、がらんとした訓練場に一人、佇んでいた。
その手にあるのは、もはや砕け散った「折鋼十一代」の柄だけ。
彼女は、ただ無心に素振りを繰り返していたが、その切っ先が空を切るたびに、脳裏に蘇るのは、目の前で消えた、一人の巫女の姿だった。
握り慣れた柄。
しかし、もはやその腕に慣れ親しんだ重さはない。
奥歯をかみしめる。
「……や」
背後から、気の抜けた声がした。
振り返ると、一宮のくれんが、いつもの眠たげな目で、こちらを見ていた。
「……くれん様」
「まだ、そんなこと、してるんだ」
くれんは、すいの手の中の、折れた刀の柄に目をやる。
「……体を動かしていないと、落ち着かなくて」
「ふうん」
短い会話の後、また、沈黙が落ちる。
先にそれを破ったのは、すいの方だった。
その声は、絞り出すように、震える。
「私は……無力でした。巫女さまを、せなさんを、守ることが、できなかった…」
神器を奪えば止められる、そうコトワは言っていた。
解決する術はあったのだ。しかし、戦いの最中に思わず出た、弱音。
己の未熟さへの悔恨。
最強の武人と謳われながら、何一つ成し遂げられなかった絶望。
その痛切な告白。
しかし、くれんの表情は変わらない。
ただ、ぽつり、と、つぶやいた。
「……覚えてるだけ、いいじゃない」
「え……?」
「わたしは、何も覚えてない。自分が、何をしたのか。山が、どうして消えたのか。……全部、人から聞いた話。……どっちが、つらいのかな」
そう言うと、くれんは、ふい、と背を向け、どこかへ去って行った。
残されたすいは、その言葉の意味を、ただ呆然と、噛みしめるしかなかった。
じっと地を見つめる。
痛みを負っているのは、私だけではないのだ。
くれんが去っていったと思うと、再び声がかけられた。
「お姉さま!!」
顔を上げると、三宮の巫女となった妹、さいが駆け寄ってきている。
折れた刀を握った腕で抱き留める。
「お姉さま、よくぞご無事で……」
「さい……無事なものか……わたしは……」
さいはこちらを見上げる。
その小柄な体を、そっと離す。
「お姉さまさえご無事なら、さいはそれだけで」
「私だけが無事ではだめなのだ……!」
思わず声が荒ぶった。
違う。
唇がわななく。
言葉が、出てこない。
「……すまない、ふがいない私を責めてくれ」
やっと、それだけ絞りだした。
「そんな、お姉さま……」
さいは、それ以上言葉をかけることができなくなる。
……違うのだ、さい。
お前の、そのまっすぐな『祈り』だけが、頼りだった、そんな私が、情けないのだ……!
お前の祈りが与えてくれる『加護』。それがなければ、私はとうに折れていたかもしれん。
……だというのに、私はその、お前の想いすら、守れなかった……!
「お姉さま……どうか、ご自分をあまり責められないよう……」
さいは、それだけ言うとこちらを振り返り振り返り、去っていった。
傾く日によってできた山の影が、訓練所全体を覆う。
「私は……」
◇
神織の宮の夜は、深い静寂に包まれていた。
しかし、一宮の執務室だけは、煌々と明かりが灯り、一人の巫女が、終わりのない書類の山と、孤独な戦いを続けていた。
一宮、あさめ。
その指先は、次々と書状を捌いていく。
北の村で起きた、社の崩壊と巫女の消失事件。その報告書。
日が迫った、新たな巫女を選定する「鑑の儀」。そのための、西宮との調整に関する書簡。
そして、例の「山が消えた事件」に関する、五家からの、終わりのない問い合わせ。
一つを片付ければ、また一つ、新たな問題が積みあがっていく。
彼女の完璧な微笑みは、とうに仮面のように張り付いて、その下の疲労を隠しきれなくなっていた。
「……あさめ様」
静かに戸が開き、心配そうな顔をのぞかせたのは、二宮である黒曜家の、らんだった。
その手には、湯気の立つお茶を乗せた盆がある。
「らん様……、どうして、こんな時間に」
「あさめ様こそ。お疲れなのでは、と思いまして」
らんは、あさめの返事を待たず、そっと机の端にお茶を置いた。
その目には、普段の自信に満ちた輝きとは裏腹に、憂慮の色を帯びていた。
「少し、ね。でも北の村のお社の件もありますし、鑑の儀も近い。休んではいられません」
「鑑の儀であれば、私どもにある程度お任せくださっても」
「でも、西宮様のご意向も伺わなくてはならないことだから、そうも言ってられません」
「西宮……」
らんは、その言葉に、わずかに眉をひそめる。
五家、桝家の二宮の治める西方の宮。彼女としても思うところがあるのだろう。
角が立たぬよう自分が動くしかない。
「出来ることはもう任せているつもりです。心配はご無用です」
努めて穏やかに微笑む。
しかし、その声には、自分でも気づかぬほどの、張り詰めた響きがあった。
「しかし!それではお体が持ちませぬ。もしお倒れになられたら、それこそ大事です」
らんの声が、少し、強くなる。
あさめは、その心配を逸らすように、話題を変えた。
「大丈夫よ。それより、例の人形の方はどうなってるかご存じですか?」
その一言で、部屋の空気が、変わった。
「そのことについてもお話しとうございました」
らんの声から、温度が消える。
「あの人形、祈祷だけ済ませ蔵に置いておくとのこと、あさめ様がご指示されたのですか?」
「わたくし一人の判断ではございません。九宮様のご意見を踏まえ、五家の方々も含めた判断です」
「九宮……。またそのような……」
らんの瞳に、あからさまな不信と、怒りの色が宿った。
「あのような危険な存在を捨て置くこと、納得できませぬ!いっそ、焼き捨ててしまえばよいのです!」
「恐ろしいことを言いますね」
自分の声も、冷たさを帯びていくのが分かる。
「封じられている『きい』なる者の存在について、我々はあまりに何もわかっておらぬのです。滅多なことをして再び動き出しては、それこそ危険極まりません」
「ですが!」
らんが、一歩前に踏み出す。その気迫に、部屋の空気が、びりびりと震えた。
その瞬間。
張り詰めていた糸が、ぷつり、と切れた。
「もう、決まっていることなのです!」
それは、いつもは想像もできないほど、冷たく、有無を言わせぬ、絶対的な拒絶の響きを持たせてしまう。
「……皆様は、粛々と、運べばよろしいのです」
かろうじて抑えたその言葉に、らんは何も言い返せずこちらを見た。
らんの顔から、血の気が引いていく。
ただ、愕然とした表情で、あさめを見つめている。
「……かしこまりました」
力なく、そう呟くと、らんは、深々と頭を下げ、逃げるように、執務室を後にした。
一人、残された部屋に、重い沈黙が落ちる。
我に返り、愕然とした。
私、今、らん様に対して、なんてことを……。
彼女の純粋な心配を、あんなにも無慈悲に、切り捨ててしまった。
そして、何よりも恐ろしかったのは。
私の意見が……あまりにも、すんなりと、通ってしまった……。
議論の余地もなく、らん様を、完全に、言いくるめてしまった。
その時、脳裏に、あの忌まわしい声が、蘇る。
―― おぬしの思う通りに事が運ぶ、身に覚えがあるじゃろう ――
九宮コトワの、あの、全てを見透かしたような、言葉。
まさか……今のも……?
私が、『調和』を、『秩序』を望む心が、らんの意思を、捻じ曲げてしまったというの……?
あさめは、震える手で、腰に下げた神器『天津金尖刀』に触れた。
かつては、この世の乱れを正し、人々を癒す、希望の光だと信じていた、この力が。
今や、他者の心を操り、自分の理想を押し付ける、呪いの道具のように思えてならなかった。
あさめは、ふらり、と立ち上がり、窓辺に寄る。
窓の外には、山が消えた跡地が描く、不自然なほどに、美しい星空が広がっていた。
その、あまりにも完璧な夜空を見つめながら、彼女は、これまで感じたことのない、深い、深い孤独に、沈んでいく。
この世界で、本当に、調和を乱しているのは。
私、なのかもしれない。
~二殿の報告書~
北の村の件の報告を確認。
よりにもよって、「神が降りた」とは。
思わず頭を抱えた。
あさめ様のご苦労も伺える。
滞る業務もあるが、どうにも空気が悪いため、勤めを早めに辞した。




