不帰の深淵
1:紫の不協和音
今から3年前、多重階層都市ソラリスの下層域「セクター44」は、観測史上例を見ないほど不気味なエーテルの歪みに狂わされていた。
当時、18歳で衛士3年目だったマヤは、自身の二振りの直剣を強く握り締め、荒れ狂うアビスの瘴気の中に立っていた。
彼女が率いる第3独立遊撃部隊はすでに最強の個の強さを誇るチームとして頭角を現していたが、その日の戦場は、彼女たちの武力をもってしても手に余るほどの混沌と化していた。
空を引き裂いて群生するアビス・ゲートの裂け目からは無数のスカベンジャー級が溢れ出し、都市保安隊(CSF)の防衛線を次々と食い破っていた。彼らが放つ自動小銃の実弾の爆音と、避難を呼びかける悲痛な叫びが硝煙の中に響き渡るなか、マヤたちのインカムに、一つの緊迫した通信が混線してきた。
『――こちら第7独立遊撃部隊! 動力ブロックにて、プレデター級の上位個体に完全に包囲された! 誰か、応援を……っ!』
その声の主は、マヤたちと同じ年に訓練学校を卒業した、当時の第7部隊の隊長だった。彼女たちは優秀な同期チームであり、誰よりも仲間を愛し、お互いの絆を大切にする理想的な部隊として知られていた。
「マヤ、どうする? 第7部隊の座標はここから目と鼻の先よ」
リリスが杖を掲げながら冷静に告げた。
「ルウ、防壁を維持できる!?」
ルウが巨大なタワーシールドを地面に突き立てて頷いた。
「……3分なら、不動」
「サラ、リリス、ルウの防壁の隙間から火線を維持しなさい! 私は第7部隊の救出に向かう!」
マヤはエーテルブースターを逆噴射させ、紫色の瘴気が渦巻く動力ブロックへと、一人突撃していった。しかし、その先に待ち受けていたのは、彼女の衛士人生の中でも最も残酷で、決して消えることのない不条理な「終わり」の光景だった。
2:躊躇いという名の絶望
マヤが動力ブロックの広場へと滑り込んだとき、彼女の銀色の瞳に映ったのは、三体のプレデター級に完全に四方を取り囲まれた、第7部隊の四人の姿だった。
彼女たちの制服は怪物の紫色の返り血でボロボロに裂け、エーテル兵装の輝きも明滅していた。
脱出のルートは、ただ一つ。前方にいる一体のプレデター級の装甲を破り、そこから突き抜けるしかなかった。しかし、そのためには、誰か一人が囮となって他の三体の怪物の注意を引きつけ、残りの三人を逃がすという、冷徹な「選択」が必要不可欠だった。
「みんな、諦めちゃダメ! 全員で、全員で生きて帰るのよ!」
旧第7部隊の隊長の少女が、涙を流しながら細剣を構え、必死に仲間たちに向かって叫んでいた。彼女の仲間を愛する純粋な心、誰一人として犠牲にしたくないという強い執着。……しかし、その優しさと躊躇いこそが、この極限の戦場においては、何よりも鋭い「絶望の刃」となって彼女たちの首元に突きつけられていた。
「ダメよ、選んで……! 誰かを犠牲にしてでも、今すぐ進路をこじ開けなさい!」
マヤは叫び、直剣を振るって周囲のスカベンジャー級を斬り伏せるながら彼女たちの元へと走った。しかし、マヤの声は、激しい地響きと怪物の咆哮にかき消されて届かない。
旧第7部隊の隊長は、最後まで囮を選ぶ決断を下すことができなかった。全員を救おうとした彼女のその一瞬の「決断の遅れ」を、異次元の知性は見逃さなかった。
ズゥゥゥゥゥン……。
突如として、彼女たちの足元の空間が強烈な逆位相の歪みを起こし、巨大なアビス・ゲートの裂け目が口を開けた。圧倒的なアビスの引力が、広場全体を包み込む。
「……あ」
旧第7部隊の槍士の少女の足元が、歪んだ空間の底へと滑り落ちていく。
「離さない……! 絶対に離さないから!」
隊長は、細剣を放り投げ、底へと沈みゆく仲間の手を必死に握り締めた。残りの二人の少女もまた、隊長の身体を支えようと、互いの手を強く、強く重ね合わせた。
全員で生きて帰る。
その美しい誓いは、しかし、アビスの放つ暗黒の引力の前には、あまりにも脆弱な子供の願いに過ぎなかった。マヤの手が、あと数メートルのところで、彼女たちの白銀の制服に届かなかった。
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
少女たちの悲痛な悲鳴が最下層のインフラ通路に響き渡った瞬間、暴走したアビス・ゲートの光の奔流が広場全体を飲み込んだ。まばゆい紫色の爆発。
マヤは強烈な衝撃波によって後方へと激しく吹き飛ばされ、泥の床の上を何度も転がった。
数秒後、マヤが血を吐きながら顔を上げたとき、そこには、もう誰もいなかった。
旧第7部隊の四人の少女たちも、彼女たちを包囲していたプレデター級の姿も、すべてが跡形もなく消滅していた。あとに残されたのは、抉り取られた鋼鉄の床の巨大な穴と、人工太陽の届かない暗闇のなかに漂う、微かなエーテルの残光だけだった。
四人で一つの星になろうとした優秀な同期チームは、その優しさゆえに、歴史の闇の底へと完全に吸い込まれて消えていったのだ。
3:受け継がれる意志
「……嘘、でしょう」
遅れて広場へと駆け込んできたサラ、リリス、ルウの三人が、その場に呆然と立ち尽くした。
ルウは巨大な盾を抱きしめるようにして、静かに涙を流した。リリスは端末のデータを何度もスキャンし直したが、画面に表示されるのは「生命反応:皆無」という、冷酷な論理の文字列だけだった。
マヤは立ち上がり、血に染まった自分の両手を見つめた。
あと一秒、自分の踏み込みが早ければ。あと一秒、彼女たちが冷徹な決断を下していれば。
(隊長は……孤独でなければならない)
マヤの胸の奥に、鉄の楔のような重圧が、この日、取り返しのつかない傷痕となって刻み込まれた。仲間を愛するあまりに全滅した旧第7部隊の悲劇。それを特等席で見届けたマヤは、二度と後輩たちに同じ地獄を歩ませないため、自らに、精度と冷徹なる強さを義務付けることを誓ったのだ。
その後、第7部隊という番号は、全滅の呪い、あるいは不吉な欠番として、衛士隊総監部のデータベースから長く消し去られることになった。
それから、3年。
マヤは、衛士隊の演習場で、自分と同じ銀色の髪を持った、16歳の新米隊長、リナの瞳を見つめていた。
彼女たちは、あの欠番だった「第7部隊」を引き継ぎ、再び四人で一つの星になろうとしていた。
「あなたたちが背負っているのは仲間の命よ。あなたが迷えば、彼女たちは死ぬ」
模擬戦の後、マヤがリナに浴びせたあの痛烈な叱咤。それは、3年前のあの暗闇の広場で、光の中に消えていった名もなき同期の少女たちへの、鎮魂の祈りでもあったのだ。
リナは、そのマヤの厳しさの裏にある深い愛の形を知り、やがて仲間を「守る対象」ではなく「共に死線を越える戦士」として完全に信頼する、新しい第7部隊の歴史を創り出していくことになる。
見上げれば、ソラリスの空には、あの時と同じ人工太陽のプログラムされた穏やかな光が降り注いた。
旧第7部隊が残していったのは、絶望の歴史だけではない。彼女たちの死の重みがあったからこそ、マヤは最強の盾と矛となり、後にリナたちは誰も知らない深淵の底で「王」を穿つ鋭い剣になれたのだ。
星の残響。それは終わらない明日に向かって、少女たちの魂の奥底で、今もなお決して折れることのない強固な灯火となって、美しく響き渡り続けている。




