★幕間3 鉄とマーマレード
このエピソードは本編第2話の頃の物語です。
ソラリスにそびえ立つ衛士専用宿舎「アイギス・タワー」。その4階にある広大な食堂は、朝6時の開場と同時に、にぎやかな喧騒に包まれる。
提供されるのは、最新の栄養学に基づいてカロリーやエーテル同調率が計算された「ガーズ・ブレックファスト」。焼きたてのライ麦パンの香ばしい匂いと、大鍋で煮込まれたスープの湯気が、これから過酷な課業に赴く少女たちの胃袋を優しく刺激していた。
リナ、クロエ、アリアの三人が、それぞれのトレイを手に手際よく席を決めていく中、桃色のツインテールを揺らす少女、モモだけは、まるで針のむしろに座らされているかのように、トレイを両手で持ったまま硬直していた。
(……あ、あぶない。また力を入れすぎちゃった……)
モモは、自分のトレイの端が、親指の圧力だけで白くひしゃげかけているのに気づき、慌てて指を離した。
彼女は生まれながらの「異常な怪力」を持っていた。三歳の時に母に抱きつこうとして肋骨を折り、周囲の人間からは怪物を見るような目で忌避されてきた過去が、彼女の心に深い傷を刻んでいる。
この宿舎に用意されているのは、一般的なセラミック製の白い皿や、軽量化された強化プラスチックのカップだ。他の衛士たちにとっては使い勝手の良い食器だが、モモにとっては、いつガラス細工のように粉々に砕け散るかわからない、あまりにも繊細で恐ろしい鉄屑の山に等しかった。
昨日も、スプーンを握る指先に少し力が入っただけで、金属の柄がぐにゃりと直角に曲がってしまった。周囲の衛士たちが驚いて振り返ったときの、あの視線。悪意はなくとも、「化け物」を見るようなあの怯えを含んだ目を、モモは誰よりも敏感に察知してしまう。
それが怖くて、共同生活が始まってからの数日間、モモはまともに食事を口にできていなかった。宿舎のシチューがどれほど美味しいと評判でも、彼女はおそるおそるスプーンの端をすくい、お腹を空かせたまま、大半を残してトレイを返却口へと戻す日々を送っていた。身の丈を超える大剣「イグニス・ゼロ」を振るうためには膨大なエネルギーが必要なはずなのに、彼女の身体は確実に悲鳴を上げ始めていた。
そんなモモの痛々しい様子を、食堂の奥、ガラス張りの巨大な厨房からじっと見つめている男がいた。
白い調理服の袖を捲り上げ、直径一メートルを超える巨大なスープ釜を、太い一本の腕だけで軽々と掻き回している無骨な老料理長。
彼は、かつて都市保安隊の給養部隊に所属し、数多の激戦を支えてきた退役兵だった。
彼のエプロンの下に見える色褪せたインナーには、今も誇らしげにCSFの薄れた紋章が印字されている。エーテルを操る超常の力こそ持たないが、彼はかつて、空間の裂け目から這い出たヴォイドの襲撃を受け、炎上する防衛線の後方において、煤まみれになりながら大型の移動式調理釜を振るい続けた男だった。
衛士たちの放つエーテル光や保安隊員による実弾の弾幕が飛び交う戦域の裏側で、飢えと恐怖に震える保安隊員たちや、ヴォイドに家を追われた避難民の子供たちに、ただひたすらに温かいスープと一切れのパンを配り、命を繋ぎ止めてきた「日常の象徴」――それこそが、彼の背負ってきた誇りだった。
老料理長は、モモがほとんど手をつけていないシチューの皿を、申し訳なさそうに返却口へ置く姿を、何度も無言で見届けていた。その肉厚な手のひらに刻まれた無数の火傷の痕や、硬いタコが、少女の隠された苦悩をすべて見抜いているようだった。
ある朝のこと。
モモは、連日のハンガー状態による極度の疲労から、目覚まし時計の音にも気づかず、盛大に寝坊をしてしまった。
ハッと気づいて跳ね起きたときには、時計の針は午前八時半を回っていた。朝礼や日課の部隊訓練の直前。リナたちはモモを起こそうとした形跡(ベッドの横に置かれた置時計の山)があったが、限界を迎えたモモの身体はそれすら拒絶していたようだった。
「うぅ……やっちゃった……。隊長に怒られる……」
寝癖を爆発させたまま、モモは制服のアンダーウェア姿のまま、ふらふらと一階の食堂へと降りていった。
当然、朝食の時間はとっくに過ぎており、あれほどにぎやかだった食堂には、誰ひとり残っていなかった。テーブルは綺麗に拭き上げられ、人工太陽の冷たい光だけがガランとした空間を照らしている。
お腹が鳴った。胃袋が捩れるような、耐え難い飢餓感。
モモがトレイも持たずに、恨めしそうに厨房のカウンターを覗き込んだ、その時だった。
トントン、と。
厚い鉄板の上に、何かが置かれる鈍い音がした。
顔を上げると、そこには無言で鉄板に向かう老料理長の背中があった。彼はモモの方を振り返ることもせず、極厚にスライスされた自家製の食パンを、大きなコテを使ってじっくりと、香ばしい黄金色になるまでトーストしていた。
パンの焼ける暴力的なまでに良い匂いが、無人の食堂に広がっていく。
老料理長は、焼き上がった巨大なトーストをまな板に移すと、そこに、下層セクターの地下農場で採れた柑橘類をじっくりと煮詰めて作った、特製のマーマレードをこれでもかと山盛りに塗りたくった。宝石のように煌めく黄金色の果肉。
そして彼は、その特大のトーストを、宿舎用のプラスチックの皿ではなく、一つの重厚な「鋳鉄製のスキレット(鉄皿)」の上にドン、と載せた。
老料理長は、その鉄皿を両手で持ち、無言のままカウンター越しにモモの前へと突き出した。
「え……? あの、あたし、時間を過ぎちゃって……」
モモが気まずそうに手を引っ込めようとすると、老料理長は、その火傷の痕だらけの大きな手を、モモの桃色の頭の上にぽんと置いた。
ずっしりとした、しかし驚くほど温かい手のひらの重み。
彼は何も言わなかった。都市保安隊の退役兵としての規律を守るように、余計なことは一切口にしない。
ただ、自分の太い腕の筋肉を拳で一度叩き、それから目の前の、真っ黒で頑丈な鉄の皿を指差した。
その無言の所作が、モモの心の中に、どんな洗練された言葉よりも力強く響き渡った。
(――壊してみろ、と言っているんだ)
この皿は、お前がどれだけ全力で握りしめても、どれだけテーブルに叩きつけても、絶対に壊れはしない。お前が持つその怪物のような力は、誰かを傷つけ、何かを壊すための呪いではない。この過酷なソラリスの戦場で、誰かを満たし、人々の日常を守るための、尊い「戦士の力」だ。だから、何も恐れずに、腹いっぱい食え。
老料理長は、それだけを伝えるようにフッと鼻を鳴らすと、すぐに厨房の奥へと戻り、再び大きな鍋の洗浄作業を始め、ガシガシと真鍮のブラシを動かす音だけを響かせた。
「……う、あ……」
モモの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ、トーストの上のマーマレードに落ちて弾けた。
彼女は、差し出された鉄皿を、両手で力いっぱい掴んだ。どれだけ指先に力を込めても、その頑強な鋳鉄は、彼女の出力をすべてがっしりと受け止め、びくともしなかった。
「……いただきますっ!」
大きな口を開け、特大のマーマレードトーストにかぶりつく。
カリッ、という小気味良い音と共に、口いっぱいに広がったのは、圧倒的な小麦の旨味と、突き抜けるような柑橘の甘酸っぱさ、そして微かな皮のほろ苦さだった。
それは、栄養カプセルやレーションでは絶対に味わえない、生身の人間が、力なき CSFの男たちが命を懸けて維持している「日常」そのものの味だった。
「おいしい……っ、すごく、おいしい……!」
涙で視界を滲ませながら、モモは夢中でトーストを貪った。
一口噛み締めるたびに、数日間飢えていた彼女の魔導回路が、エーテルとは異なる、本質的な生命のエネルギーで満たされていくのがわかった。壊すことを恐れて縮こまっていた彼女の魂が、この壊れることのない鉄の皿の上で、初めて完全に解き放たれていく。
食べる喜び。それは、生きる喜びであり、戦うための絶対的な熱量の産声だった。
ものの数分で、特大のトーストはモモの胃袋へと収まった。鉄皿の上には、一滴のマーマレードすら残っていなかった。
モモは、袖で乱暴に涙と口元を拭うと、厨房の奥で背中を向けている老料理長に向かって、弾けるような笑顔で叫んだ。
「ごちそうさまでした! あたし、行ってきます!!」
「おう」とも「うむ」ともつかない、短い地鳴りのような唸り声が厨房の奥から返ってきた。
モモは、生まれ変わったかのような力強い足取りで、食堂の扉を押し開けた。外には、人工太陽の眩い光が広がっている。
訓練場へ向かって全力で駆け出す彼女のツインテールは、朝の風の中で、これまでになく誇らしげに躍動していた。もう、大剣の重さに負けることも、自分の力を呪うこともない。
食堂の窓から、その桃色の背中が小さくなっていくのを、老料理長は無言のまま、満足そうに見送っていた。彼の握る真鍮のブラシが、朝の光を受けて、静かに、しかし確かに鈍い輝きを放っていた。




