EP.5 赤い太陽
「調子はどうだ」
眉間に深い溝を刻んだダンカンの声が、冷えた倉庫の空気を震わせた。天井から吊るされた裸電球が、電圧の不安定さに喘ぐようにチカチカと瞬いている。
俺は新たに繋がれた鉄の塊を、何度も閉じ、そして開いた。
三本の太い指を動かすたび、肘の奥からギチリと不快な金属の摩擦音が響く。前の義手にあった、あの神経が末端まで融け合うような一体感はどこにもない。
「———ああ。いい具合だ。これにする」
前のものより、明らかに重い。重心が左側に偏り、思考から駆動までの間に僅かなラグが生じている。だが、床に転がった数多のブリキの腕———ただ掴むことすら危ういゴミの山———に比べれば、これがこの拠点における最高級のスペックであることは明白だった。
俺は唾を飲み込み、その不自然な重みごと、自分の身体として強制的に認識させた。
ダンカンの表情がわずかに緩む。彼は床に散らばった無残なスペアパーツを足で退け、手近な木箱を蹴り開けた。
「それじゃあ、次は装備の確認だ。ちゃっちゃと行くぞ」
箱の中から、鈍い光を放つ弾倉と、砂にまみれた水筒が取り出される。
倉庫の隅では、まだ夜の暗闇が濃く澱んでいた。窓の外からは、出発を待つキャメゴンの低い唸り声と、砂上船にぶつかる砂の音が聞こえてくる。
俺は支給されたナイフの刃を親指でなぞり、その冷たさを確かめた。この不自由な左腕で、明日の太陽を見るために。俺は一歩、闇の奥へと足を踏み入れた。
木箱の中の装備品の山を、両手でかき分ける。
俺は古い記憶を叩き起こし、今の自分に必要なものだけを選別した。周囲のスカベンジャーに悟られぬよう、その動作はどこまでも自然に、かつ迅速に。
幸い、旅に必要な基本装備はリュックの中に揃っていた。俺は箱の中から、まだ弾力のある新しいロープと、月の光さえ吸い込みそうな鋭いナイフ、そして掌に収まるほどの少量の爆薬を抜き出し、音もなく木箱を閉じた。
「それだけでいいのか」
ダンカンが片眉を上げ、俺の軽装を訝しげに見つめる。彼の腰には、これでもかというほど多種多様な工具や弾帯がぶら下がっていた。
「たくさん持って行っても、あとで邪魔になるだけだ」
ナイフを胸元のシースに収め、ロープと爆薬を腰のベルトへ固定する。ピッケルの冷たい感触と、凝固水カプセルの入った小瓶を身に纏うたび、俺の身体は徐々にスカベンジャーへと組み上がっていく。
最後に、ずっしりと重い旧式の銃を背負った。鋼鉄の冷たさがローブ越しに背中に伝わり、微かな緊張が走る。
俺は立ち上がり、重心のバランスを確かめるように一歩踏み出した。
重い義手のせいで、左側の踏み込みが僅かに深くなる。俺は何度もその「鉄の左手」を握り込み、指先のラグを脳内で補正した。
不完全な身体。
だが、今の俺にはそれが相応しかった。俺は暗闇の中で一度だけ深く息を吐き、出発の合図を待った。
「準備ができた奴から外に出ろ」
倉庫のトタン壁を突き抜けて、喉を潰したような野太い号令が響き渡る。それを合図に、静まり返っていたスカベンジャーたちが、一斉に獣のように動き出した。
「エド、俺たちも行くぞ」
ダンカンが重い腰を上げると、全身に纏った金属製の装備がカチカチと硬質な音を立てて共鳴した。彼は一度、俺の肩を無言で叩き、闇の広がる出口へと歩き出した。
俺はフードを深く被り、境界線を引くように視界を狭める。
一度だけ深く、肺の奥まで夜の冷気を吸い込んだ。乾燥した空気が喉を焼く。
一歩、外へ。
そこには、夜の闇が支配する世界が広がっていた。体の熱を、容赦のない夜気が一瞬で奪い去り、針のような冷気が剥き出しの頬を刺す。俺は凍てついた大地を力強く踏みしめて前へ進んだ。
倉庫前の広場には、一頭の巨大な影が、地鳴りのような呼吸を繰り返しながら佇んでいた。
タッキーだ。その巨躯には、鈍い銀光を放つ剥き出しの装甲板が幾枚も打ち付けられ、兵器としての顔を見せていた。
ダンカンの太い腕ほどもある巨大な牙が、月光を浴びて白く、鋭利な刃物のように発光している。
ダンカンは迷いなくその怪物に近づくと、その巨頭を両手で力強く抱擁した。
「———行くぞ、相棒」
低く、しかし確かな信頼の籠もった声。頑丈な皮製の手綱を握り直し、彼は重い足取りで再び歩き出した。
俺は、彼らから意図的に距離を置いた。
恨みがあるわけではない。ただ、不確定な要素を隣に置くほど、俺は楽天家ではなかった。
砂を噛むような蹄の音。装甲板が擦れ合う金属音。それらが混ざり合い、夜の静寂をゆっくりと塗り潰していく。俺はローブの下で代わりの腕を静かに握り締め、暗闇の先を見据えた。
喧騒は、突如として骨の芯を揺らす重低音に塗り潰された。
臓器の裏側に直接響くような地響き。その震源地である闇の向こうから、一つの巨大な船が姿を現した。
砂上船だ。
それは、圧倒的な鉄の質量だった。幾層にも継ぎ接ぎされた装甲板は、長年の砂嵐に晒されて黒ずみ、鈍い光を跳ね返している。
船底に備えられた二枚の巨大なブレードは、静止している今でさえ、砂漠という海を切り裂くための冷酷な牙に見えた。その上には、天を衝くような無数のマストが林立している。
俺は首が痛くなるほど仰ぎ見たが、砂上船の頂点は夜の深淵に溶け込み、視界に収めることすら叶わなかった。
足元の砂が、船のアイドリングに合わせて細かく、激しく震えていた。俺は、この「動く要塞」へと続く渡り板を見据えた。
「たいそうな船だな」仰ぎ見たまま、俺は独り言のように呟いた。
「コイツはな、この砂漠で三本の指に入る砂上船だ」ダンカンは足を止めず、胸を張って言った。「ウスマン一派の誇りであり、魂そのもの。コイツがいなけりゃ、俺たちは砂を噛んで死ぬしかない」
タッキーが、船体から突き出された厚い渡り板に最初の一歩を乗せた。
その瞬間、鋼鉄と木材が悲鳴を上げ、まるで断末魔のような鋭い軋みが闇に響き渡った。太い足が踏み下ろされるたび、地震のような衝撃が板を伝わり、俺のブーツの底を突き抜けてくる。
周囲の屈強なスカベンジャーたちが、一様に顔を強張らせ、固唾を呑んでその巨躯を見守っていた。彼らにとってタッキーは、単なる家畜ではなく、いつ自分たちを押し潰すか分からない怪物なのかもしれない。
搬入口の天井は高く設計されていたが、それでもタッキーにとっては窮屈すぎた。
頭を低く下げた怪物の角が、鉄製のフレームに「ギ、ギギ……」と不快な音を立てて擦れる。火花が散り、剥がれた塗装の粉が夜風に舞った。
俺はその様子を冷ややかに見つめながら、タッキーの後に続いて船の中に入った。
船内からは、汗臭さと、行き場を失った熱気が溢れ出している。
良い空気ではないけれど、街を漂う死臭に比べれば、幾分もマシだった。
かつてサウルと二人、砂にまみれて過ごしたあの小さな砂上船とは、何もかもが違いすぎた。
あそこには手の届く範囲にすべてがあった。だが、ここはあまりに広大だ。積み上げられた荷箱の影、配管の軋み。
得体の知れない巨大な機構の中に迷い込んだような心細さが、俺の胸の奥を静かに侵食していく。
その時、頭上の荷箱から一つの影がしなやかに飛び降りてきた。
不意に広がる、夜の空気とは異なる甘い香り。
銀色の髪が優雅に弧を描き、視界の端を鮮やかに掠める。着地の衝撃を逃がすように膝を曲げ、真っ直ぐに立ち上がったのは、アナだった。
「遅かったじゃない。新入りがヘマでもしたのかしら」
彼女の翡翠色の瞳が、品定めをするような冷たい光を湛えて俺を射抜く。
「いいや、そうじゃない」ダンカンは首を振り、無骨な手で自分の頭を掻いた。「代わりになる義手を探すのに手間取ったんだ。急ごしらえのジャンクだからな、後できちんと整備しておかないと、使い物にならん」
「そのボロい腕が、本当にジョーの代わりになるのかしら」
彼女の視線が、俺の左腕の継ぎ接ぎだらけの鉄に落ちる。
「———アナ」ダンカンが、飼い猫のいたずらを嗜めるような、低く、どこか父親めいた声音を出した。「俺はタッキーを固定しに行く。お前がエドを案内してやれ。いいか、あまり新入りをイジメるんじゃないぞ」ダンカンの大きな掌が、俺の背中を無造作に叩いた。「エド、お前も少しは言い返せ。ウスマンにしたようにな」
ダンカンは豪快に笑うと、タッキーの手綱を引き、巨大な影と共に船の深部へと消えていった。
残された空間には、獣の匂いと、彼女の残した微かな香りが混ざり合っていた。
アナは怪訝そうに眉を寄せ、俺を一度だけ一瞥する。
「———こっち。付いて来て」
彼女の言葉は短く、拒絶に近い響きを持っていた。
俺は何も答えず、揺れる銀色の髪を追って、鉄の通路へと足を踏み出した。
アナと俺の間には、時が止まったような、重くて冷たい空気が漂っていた。
鉄格子の床を叩く彼女の靴音は、ひどく急わしない。まるで背後に纏わりつく俺という存在を、力尽くで振り払おうとしているかのようだった。
迷路のように入り組んだ配管の隙間を、彼女は一切の迷いなく突き進む。この先に何があるのか。俺は喉の奥に張り付いた乾燥した空気を、言葉に変えて吐き出した。
「なあ、どこへ行くんだ」
「———私の特等席」彼女は足を止めず、喉のつかえを無理やり吐き捨てるような、硬い声で答えた。「本当はアンタなんか連れて行きたくない。けど、独りにしてヘマをされたらダンカンがうるさいから。———全く、迷惑だわ」
「特等席。———そこは、どんな場所なんだ」
「うるさい。黙って付いて来なさいよ」アナは強く言い放ち、さらに歩調を速めた。銀色の髪が、薄暗い通路の影を切り裂いて揺れる。「聞いたわよ。アンタ昨日、みんなの前で大口を叩いたんでしょ。『あんたたちが失った三人分の代わりを、俺一人でやってやる』って。———ウスマンが可笑しそうに話していたわ」
「ああ」逃げるように進む彼女の背中を、俺は重くなった左腕の重心を御しながら必死で追った。「事実を言ったまでだ」
その瞬間、微かな、しかし酷く冷ややかな溜息が、エンジンの排熱に混じって聞こえた気がした。
「私、アンタのことなんて欠片も信用してないから。精々、足だけは引っ張らないでよね」
彼女の翡翠色の瞳は、一度もこちらを振り返ることはなかった。
俺は何も答えず、ただ彼女が残した甘い香りと、冷たい警告を飲み込んだ。鉄の壁を伝う震動が、次第に大きくなっていく。出航の鼓動が、すぐそこまで迫っていた。
彼女が刻んだ足跡をなぞるように、俺は垂直に伸びる梯子に取り付いた。
一段登るたび、左肩に鉄の塊の重みがずっしりと食い込む。前の義手なら羽のように軽やかだったはずの動作が、今は岩を背負っているかのように重苦しい。
梯子の天辺から顔を覗かせると、そこには夜の静寂を切り裂くような喧騒が渦巻いていた。
砂上船の甲板。
這い出た俺の視界に飛び込んできたのは、出航を急ぐスカベンジャーたちの荒々しい怒号と、激しく交錯する松明の火光だった。
船の中心。天を衝くように聳え立つ、一際巨大なマストがあった。
その中空、銀色の髪を夜風にたなびかせながら、アナが軽やかに梯子を登っていくのが見えた。彼女にとってそこは、慣れ親しんだ自分の庭のようなものなのだろう。
俺は迷いを捨て、彼女の背中を追ってマストの梯子に手をかけた。
ギチリと、義手の関節が不吉な音を立てる。不規則な振動がマストの芯から伝わり、俺の指先を痺れさせた。下を見れば、スカベンジャーたちの姿は次第に小さくなり、巨大な船体の輪郭だけが闇の中に浮かび上がっていく。
吹き付ける夜風は一段と冷たさを増し、俺のローブを激しく叩いた。
重心の狂った身体を、握力で強引に引き上げる。アナとの距離は縮まらない。だが、俺は一度も足を止めることなく、鉄の背骨を一段ずつ、確実に踏みしめていった。
風の音だけが支配する世界。アナの特等席は、天空に浮かぶ孤島のようだった。
狭い見張り台の隅に、彼女は膝を抱えて座っていた。
月光を反射する翡翠の瞳は、どこか遠く、地平線の向こう、闇の深淵を見つめている。単純に敵の姿を探しているのか、それとも全く別の何かを見つけようとしているのか、俺には分からなかった。
俺は不慣れな左腕を支柱に引っかけ、無作法に見張り台へと這い上がった。彼女の隣に腰を下ろすと、古い金属の軋みが夜風に紛れて消えていく。
「途中で落っこちてくれれば良かったのに」アナが唇を動かさずに呟いた。その声は、鋭利な氷の破片となって俺の耳を掠めた。
凍てつく風が、ローブを貫通して肌を刺す。それほどまでに、寒かった。
とてもじゃないが目を開けられない。俺はたまらずゴーグルを深く掛けた。
その時、船の方から耳をつんざくような共鳴音が突き抜けてきた。
巨大なエンジンの心音。それに呼応するように、マスト全体が、そしてこの見張り台が激しく震え始めた。前後左右、予測不能な弧を描いて揺らめく見張り台。
砂上船が、ついにその重い腰を上げたのを、俺は全身で感じた。
ブレードが砂を切り裂き、巨体が闇を押し退けて進み始める。俺は支柱を右手で強く握り込み、震える世界の中でゆっくりと目を開いた。
壮大な砂漠の向こう側。地平線の彼方から、赤く燃え上がる太陽が、顔を覗かせていた。
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