02
そういえば忍さんは元々、コロッセオではなくルーヴルへ行きたがっていた。
大道正義や終日寝太郎とのいざこざが激しすぎて忘れていたけれど、そもそもこ
の場所を訪れる事そのものが、当初は存在しなかった予定なのだ。
……単なる気まぐれとは思えない。たまたま変えた行き先で、たまたま三途璃さ
んと出会うなんて偶然、絶対にあり得ない。世界はそれほど狭くはないのだ。
忍さんはきっと、この状況を予測していたのだろう。どこまでの精度で事を検知
していたのかはともかくとして……ミステリアスな彼女の深淵に触れた気分だ。
だとすると、彼女は何らかの思惑があって私をここへ連れてきたのだ。暴走する
友人を止めたいというハートフルでウェットな感情が、彼女にもあるのかもしれな
い。あるいはそれも気まぐれで、ただひたすらに右往左往する私を嘲笑したいだけ
かもしれない。捻くれ者の彼女の性格を鑑みると、後者の可能性が高そうだ……
結構だ。みっともなく右往左往してやる。
でなければ、今度こそ世界が滅ぶだろうから。
「あ、あの、三途璃さん……ちょっと休憩しませんかっ?」
だから私は勇気を振り絞って、目の前で鎌を振る死神に話しかけた。
けれど彼女はにべもなく首を横に振った。
「……悪いけれど、私は疲れていないわ。もうちょっとでローマの選別が終わるか
ら、それまで待っていて頂戴。立ちっぱなしが疲れたのなら、椅子を用意するわ」
三途璃さんはそう言って指を鳴らした。するとゾンビのように自我を失った集団
の中から一人……私と同じくらいの体格の少女が人波に逆らって私の傍までやって
きて、跪いた。私の足元に蹲り、背中を晒すその顔には、半ば正気に戻ったかのよ
うな苦しげな表情が刻まれている。
……彼女の背中に腰を降ろせと?
「夢路は男の人が苦手でしょう? 椅子は女性にしてあげたわ」
「あ、あの、心遣いは嬉しいのですが……」
「必要無い?」
「え、えと、その……」
「……分かったわ」
三途璃さんは無表情のまま頷いて、少女に向けて鎌を振った。それを契機に跪い
た少女は立ち上がり、また虚ろな表情になって他の人間と同じようにコロッセオを
出ていく波に同化していった。
「……」
やっぱり、今日の三途璃さんは変だ。いつもなら私が言い淀んだ時点で眉を吊り
上げて、「なによ、夢路。私が用意した椅子に座れないって言うの?」などと言っ
て怒りを露わにするだろうに、今日は何も言わずに矛を収めてしまった。
今日の三途璃さんには、およそ感情というものが見受けられない。
明らかに不自然だ。
「み、三途璃さん……その、怒ってますか?」
「……怒ってないわよ。どうして私が怒る必要があるの?」
「あ、いえ、その……」
しまった、藪蛇だっただろうか。私のばか! 空気の読めない間抜け!
いくら自分を責めても、出してしまった言葉は呑み込めない。愚かな私を見つめ
た三途璃さんはしかし、それ以上の追及はせずに「まあいいわ」と首を振った。
「いずれにせよ、そんな心配は無用よ。これからも、私は絶対に怒らないから」
「ぜ、絶対に、ですか……?」
「ええ。私は感情を捨てたのよ。これからは、あれに振り回されはしないわ」
「す、捨てたって……」
三途璃さんは冗談や比喩を好む性格じゃない。その彼女が捨てたと表現したのだ
から、本当に捨てたのだろう。
……どうやって?
いや、それよりもどうして?
「……必要だからよ」
言外の私の問いに、三途璃さんが静かに答えた。
「私はこういう性格だから、自分の中で常に理想の状態というものを思い描いてい
るわ。そうなるために、日々尽力するべきだと考えているのよ。そして理想の状態
を手にするために、感情を捨てたわけ。おわかり?」
「え、ええと……」
きっちりした性格の三途璃さんにしては珍しく、抽象的な話しっぷりだ。
でも何となく分かる。彼女の考える『理想の状態』というのはとりもなおさず、
この惨状を言っているのだろう。
人類の選別……そして整理。
それには感情が邪魔だと言っている。
彼女にも、良心の呵責というものがあるのだろうか。これから何億人と手に掛け
る事に対して、罪悪感を覚えているとでもいうのだろうか。既に二十億人もの人間
を殺しておきながら、今更……?
その心理はいまいち理解し難い。けれど殊に感情なんて曖昧で目に見えないもの
を、ただの人間である私が完璧に理解なんて出来ようはずもない。
……する必要も無い。
今、私が理解すべきはたった一つ。
三途璃さんの行いが圧倒的に間違っているという事だけだ。
いくら理想があるからといって、感情を投げうっていい理由にはならない。
まさしく無私の精神だ。そんな自己犠牲があってはならない。
三途璃さんは今、暴走しているのだ。元々思い込みが激しい個体だから、自分で
それが理解出来ていないのだ。
誰かがそれを理解させなければならないのだ。
忍さんが匙を投げた以上、私がやるしかない……!
三途璃さんの精神的な健康のため……では決してない。もちろんそんな気持ちが
全く無いと斜に構えるわけではないけれど、私にとって三途璃さんは友人である以
前に厄介な魔神であるという認識は揺るがない。
そう、彼女は厄介なのだ。今だってこうして勝手に人類を選別し、おそるべき犠
牲を生み出そうとしている。というか現在進行形で、多分百万人近い犠牲が出てい
る事だろう。
だからこそ、何とかする価値がある。
三途璃さんは、自分の理想のために感情を捨てた。
翻って考えるならば、感情があったら理想の追求は出来ないのだ。
すなわちこの虐殺も、それをもって無期限休止になるはずなのだ。
三途璃さんの感情を取り戻す事が、結果的に世界を救う事になる。
ならばもう、頑張るしかないだろう。
やってやるしかないだろう。
そんな決意を胸に、私は再び三途璃さんを見上げた。
「あの……三途璃さん。さっき感情を捨てたって仰ってましたよね……?」
遠慮がちに私が問うと、彼女は私に一瞥もくれず、選別のために手を動かしなが
ら「そうね」と答えた。
「それがどうしたの?」
「あ、その……もう一度感情を得るつもりは無いんですか?」
「無いわね。要らないもの」
「で、でも、楽しんだりするのって、必要なんじゃ……」
「要らないわね。喜びも悲しみも無い、植物のような人生……それが私の理想よ」
「……本当にそう思っていますか? 照や忍さんといる時のあなたは、とても幸福
そうに見えましたけど……」
「……そうね。だからこそ私は、感情を持つべきじゃないと思ったのよ」
「……え?」
「……分からないならいいわ。いくら感情が無くたって、矜持やプライドはあるの
だから」
「……?」
三途璃さんの言葉の意味が分からなかった。
彼女は私に、意識的に隠し事をしているのだろうか。これ以上踏み込んで欲しく
ないという、遠回しな拒絶だろうか。
とはいえ……屈するわけにはいかない。屈したら何もかもが終わるのだから。
三途璃さんがこれ以上情報を開示してくれないのなら、別口をあたるまでだ。幸
いにも、ここに来てその希望が垣間見えた。
「で、では、一つお願いがあるのですが……」
私がそう言うと、感情を失くした三途璃さんはしつこい私の問いかけにうんざり
した様子を見せる事なく、「なに?」と首を傾げていた。
私はその無防備な様子に未だ慣れず、吐き気を催すほどに緊張していた。
「み、三途璃さんのスマホ……貸していただけませんか?」




