EP.4 代わり
全身がひりついて熱を帯びていた。
無数の指先に掴まれた痕が、内側から焼けるように疼く。俺は床に無造作に落ちたローブを拾い上げた。砂の混じったリネンの重みを確認し、それを再び深く身にまとった。
布一枚の厚みが、刺さるような視線から俺を遮断してくれた。俺は乱れた呼吸を殺し、前を歩くダンカンの背中を追って集会場をあとにした。
一歩外へ出ると、夜の冷気が容赦なく肌を刺した。
さっきまでの熱気が嘘のように、拠点の空気は冷え切っている。前を行くダンカンの足音は、重く、規則正しかった。ひび割れた大地を力強く踏み砕くその音は、彼という人間をそのまま物語っているようだ。
俺は一歩後ろに付きながら、暗闇に馴染んだ目で周囲を走査した。
鉄骨の影。潜んでいるスカベンジャーの気配。逃走経路の確認。
サウルがいれば、幾分も楽な作業。だが、今は視界のすべてを一人で処理しなければならない。脳がわずかに過熱するのを感じながら、俺は「エド」という仮面を、より深く、冷たく、顔に張り付かせた。
ダンカンの足が、表に馬房を構えた粗末な小屋の前で止まった。
闇の中で、巨大な影が蠢いている。有刺鉄線の向こう、重戦車一台分ほどもある毛むくじゃらの塊。この砂漠で最も重宝され、最も恐れられる運搬獣———キャメゴンだ。
ダンカンはその怪物の頭に太い腕を回し、慈しむように撫でた。
「よしよし、ちゃんと良い子にしてたか、タッキー」
タッキーと呼ばれたその獣は、喉の奥から地鳴りのような音を響かせ、ダンカンの腕に巨大な顔を擦り付けた。鎧のように硬かったダンカンの表情が、わずかに弛緩する。その変化を、俺は暗闇の中で冷淡に見守った。
ダンカンは足元のブロック状の餌を、柵の中へ無造作に放り投げた。
「タッキーは俺たちの大事な家族だ。ちゃんと挨拶しておけ、エド」
促されるまま、俺は一歩、柵へと近づいた。
大きい。通常の個体とは比較にならない圧倒的な質量。
獣が息を吐くたびに、足元の砂が小刻みに震え、震動がブーツの底を突き抜けてくる。身体を覆う分厚い体毛は、暗褐色の波となって不気味に揺れていた。
俺は最短距離で腕を伸ばした。相手が獣だろうと人間だろうと関係ない。この場所で生き延びるための許可証を得る。ただ、それだけのことだ。
指先が、その巨大な顔面に触れようとした瞬間———。
「気をつけろ」ダンカンの声が、温度を失った。「タッキーはシャイだ。———見知らぬ人間に触られるのを、何よりも嫌う」
タッキーの鼻孔が膨らみ、柵の鎖が小さく鳴った。
刹那、キャメゴンの瞳が暗闇の中で鋭く光り、俺の伸ばした左腕へとその巨大な顎が迫った。
俺は左腕を下げながら、右手で素早く腰に下げた剣の柄を握り、剣を引き抜こうとした。
僅かな間。極端に狭窄していく視界。網膜に焼き付く、剥き出しの牙。
抜剣が先か、噛み砕かれるのが先か。勝率は五分。全身の毛穴が収縮し、思考から一切の雑音が消える。
上下の牙が火花を散らすほどの勢いで衝突し、岩石がぶつかり合うような硬い衝撃音が響いた。獣臭い、熱を帯びた息が全身を震わせ、飛び散った唾液が服の生地を汚す。
タッキーは濁った視線をこちらに固定したまま、咀嚼するような音を立てて馬房の闇へと沈んでいった。
視線を落とすと、左腕の肘から先が消失していた。
浅く、一度だけ呼吸を吐き、半分引き抜いた剣を無機質な金属音とともに鞘へ戻した。
「エドっ、大丈夫か」背後からダンカンの焦燥を含んだ声が飛ぶ。彼は俺の肩を掴もうとして、その動きを凍りつかせた。
俺は切断面を見ても、呼吸が乱れなかった。乱れる理由を、身体が忘れていた。
左腕の切断面から流れる黒い潤滑液。粘りつく潤滑油が、重く、泥のように滴り、乾いた地面に消えない汚点を広げていく。血ではない。冷えた廃液が、地面を汚していた。
引きちぎられた義手の断面から火花が散り、肉が焼けるのとは違う、電子基板の焦げる不快な臭いが鼻を突く。俺は残った右手で剥き出しの配線を引きちぎり、漏れ出す油を止めるために袖を縛った。
痛みはない。痛みを感じるための神経は、ずっと昔に無くしてしまった。
「義手だったのか」ダンカンは大きく息を吐き、安堵の色を浮かべた。命を奪い合う世界にいても、彼はまだ”生身の損壊”に忌避感を抱く程度の人間味を残しているらしい。「———悪いなエド、注意が遅くなっちまった。怪我はないか」
「ああ、問題ない」俺は袖の結び目を歯で引き絞り、短く切り捨てた。出血がなければ、それは怪我ではなくただの故障だ。
タッキーの房からは、咀嚼の音さえ消えていた。
ダンカンは俺の肩越しに、断面から黒い油が滴る左腕を覗き込んだ。その口調は、静かな湖面に石を投じるような、控えめなものに変わっていた。
「そんなの、初めて見た。その義手、まるで本物の腕みたいだ。ダンジョンで拾ったのか」
俺は切断された左腕を隠すように下げて、小さく返した。「そんなところだ」
ダンカンは少し間をおいてから言う。「本当にすまなかった。———代わりになるか分からないが、義手ならいくつも予備がある。なんでも好きなのを使ってくれ。話は俺が通しておく」
返事をする代わり、浅く首を折った。
ダンカンが一息ついて言う。「ここが新しい家だ。遠慮なく入ってくれ」
廃材を繋ぎ合わせた歪な扉をダンカンが押し開く。
俺は左腕をローブの中にしまい、小屋の中へと入った。
玄関に入ってすぐのところに積み重なった古びた本がまず目に付く。玄関だけじゃない。見ると、足元から棚の隙間から果ては机の端に至るまで、いたるところに本が積み重なっていて、長い年月を閉じ込めた乾いた埃と古紙の匂いが、たしかにそこにあった。
辺りを見回していると、視線を動かした先に、椅子に深く腰掛けた人影があった。
椅子に腰かけて両足を机に乗せて、膝の上で本を開く女。
年齢は俺と同じか、少し上くらいだろうか。
彼女の髪は、月明かりを吸った銀糸みたいな色をしていた。肩に少しかかる程度に切り揃えられたその髪が、扉を開けたときの微かな風で静かに揺れた。
「誰、アンタ。———読書の邪魔だから、早く出て行って」
無機質な声だった。視線がこちらに向けられたのは、一瞬に過ぎない。彼女にとって俺は、物語の行間に入り込んだ不快な羽虫程度の存在らしい。彼女はすぐに興味を失い、再び紙の束へと意識を沈めた。
「例の新入りだ。名前はエドっていう」ダンカンが俺の背中を、遠慮のない力で叩いた。噛み千切られた左腕の付け根に衝撃が響き、配線の端が微かに鳴いた。「しばらくここで俺たちと過ごすことになった。そういうわけだから、よろしくな」
静かな空間に、ダンカンの声だけがよく響いていた。
ダンカンはふっと息を吐き、隣の部屋を親指で指さしながら言う。
「今夜はここ使え。文句があるなら明日聞く」彼は床に乱雑に置かれた本やら箱やらをどけ始めた。長い間動かされることのなかった紙の山が崩れるたび、重く乾いた埃が月明かりの下で白く舞い上がる。「このソファなんかだいぶ古いが、埃を払えば丁度いい寝床になるだろ。明日は大事な任務だから、寝れなくても無理やり寝ておけよ。アナっ、———お前も早く寝ろ」
———アナ。さっきの女の名前。覚えておこう。
俺は部屋を整えてくれた大男に短く礼を告げ、ひび割れたソファに身を沈めた。
年月を吸って硬化した革が、俺の重みを受けて細い悲鳴を上げる。その無数の亀裂は、まるで枯れ果てた大地のひび割れをそのまま写し取ったかのようだった。ソファが軋む音だけが、この死んだような部屋に俺が生きていることを証明していた。
ローブを深く被り、境界線を引くように視界を遮断する。
肘から先を失った左腕を、残った右手でそっと抱え込んだ。切断面の熱はすでに引き、今はただ、そこに何もないという冷ややかな欠落だけが居座っていた。
俺は暗闇の中で瞳を閉じた。
古紙が分解されていく微かな甘い匂いと、隣室から漏れるページを捲る規則正しい音。サウルと過ごした夜の騒がしさとは対極にあるその静寂が、今の俺にはひどく不自然で、そして、残酷なほど穏やかだった。
昼過ぎまで寝ていた代償か、あるいはひび割れたソファが強いる歪な姿勢のせいか。どれだけの時間が経過しても、意識の混濁は訪れなかった。
静寂を埋めるように、瞼の裏ではとめどない思考がページを捲り続けている。とりとめのない記憶の断片が頭の静けさを掻き消し、熱を帯びた脳を冷ますことを許さない。
ふと、時計の秒針の刻む音が、物理的な質量を持って鼓膜を叩き始めた。
意識を研ぎ澄ませると、隣室から微かに漏れていた紙が擦れる音が途絶えていることに気づく。アナが本を閉じたのか、あるいは眠りに落ちたのか。目を瞑ってからどれほどの時間が過ぎたのか、もはや俺には分からなかった。
一向に凪ぐことのない自分の頭に苛立ちを覚え、俺は何の脈略もなく、ぶっきらぼうに身を起こした。肩から滑り落ちたローブが、音もなく床に落ちる。月明かりの下で、欠損した左腕の断面が剥き出しになった。俺はその醜い故障を隠すこともせず、吸い寄せられるように部屋の扉を開けた。
そこには相変わらず、圧倒的な量の本が、積み重なっていた。
アナやダンカンの姿はもうない。
幾千、幾万の言葉を閉じ込めた本の山。月光を浴びた背表紙の群れは、まるで古い墓石のように静まり返っている。こんなにも膨大な過去を、俺は一度も目にしたことがなかった。
これらを集めるのに、どれほどの執念が必要だったのだろう。
目の前で黄ばんだ表紙を晒している一冊は、どれほど過酷な砂の旅を経て、この場所へと辿り着いたのか。
本なんて一冊も読んだことはない。ただの記号の羅列に、興味を抱いたこともない。
けれど、その古びた紙束がまとう、長い年月を耐え抜いた重力に、俺の心は抗いがたく惹きつけられていた。
気づけば、俺の右手は、吸い込まれるようにその背表紙へと伸びていた。
指先が背表紙をなぞると、ザラついた砂の感触が指腹に伝わった。その下に眠っていた紙の白さが、古傷を剥いた跡のように鮮やかに剥き出しになる。
そっと息を吹きかけると、沈殿していた埃が一斉に舞い上がり、窓から差し込む月光を拾って、銀色の細かな燐光となって宙を漂った。俺は顔の前で輝く光の粒子を右手で払い、その本を棚から引き抜いた。
その本は、凝固した血を思わせる、赤黒い革の表紙をしていた。
そこには、俺の知らない言語が、何らかの規則性を持って執拗に刻まれている。俺はその文字の列をなぞるように、右から左へと視線を滑らせた。そして、慎重にゆっくりとページをめくった。
現れたのは、どこまでも続く、視界を埋め尽くす文字の海だった。
端から端までぎっしりと詰め込まれた、黒いインクの群れ。どれだけ指を動かし、ページをめくろうとも、目に飛び込んでくる景色に変化はない。
それは俺にとって、砂漠の砂粒を一つずつ数えさせられているような、果てしのない単調さと無機質な沈黙だった。
何を期待していたのか、自分でも分からない。俺は本を閉じ、棚へ戻そうとした。
「私の一番好きな本」不意に背後から声を掛けられたのは、その時だった。
本を戻そうとした右腕を、宙で止める。振り返った先、夜の空気の中に微かな甘い香りが漂った。そこに立っていたのは、アナだった。
彼女は指先で白銀の髪をすき、無造作に肩越しへと流した。月光を吸い込んだ翡翠色の瞳が、真っ向から俺の視線を射抜く。
「アンタには、面白くなかったの」彼女は小首を傾げながら俺に言った。
俺は手にしていた本を棚の奥へと押し込んだ。その拍子に再び古い砂埃が舞い、月明かりを反射して銀色の火花のように煌めく。俺は顔を振り、埃を払う動作のまま答えた。
「———文字は、読めないんだ」
「そっか。———アンタも、読めないんだ」
アナは独り言のように呟くと、整然と並んだ本の輪郭を愛しむように指先で撫でた。伏せられた長いまつ毛の影が、彼女の白い頬に淡い憂いを落とす。その横顔は、この荒廃した世界には存在しないはずの、完成された彫刻のようだった。
「どこで文字を習った」
俺の問いに、彼女は視線を戻さずに答えた。
「別に。気がついたら読めるようになっていただけ」そして、こちらに向き直り、俺の左腕を見据えた。「アンタは、いつから義手なの」
切断面から覗く、切れた配線がピクリと跳ねる。俺は彼女の瞳から視線を逸らし、冷え切った声で答えた。
「よく覚えていない。———ずっと前からだ」
身体を流れる血の音が、鼓膜の裏で鳴り響くほどの静寂。
「あっそ」溜息を吐くような、無関心な返事。「じゃあ私、もう寝るから。あまり本に触らないで」
アナは再び髪を掻き上げると、背中を向け、寝室へと消えていった。
一人残された暗闇の中。俺はミミズのように無様にうごめく義手の配線を見つめ、それを残った右手で力任せに引き千切った。
指先に走った鈍い静電気を無視して、俺はひび割れたソファへと戻り、再び瞼を閉じた。
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