クロエ編 槍の穂先が融ける場所
1:鉄のドームを離れて
多重階層都市ソラリスの中層域、衛士隊専用宿舎「アイギス・タワー」の朝は、いつもと変わらない静寂に包まれていた。
午前5時。緑色の髪を高い位置でポニーテールに結んだ少女、クロエは、いつものようにベッドから身を起こした。大規模侵攻の終結から二週間。公式の記録にも歴史の表舞台にも残らなかった第7独立遊撃部隊「ノヴァ」の死闘の傷跡は、三日間の「一時休暇」という形でのみ、彼女たちに還元されていた。
「……今日から、休暇だったわね」
誰もいないトレーニングスペースを見つめ、クロエは小さく呟いた。普段ならここから千回の刺突訓練が始まるが、今日ばかりは白銀の槍に触れる予定はない。彼女は戦闘服ではなく、黒のライダースジャケットにスリムな黒のパンツという、動きやすさを最優先した私服に身を包んだ。
宿舎のロビーに降りると、ちょうど実家へ向かうリナと鉢合わせした。水色のワンピースを着た隊長は、どこか緊張した面持ちで「クロエ、しっかり休んできてね」と微笑みかけてくれた。モモはまだ部屋で大いびきをかいて寝ているだろうし、アリアは時間ぴったりに起きるためにアラームの1分前を待っている頃だろう。
「あなたもね、リナ。ゆっくり休みなさい……お互いに、有意義な時間を」
短い言葉を交わし、クロエはリニア鉄道のホームへと向かった。
窓の外を流れるソラリスの景色は、急ピッチで進む再開発のクレーンと、都市保安隊(CSF)の復興車両で溢れていた。二週間前、自分がその最深部で核を貫いたあの怪物の残響は、すでに地上の喧騒にかき消されつつある。
リニアが中層の比較的古い居住セクターに到着した。改札を抜け、慣れ親しんだ排気とオイル、そしてどこか懐かしい「汗」の臭いが漂う下町の路地を歩く。突き当たりに見えてきたのは、古びたネオンで『クラウ・ジム』と書かれた、実家のトレーニングジムだった。
2:元兵士の拳、元衛士のスープ
重いガラス扉を押し開けると、凄まじい衝撃音がクロエの鼓膜を叩いた。
「ほら、腰が入ってないぞ! それじゃヴォイドの装甲どころか、スカベンジャーの足止めすらできん!」
サンドバッグを割らんばかりの勢いで叩いているのは、クロエの父親であるゴウだった。
濃紺の保安隊制服を脱ぎ、いまは地域の若者や保安隊志望の者たちにトレーニングと格闘術を叩き込んでいる元隊員。実の娘が帰ってきたことに気づくと、ゴウは無骨な顔に深い皺を刻んで破顔した。
「クロエ! よく帰ってきたな! ほら、見ないうちに背が伸びたか? 腕の筋肉のキレはどうだ!」
「ただいま、お父さん。相変わらず騒々しいジムね。私はまだ16歳よ、そんなにすぐ背は伸びないわ」
「ハハハ! 言うようになったな。だが、あの侵攻を生き残ったんだ、面構えが変わった」
ゴウの大きな手が、クロエの肩をがっしりと掴んだ。かつてエーテルを持たぬ一般兵として、何重もの鉄の防衛線を死守し続けた父。その手の厚みと温もりは、戦場で背中を預けた保安隊員たちの献身そのものだった。
「あら、クロエ。おかえりなさい。ちょうどお昼のスープができたところよ」
受付の奥から顔を出したのは、母親のミレイだった。かつては一人の衛士として前線に立ったが、有名な勲章を貰うような著名な存在ではなく、一戦士として義務を果たして引退した女性だ。彼女の纏うエプロンからは、鶏肉と根菜を煮込んだ優しい香りが漂っていた。
「お姉ちゃん!!」
さらに奥から飛び出してきたのは、14歳になる弟のレントだった。中等教育学校に通う彼は、姉の姿を見るなりその細い手を掴んで、目を輝かせた。
「すごいよお姉ちゃん! ニュースで見たけど、セクター16のシェルターを守ったのって第7部隊なんでしょ!? お姉ちゃんの部隊だよね!」
「……公式の記録には、別の部隊の名前が載っているはずよ」
クロエは言いながら弟の頭を軽く小突いた。
「えー、でも絶対にそうだよ! 俺、クラスの奴らに自慢しちゃったんだから!」
「レント、姉さんを困らせるな。衛士には語れない話がある」
ゴウが厳しく嗜めると、レントは不満げに口を尖らせたが、その瞳には姉への純粋な憧れが満ちていた。
その日の昼食は、ミレイ特製の具だくさんスープだった。戦場での乾いたレーションや、宿舎の栄養計算された食事とは違う、出汁の効いた家庭の味。
「クロエ、エーテル兵装の馴染みはどう?」
スープを運びながら、ミレイがかつての衛士としての目付きで尋ねてきた。
「問題ないわ。私の白銀の槍は、私のリズムに完璧に付いてきている。先日の戦いで、一つの答えを見つけた気がするの」
「そう……。完璧を求めるのは良いことだけど、道具に振り回されてはダメよ。最後はあなたの身体が、すべての答えを決めるんだから」
「分かっているわ、お母さん」
クロエはスープを口に運び、その温かさが五臓六腑に染み渡るのを感じていた。元衛士の母だからこそ、完璧を求めるクロエのストイックさの危うさを誰よりも理解し、こうして日常の味で彼女の心を繋ぎ止めてくれているのだ。
3:槍の穂先が融ける場所
夜、ジムの営業が終わった後の静かなフロアで、クロエは一人、ストレッチをしていた。
鏡に映る自分の姿。制服を着ていない自分は、どこにでもいる16歳の少女に見える。しかし、その掌に刻まれた槍のタコや、ライダースジャケットの袖から覗く引き締まった前腕は、彼女が紛れもない戦士であることを主張していた。
ガラ、と扉が開き、ゴウが二本のプロテインボトルを持って入ってきた。
「一本どうだ、クロエ」
「いただくわ」
ボトルを受け取り、冷たい液体を喉に流し込む。ゴウは自身の太い腕を眺めながら、静かに語り出した。
「今回の侵攻で、多くの仲間が死んだ。保安隊も、衛士もな。……お前たちの部隊が、何処でどんな働きをしたのか、俺は詳しくは聞かん。だがな、俺たち保安隊が弾薬を撃ち尽くし、装甲を砕かれながらも最後まで絶望しなかったのは、お前たち『衛士』が、必ず奴らを穿ってくれると信じていたからだ」
ゴウの言葉。それは、歴史の闇に消えた第7部隊の決戦を、現場で支え続けた名もなき盾たちの、魂の代弁だった。
「クロエ。お前は昔から完璧であることに囚われていた。だがな、戦場での完璧とは、一人で隙を無くすことじゃない。泥にまみれ、血を流しながらも、仲間のために一瞬の時間を繋ぐことだ。お前には、それができたはずだ」
「……ええ」
クロエは目をつむった。脳裏に蘇るのは、アリアの緻密な座標指示、モモの大剣がこじ開けた広大な空間、そしてリナが雷撃を受け止めながら叫んだ「私たちを信じて貫きなさい!」という声。
「私は、一人で完璧になろうとしていたわ。でも、違った。第7部隊の仲間たちが、私の槍を完璧にしてくれたの。私は、彼女たちのために、ただ一突きを捧げるだけでよかった」
クロエの口元に、微かな、しかし信じられないほど穏やかな笑みが浮かんだ。
完璧主義という名の氷の槍が、家族の温もりと、仲間への絶対的な信頼によって、静かに融けていくのを感じていた。
翌々日の朝、休暇を終えたクロエは、再び黒のライダースジャケットを羽織り、実家のドアを開けた。
「お姉ちゃん、またね! 次の休みには、ジムのミット打ち付き合ってよ!」
レントが元気に手を振る。
「怪我をしないようにね、クロエ。スープの材料、また送るわ」
「しっかりな。第7部隊の槍士、クロエ!」
家族の声に見送られ、坂道を下るクロエの足取りは、宿舎を出た時よりも遥かに力強く、そして軽やかだった。
守るべき家があり、帰るべき日常がある。そして、アイギス・タワーでは、自分の槍を最高の最適解へと導いてくれる、かけがえのない仲間たちが待っている。
ソラリスの空に、新しい人工太陽の光が昇り始める。
クロエはパトロールバッグのジッパーで揺れる星のキーホルダーに触れ、瞳の奥に冷徹にして熱い闘志を宿した。終わらない戦いの中へ、彼女は再び、大切な明日を守るための「完璧な一突き」を携えて、戻っていく。




