★幕間2 フレーム越しの眼差し
第7部隊「ノヴァ」が共同生活を送る宿舎「アイギス・タワー」の5407号室。
外界の人工太陽が穏やかな午後の光を窓辺に投げかける中、アリアは、自身のデスクでホログラム端末のログを精査していた。
彼女の周囲を静かに浮遊する三機のドローン『アイリス』『ルナ』『セレネ』が、微かな駆動音を立てて点検の終了を告げる。
先日の戦域における、あの脳波とドローンの完全直結。その過酷な演算リソースの限界突破は、アリアの脳だけでなく、彼女の五感を拡張するための補助デバイスにも決定的な負荷を与えていた。
「……やはり、ここに構造的な歪みが生じていますね」
アリアが顔から取り外した眼鏡の、右側のテンプルとフロントを繋ぐヒンジの近く。そこには、目を凝らさなければ見落としてしまうほど微細な、しかし確実に素材の疲労を示す一本の亀裂が走っていた。高濃度のエーテル共鳴にさらされ続けたチタン合金が、限界を訴えていたのだ。
「アリア、その眼鏡、どうしたの?」
ベッドの上で戦術ノートを整理していたリナが、アリアのいつもと違う様子に気づいて声をかけた。リナは真面目で責任感が強く、常に仲間の状態に気を配っている。アリアが眼鏡を光にかざして困ったように眉をひそめているのを見て、すぐに事情を察した。
「先日の夜間哨戒の際、ドローンからの逆位相信号を処理した際のエーテル熱が、フレームの分子結合を僅かに緩めてしまったようです。論理的に言えば、次の戦闘で強烈な衝撃を受ければ、この眼鏡は戦場で完全に破損します。チームの『目』を担う私としては、早急に代替品を確保する必要があります」
アリアの冷徹なデータ主義に基づいた説明を聞き、リナは小さく頷いた。そして、クローゼットからネイビーの落ち着いたカーディガンを取り出しながら、柔らかな微笑みを浮かべた。
「それならアリア、今日の非番を利用して、中層セクターにある眼鏡専門店へ行きましょう。私も、剣のエーテル調整が一段落して、丁度少し外の空気を吸いたいと思っていたところなの。二人でのお買い物なんて、訓練学校時代も含めても初めてね」
「リナさんと、お買い物ですか……? 確かに、代替品の購入は最優先事項ですので、その提案は極めて論理的です。では、出発の準備をいたします」
アリアはそう言って、普段の制服姿からは想像できない、シックなチェック柄のジャンパースカートに着替え始めた。
普段は戦術の話しかしない二人が、こうして私服姿で並んで身支度を整えている空間は、どこかくすぐったい空気に満ちていた。
ソラリスの中層「セクター22」へと向かうリニア鉄道の中、二人は隣り合って座っていた。窓の外を、巨大な摩天楼の群れと、階層の隙間から差し込む本物の太陽に近い光が流れていく。
いつもなら、この移動時間さえも「次の哨戒コースの出現予測確率」や「エーテル波形の減衰率」についての議論で埋め尽くされるはずだった。しかし、今日の二人は、どちらからともなくその話題を口にすることを封印していた。
彼女たちは今、16歳である。
ソラリスの特殊な防衛体制の元で、彼女たちは13歳という幼さで家族の元を離れ、衛士隊訓練学校という過酷な門を叩いた。
もし、エーテル兵装適合者として選ばれず、重い兵装を背負って戦場に立つ戦士になっていなければ、今頃は都市の普通教育学校に通っているはずの年代だった。
友人たちと流行の話題についてお喋りを楽しみ、放課後にはお小遣いを出し合って人気のスイーツ店に寄り道をする。あるいは真面目に宿題をしたり将来について語り合うような、そんな普通の少女としての生活が、そこにはあったはずなのだ。
お互いに口には出さないものの、今日という貴重な休日だけは、戦域の重圧を忘れ、年齢相応の少女らしい買い物を純粋に楽しもうと、二人は静かに心の中で決めていた。
リニアを降り、セクター22の中央広場へと足を踏み入れると、そこには活気ある都市の日常が広がっていた。立ち並ぶショップのショーウィンドウには色鮮やかな衣服や雑貨が並び、市民たちの穏やかな話し声が響いている。
その広場の一角では、最近起きたヴォイド討伐の事後処理が着々と進められていた。紺色のタクティカルベストを着用した都市保安隊の隊員たちが、額に汗を浮かべながら、崩落した建物の瓦礫をクレーンで吊り上げ、破損した配管の溶接作業に当たっている。
彼らはエーテル適性を持たない普通の人間だが、その力強い背中と、黙々と職務をこなす姿こそが、この都市の物理的な日常を支え続けている何よりの証拠だった。
リナとアリアの二人が作業現場の横を通りかかると、一人の顔馴染みの隊員が彼女たちの私服姿に気づき、作業の手を少しだけ休めて、ヘルメットの庇に右手を当てて穏やかで温かい敬礼を送ってきた。その目元には、「いつも街を守ってくれてありがとう」という、無言の感謝の情が宿っていた。
リナとアリアは、ハッとして足を止め、背筋をピンと伸ばして小さく丁寧な会釈を返した。そこには台詞こそなかったが、大人の男たちによる物理的な支えと、少女たちの命懸けの剣が、互いを尊重し合う深い信頼の交錯があった。彼らが守ってくれているこの平和な街の風景が、二人の胸をじんわりと温めていく。
「……私たちが戦う理由は、あの隊員さんたちの流す汗の先にあるのね」
リナが小さく呟くと、アリアも眼鏡の位置を直しながら静かに頷いた。
「はい。彼らの構築する日常の土台があるからこそ、私たちは前線での演算に集中できます。非常に強固な信頼関係です」
それから二人が訪れたのは、歴史ある眼鏡専門店「オプティカル・ラボ」だった。
店内には、最新の軽量チタン合金製から、クラカルな樹脂製のものまで、何百種類ものフレームが壁一面に整然と並べられていた。アリアは店内に入るなり、まるで戦術データベースを検索するかのように、無駄のない動きで一つの棚へと直進した。
「やはり、論理的な耐久性と、ドローン直結時のエーテル共鳴を最も効率よく遮蔽できるのは、このスクエアタイプのダークグレー、あるいはマットブラックのチタン合金フレームです。視野角の減少率もコンマ数パーセントに抑えられます」
アリアが、いつもと寸分違わない、四角く実用主義的なフレームを手にとろうとしたその時、リナがその細い手首を優しく、しかし確実に制した。
「アリア、待って。今日は任務じゃないのよ。せっかく新しい眼鏡を選ぶのだから、もっと、今の貴女自身に似合う、お洒落なものを探しましょう。いつも完璧な参謀でいてくれるけれど、たまには少しだけ、自分を飾ってみてもいいじゃない」
「自分を、飾る……ですか? しかし、眼鏡はあくまで視覚情報を補正し、戦闘中の演算をサポートするためのデバイスであり、外見的な要素は計算式には含まれませんが……」
戸惑うアリアを無視して、リナは楽しそうに棚の間を歩き回り、一振りの美しいフレームを選び出した。それは、普段のアリアなら絶対に視界にすら入れないであろう、少しお洒落なアンダーリム――レンズの下半分だけに深みのあるボルドーカラーのメタルフレームがあしらわれた、繊細なデザインのものだった。
「アリア、これ。絶対に貴女に似合うと思うわ。ちょっとかけてみて?」
「アンダーリム……ですか? レンズの上部にフレームがない構造は、上方の視野角に対する論理的な遮蔽が懸念されますし、この色調は私のパーソナルカラーのデータと合致しているか……」
アリアは「論理的な視野角が……」と不器用な言い訳を口にしつつも、リナの真剣で、どこか期待に満ちた瞳に押し切られるようにして、そのボルドーの眼鏡を顔に装着した。そして、目の前にある姿見の鏡を、おそるおそる覗き込んだ。
鏡の中に映っていたのは、いつも冷徹なデータを弾き出している「第7部隊の参謀」ではなかった。
アンカーから放たれる柔らかな光のようなボルドーのフレームが、彼女の知的な金髪と絶妙なコントラストを描き出し、眼鏡の奥の瞳を、いつもより少し柔らかく、そして年相応の瑞々しい少女らしく見せていた。
「……あ」
アリアは、言葉を失った。
彼女の脳内の高度な計算回路が、鏡に映る自分自身の姿を見て、一瞬だけ完全にフリーズしてしまったのだ。外見の美しさを数値化するアルゴリズムなど持っていなかったはずなのに、彼女の胸の奥で、経験したことのない小さな、しかし確かな鼓動が跳ね上がった。密かに胸を躍らせている自分自身に、アリアは激しく狼狽した。
「ほら、すごく素敵よ、アリア! いつものクールな雰囲気も格好いいけれど、今の貴女は、すごく可愛いわ」
リナが手を叩いて嬉しそうに太鼓判を押す。その純粋な称賛の言葉に、アリアは顔がカッと熱くなるのを止められなかった。
「か、可愛いだなんて、そんなデータ外の形容は困ります……。ですが、鏡の反射光による視覚的印象は、その……悪くない、かもしれません」
アリアは照れ隠しのように眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。その仕草すらも、新しいフレームのおかげで、どこか洗練された少女の所作のように見えていた。二人はそのまま、そのボルドーのアンダーリムを購入することに決めた。
買い物を終えた二人は、セクター3の片隅にある、人工の蔦が美しく絡まる小さなオープンカフェのテラス席にいた。
テーブルの上には、二つの温かいハーブティーのカップが置かれ、心地よい香りの湯気を立ち昇らせている。周囲の喧騒から少し離れたその場所で、新調された眼鏡をかけたアリアと、リナは静かに向かい合っていた。
「……アリア。私ね、ずっと思っていたの」
リナがカップを両手で包み込みながら、遠い目をして切り出した。
「私は第3部隊との模擬戦で敗北したとき、隊長として完璧でなければいけないって、一人で全部背負わなきゃいけないって頑なになっていたわ。マヤさんに厳しさを教わって、仲間を『戦士』として信頼することを覚えたけれど、それでも時々、自分の指揮が間違っていないか、怖くなることがあるの」
銀髪の隊長が見せた、生真面目ゆえの小さな弱音。アリアは、新調されたボルドーのフレーム越しに、リナの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「リナさん。私の計算する戦術データは、ただの冷たい数字の羅列です。ヴォイドの核の座標を特定し、最短ルートを算出することは機械でもできます。ですが……その冷たい数字に命を吹き込み、恐怖に震える私たちを一つの部隊として、強い絆で率いてくれるのは、リナさんの生真面目なまでの優しさと決意です。あなたが前線で道を切り拓いてくれるからこそ、私は安心して後方での演算に全てを賭けることができるのです」
アリアの言葉には、一切の迷いがなかった。それはデータを超えた、魂の底からの確信だった。
「部隊を率いる者がリナさんであり、それを支える参謀が私であること。この配置こそが、我が第7部隊における最も論理的で、最も完璧な最適解です。私は、あなたの参謀であることを、心から光栄に思っていますよ」
アリアの静かで力強い言葉に、リナは目を見開き、それから今日一番の、本当に晴れやかな笑顔を咲かせた。
「ありがとう、アリア。貴女がそう言ってくれるなら、私はどんな戦場でも、もう迷わずに進むことができるわ。……これからも、私の隣で、みんなを支えてね」
「ええ、もちろんです。私のこの新しい『目』が、どんな闇の中でも、必ず皆さんの進むべき勝利への道を照らし続けますから」
アリアは眼鏡のフレームにそっと触れ、微笑んだ。
年齢相応の少女らしい買い物の時間は終わり、二人の意識は再び、都市を守る衛士としてのそれへと戻りつつあった。しかし、そのフレームの向こう側にある眼差しには、これまでとは全く違う、決して折れることのない強固な絆の光が宿っていた。
夕暮れの光がソラリスの摩天楼を美しく染め上げ、二人の少女の影を優しく包み込んでいく。
隊長と参謀。生真面目すぎる二人が手に入れた新しい視界は、これから始まるどんな過酷な戦いをも、必ずや希望の光へと導いていくのだろう。




