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EP.7 舵を切る

この殺意には一片の不純物も存在しなかった。

振り抜かれた短剣は、絶対的な死という終着点へと、重力に従う滴のように寸分の狂いもなく吸い込まれていく。それはもはや感情の爆発などではない。冷徹な物理法則に従って淡々と執行される、不可避の処刑そのものだった。


左腕の深部で、何かが致命的に破綻した。

短剣の切っ先が、倒れゆく男の喉笛に触れようとしたその刹那。義手の内部で配線が焼き切れるような異音が響き、高電圧の電流が狂った蛇のごとく全身を駆け巡った。


肺の空気が一気に絞り出され、強固な意志で統率されていた筋肉が、一瞬にして強張った檻と化す。絶望的なまでの正確さを誇った殺戮機構が、その不純なノイズによって致命的な誤差を生んだ。

 

死の銀閃は男の首筋をわずかに逸れ、甲板へと鈍い衝撃音とともに深く突き刺さった。


床に転がった男は、ただ剥き出しの恐怖に身を震わせ、俺を凝視していた。

殺戮機構の熱は、夜の闇に溶けるようにその姿を消す。そこに残されたのは、小刻に痙攣する義手だけだった。


俺は突き刺さった短剣の柄を支えにし、男を跨ぐようにして上体を起こした。嵐の去った後のような静寂が甲板を支配し、ただ一つ、壊れた義手が発する不快な駆動音だけが、虚しく大気を震わせていた。


短剣を力任せに引き抜くと、男の首筋の皮膚が薄く裂けた。少し遅れて、その赤い線からじわりと血が滲み出す。首を伝うその雫は、床を汚すことさえ許されぬまま、乾いた大気の中で熱を失っていく。

 

俺はゆっくりと立ち上がり、一点の汚れもない銀の刃を胸元のホルダーへと滑り込ませた。


「———お前」ダンカンは囁いたが、何も言わなかった。

 

俺は、誤作動を続ける左腕を吹き付ける風に晒したまま、誰の顔も見ることなく、再び歩き出した。突き刺すような視線を全身に浴びながら。





砂上船の最深部、迷路のような狭い通路を抜けた先に、その重厚な扉はあった。

ダンカンは迷うことなく、分厚い鉄扉を無骨な拳で強く叩いた。静まり返った廊下に、金属が軋むような重いノックの音が響き渡る。


狭い廊下で音が行き場を失っているように思った。

音の余韻が消える前に唐突に扉が開いた。鉄と砂の擦れる音とともに。


開いた扉からぬっとウスマンが姿を見せる。

岩を削り出したかのような厳格な輪郭。その深い彫りに刻まれた影の奥で、鋭い眼光が静かに燃えている。表情は鉄のように硬いが、どこか温かみが灯っていた。


彼の視線は異音を立てて震える左腕と俺の顔を通り抜け、ダンカンへと向けられた。


「二人にしてくれ」そう静かにウスマンは言った。


ダンカンは噛み締めるように頷いて、その場をあとにした。立ち去る寸前に一瞬目が合って、その目は確かに揺らいでいた。


ダンカンの背中を尻目にウスマンが言う。「入れ」


俺は見上げるようにウスマンの目を見ながら、部屋へ足を踏み入れた。


飾り気のない部屋だ。特に広いわけではないし、豪華な家具があるわけでもない。部屋の端には作業机があって、工具が散らかっていた。


「好きな所に座って良いぞ」ウスマンは言った。「義手を外して見せてみろ」


俺は誤作動を続ける義手を左腕から力強く引き抜いた。身体が軽くなって肩の力が抜ける。蛇のように暴れる義手を、俺はウスマンに手渡した。


「うーん」と唸りながら作業台に向かうウスマン。「これなら簡単に治せそうだな。すぐに終わるから待っててくれ」


ウスマンは彼の体格に対して小さな丸椅子を足で引いた。古びたキャスターの金切り音が響く。そうして丸椅子に座ったウスマンの大きな背中を俺は眺めていた。


「いつ腕を失くしたんだ」作業用のライトをつけて必要な工具を探りならウスマンが言う。


「すっと前だ」俺は呟いた。


「身体に傷の無いスカベンジャーは信用ならない。そんな奴は危険に挑む勇気が無いか、味方を盾にする卑怯者だ。違うか?」


「全くその通りだ」ありあわせの言葉だった。


「ここにいる連中はみんな傷だらけだ。俺の野望のためによく戦ってくれている」


鉄を切る音が部屋中に響いた。作業台から火花が散っている。俺は目を逸らして答えた。


「ろくでもない連中ばかりじゃないか」


「ここに来るまでに何かあったんだな、彼らの無礼を詫びよう」ウスマンは俺に背を向けたまま言った。「出来た奴らじゃない。荒くれ者の集まりさ。ここ以外に居場所がない。自分の親や兄弟を殺した奴も沢山いる。みんな、過去に大きな影を背負って生きている」


「ありきたりな話だな」俺は開いた右手を見ながら言った。「世界が滅びようとしているんだ。人の心も荒んで当然だろ」


「クソ喰らえだ」基盤を溶接する音が一瞬止んで、再び鳴りだす。ウスマンの背中が僅かに震えたように見えた。「沈みゆく船の中で何もせずにただ死を待つようなものだろ。俺はな、エド、———進んでいる道の先に地獄しかないのなら、どんな犠牲を払ってでも別の道を切り拓きたいんだ」


「千年間、誰も新しい道をつくろうとしなかったと思うか」


「まさか」ウスマンは肩を揺らしながら答えた。「今までにも俺と同じような奴は沢山いたんだろうな。そして、彼らは一人残らず夢半ばで死んだんだろう」


「あんたも同じ運命を辿るとは思わないのか」


「仮に俺が志半ばで倒れる運命だったとして、それは俺が足を止める理由にはならないさ。足を止めた瞬間、俺達はこの残酷な砂漠の底に引きずり込まれてしまう。俺たちが今歩んでいる道は、死んでいった沢山の人々が必死で踏み固めた道なんだ。数えきれないほどの”生きたい”という切望が、俺達を生かしている。彼らが少しでもより良い世界を望んだから、俺達は生きながらえてる。だから、ここで足を止めるわけにはいかない。後に続く誰かがもっと先に進めるように、俺は道を創り続ける」ウスマンは椅子を回転させて俺の方を向いた。そして俺の目を見て言う。「泥臭くもがかなければ、明日は来ない」

 

最後の言葉がねばついた黒いオイルのように耳の奥に纏わり付いた。手足に鳥肌が立ち僅かな空気の動きが手に取るように全身に伝わる。理屈ではない。今日一日くらいなら、この男が語る雲を掴むような夢の片棒を担いでやってもいい———そんな奇妙な誘惑が、俺の胸中に芽生えていた。


ウスマンの口元は苦虫を噛み潰したように口角の下がっていた。彼がゆっくりと腰を上げると、再び丸椅子のキャスターが沈黙を切り裂く悲鳴を上げた。右手に俺の義手を握って、こちらに歩きながら言う。


「修理は済んだ。着けて確認してみるんだ。前よりずっと良くなっているはずだ」


目前に立つウスマンは、まさしく巨人だ。彼が呼吸するたび、空気が揺れる。岩のように角ばった右手が前に出て、義手が俺に差し出された。


俺は彼の目を一瞬見て、おもむろに義手を受け取った。相変わらず義手は重かった。そのことに少しがっかりしている自分がいた。俺は左腕の切断部に取り付けられた剥き出しの接合部に、修理された義手を差し込んだ。左肩が大地に落ちそうになるのを食い止める俺。


少しずつ指を開け閉めする。———良い。


慎重に手首を回転させる。———良い。


空を切るように肘を曲げ伸ばしする。———良い。


試験結果は驚くほど良好だった。さっきまでの義手と同じとは思えないほど、動作信号の伝達速度は跳ね上がっている。まるで生身の腕のようにしなやかに動く関節。


微かに聴こえていた金属同士が削り合っているような耳障りな音も消えている。

俺は何度も義手を動かして確かめた。


「ご満悦かな」とウスマンが言う。


———素晴らしい


その一言を飲み込み、俺はウスマンの顔を見上げた。彼の口元を見ると、少しだけ口角が上がっていた。なんだか小さな子供の成長を見守るような視線。俺は居心地の悪さに義手を下げ、小さく頷いてから「———ああ」とだけ答えた。


ウスマンは満足げに鼻を鳴らすと、背を向けて棚の方へと歩き出した。一歩踏み出すたびに、年季の入った床板が悲鳴を上げて軋む。

 

彼が棚から取り出したのは、古びたロール紙だった。


不規則に点滅する裸電球の下、作業台にその地図が広げられる。無数のメモと書き込みが、消えない傷跡のように貼り付けられた広大な地図。ウスマンは巻き癖のついた端を大きな手で押さえつけ、低く言った。


「それじゃあ、本題に入るぞ———」






この航海についての詳しい説明。それがウスマンの長い話の正体だった。まだ信用されていない。そういうことだ。


こんな砂漠のど真ん中で作戦を伝えられても、バジールに密告できやしない。


俺はウスマンの私室を後にして、重い溜息を一つ吐き出した。

廊下を抜け、再び甲板へ出ると、そこには先ほどよりもさらに研ぎ澄まされた視線の棘が待っていた。スカベンジャーたちが一斉に手を止め、低く、ねばつくような噂話を波紋のように広げていく。


どうやら、自分の背は自分で守るしかないみたいだ。


———気楽で良いさ


喉の奥でそう呟いた。仲間を作るためにここへ来たんじゃない。俺は任務を全うして、家へ帰る。


俺はマスクの紐をきつく締め直した。


「休むな、手を動かせ!」太く、鋭い号令が停滞した甲板の空気を一気に切り裂いた。

 

その声を合図に、甲板の夢追い人たちが一斉に散らばってゆく。


その直後、視界の端から何かが猛烈な速度で肉薄してきた。

空気を切り裂く鋭い風切り音。弧を描いて飛来した影は、俺の鼻先を掠めるような勢いで、軋む甲板へと軽やかに舞い降りた。


マストから伸びた一本のロープを握り、振り子のように現れたのは、頭に鮮やかな赤いバンダナを巻いた狐顔の男だった。


そして間髪開けずに「大注目だな、期待の新人君」と言い放ち、着地の衝撃を消す間もなく、男は間合いを詰めてきた。眉間にしわを寄せる俺の表情などお構いなしに、彼は俺の右手を手繰り寄せ、勝手に固い握手を交わす。


「私の名前はルカ」意気揚々と彼は言った。「この船の甲板長だ、よろしく頼む。君の名前はエドだったね。困ったことがあったら何でも言ってくれ、私が全力サポートする。それと、ウスマンに認められた君は、もう私たちの立派な仲間だ。君が汗水垂らして働く姿を見れば、みんなきっと心を開いてくれる。焦らずコツコツやっていこう。そうだ!ここへ来たk———」


「ちょっと待て」俺はたまらず口を挟んだ。「手を離せ、握手はもう済んだだろ」


ルカは驚いたように眉を跳ね上げると、弾かれたように俺の右手を解放した。

「おっと、すまない!」彼は悪びれる様子もなく、指先で鼻の頭を掻きながら笑った。「私の悪い癖だ。熱くなると、つい距離感を測り間違えてしまう。悪く思わないでくれ」


彼の言葉に、俺は溜息で返した。


「さあ、話の続きだ」ルカは再び満面の笑みを浮かべて話し出す。「この船に乗っているからには、きちんと働いてもらわないといけない。そうだろ」


「ああ、俺は何をすればいい。モップ掛けでもして、この鼻に付く汗の臭いを取ってやろうか」


「ははは! それは非常に助かる提案だ。だが、今はもっと楽しいことをしようじゃないか」と胡散臭く腕を広げながら言うルカ。


「———何でもいい。さっさと仕事を教えてくれ」


「その意気だ、期待の新人君!」ルカは大きく高い音を立てて一度だけ手を叩いた。そして誇らしげに胸を張り、軽やかな足取りで歩き出す。「見てみたまえ、エド君。舞い散る砂がこんなに輝いている」


砂上船が唸りを上げて砂漠を切り裂くたび、巻き上げられた微細な粒子が猛烈な勢いで甲板を包み込んでいく。昇り詰めた太陽の光を反射し、ガラスを含んだ砂が宝石のように眩い輝きを放つ。


ルカの声が砂のざわめきを越えて届く。「星降りの砂漠の中心地が近づいて来ている。そろそろ西に向けて舵を切らなきゃならない時間だ」


「なかなか楽しそうだな」俺は呟いた。


ルカは大きく笑った。「エド君、君は帆を操った経験はあるかい」


「二人乗りの小さな船でなら」


ルカは砂の嵐が吹き荒れる甲板の上を、まるで見えない風の道を歩く鳥のように、危なげなく進んでいく。


「結構! ———持ち場へ案内する。迷わずに付いて来たまえ!」


軽快な足取りで進んで行くルカを、俺は重い義手を振りながら追いかけた。


天を突くようなメインマストの下でルカが唐突に足を止める。


「ここで待て」

 

彼はそのまま、さらに前方へと駆け出しながら、肺のすべてを絞り出すような声で吠えた。


「取り舵用意!」号令。刹那、甲板の静寂が爆発した。


大勢の甲板員たちが走り出す。ウスマン一派のほぼ全員が集まったように思えた。主帆を制御する極太のメインシートが、瞬く間に屈強な男たちの腕によって取り囲まれた。強烈な追い風を受け、マストがミシミシと悲鳴を上げる。誰もが、祈るような、それでいて真剣な眼差しで、頭上の巨布を見上げていた。


男たちが一斉にロープを掴む。俺もその列に割り込み、両手でがっちりとそれを食い止めた。


ルカが後甲板の壇上に駆け上がり、再び叫ぶ。「総員、メインシート引け!」


怒号と、喉の奥から漏れる野太い喘鳴が甲板を覆い尽くした。ぎんと、鉄の弦のようにロープが張り詰める。一歩、また一歩。全員が呼吸を一つに合わせ、体重を乗せてロープを引き込んでいく。滑車が耐えきれず、金切り声を上げた。

 

指がへし折れるかと思うほどの負荷が右手に食い込む。

巨大な朱色の帆が、船体の中央へ向かってゆっくりと、だが確実に動き出す。膨らんでいた布から風が逃げ、一瞬、船全体を包んでいた爆音の風切り音がふっと弱まった。


「センターへ寄せろ!」ルカの号令が飛ぶ。


帆の弛みを限界まで引き絞る。中央に固定された帆が、逃げ場を失った風を孕んで激しく震え、その振動が足首を通って全身に伝わってきた。男たちの荒い息遣い。ひりひりと焼けるような右手の痛み。


「取り舵一杯!」


舵が切られた瞬間、巨大な船体が、見えない巨人の手に押されたように大きく左へ傾いた。

全員がロープにしがみつき、奈落へ落ちる重力に抗う。砂上船は砂の海を深く抉りながら、巨大な弧を描いて旋回を始めた。


船が風を跨ぐ。


帆にかかる風圧が右舷から左舷へと叩きつけられるように反転し、ブレードが巻き上げた砂が、暴風となって視界を真っ白に塗り潰した。


「踏ん張れ! 飛ばされるな!」誰かの叫び声。


俺は奥歯が砕けるほどに噛み締め、周囲に目をやった。

 

星降りの砂漠が放つ、光り輝く砂の粒子が世界を覆い尽くしている。防塵マスクを力任せに剥ぎ取ろうとするような猛烈な砂の飛沫。それは、幼い頃にどこかのダンジョンで見つけたスノードームの中に入り込んだような、幻想的で、どこか懐かしい情景だった。


だが、感傷に浸る時間は一秒も与えられない。空間をちぎるような、低い地鳴りが鼓膜を叩いた。


「頭を下げろ!」背後にいた男が、俺の後頭部を強引に押し下げた。


次の瞬間、強烈な風切り音とともに、巨大なブームが弧を描いて中央から右舷へと高速でスイングした。頭上を掠めていく圧倒的な質量。

 

腰を抜かしそうになる俺を尻目に、甲板員たちは即座に次のロープを引き始めた。暴れる帆を絶妙なタイミングと力加減で抑え込む彼ら姿は、まさに真剣そのものだった。


どうやら俺は、こいつらを見くびっていた。


旋回が終わり、砂上船は再び真っ直ぐに立ち上がった。砂の霧が引き、帆が新しい風をいっぱいに受けて、パンッ、と乾いた音を立てて膨らむ。


「固めろ!」ルカの最後の号令。


俺は立ち上がり、再びロープへと食らいついた。右手のひらから滲み出す血がロープを赤く汚したが、そんなことはどうでもよかった。

 

周囲の熱気に当てられるように、俺はみんなと息を合わせ、全身全霊でその命綱を引き抜いた。


ピンにロープを力強く巻き付ける。

その瞬間、俺たちの仕事は終わった。


甲板を支配していた張り詰めた緊張が、音を立てて崩れ去った。

男たちは糸の切れた人形のように次々と床へ腰を下ろし、あるいは大の字に寝転んで、荒い息を吐き出す。俺だけが、その喧騒の真ん中に一本の杭のように立ち尽くしていた。


遮るもののなくなった視界が、どんどんと開けていく。

見上げれば、先ほどまでの狂乱が嘘のように、巨大な朱色の帆が誇らしげに風を孕み、静かな弧を描いて天を指していた。

 

俺は皮の剥けた右手をそっと握りしめた。滲む血の熱さが、自分が今ここに生きていることを確かに告げている。床に転がる男たちの脚を避け、彼らの放つ獣じみた体臭と安堵の笑い声を背に受けながら、俺はゆっくりと、吸い寄せられるように船首へと歩を進めた。


誰も俺を咎めない。誰も俺を注視しない。

胸の中が、不思議なほど穏やかだった。


船首に吹き付ける風は強烈だった。

砂を孕んだその風の向こう、西の果てに、長大な山脈地帯が見えた。

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