EP.3 その名を
都の北側は、吐き気がするほどの熱気に溢れていた。
頭上では、林立する継ぎはぎだらけの煙突が、黒い肺から吐き出されたような煤煙を空に撒き散らしている。焦げ臭い空気が、肺の奥まで侵食してくる。
「そこのお兄さん、私と遊んで行かない? 今なら水半分でいいわよ」
「あんちゃんスカベンジャーだろ、俺の店にいい武器があるぞ」
媚びるような女の声と、油ぎった商人の呼びかけが、重苦しい湿気となって俺にまとわりつく。俺はフードの端を掴み、誰とも視線を合わせず、ただ地面のひび割れだけを数えるように足早に通り過ぎた。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい! コイツは今日の大目玉、星降りの砂漠で発見された右腕用の義手だ! 駆動系も生きてる、水10杯で売ってやるよ!」
遺物を売りさばく怒号が、騒音の波となって押し寄せる。
しばらく歩くと、人の声よりも鉄の鳴き声が支配する区画に入った。
金属を切断する高周波、火花を散らす溶接の閃光、ハンマーが鉄板を叩き据える鈍い音。ホースの圧が抜ける「プシューッ」という音が、あちこちで呼吸のように繰り返されている。
道の両側に鎮座するのは、修理を待つ巨大な砂上船の群れだ。
油まみれの職人たちが、鉄の獣の腹に潜り込み、死にかけたエンジンに息を吹き込んでいる。耳を劈くような不協和音のはずなのに、不思議と俺の胸の奥のざわつきは静まっていった。
鉄を叩く音。熱せられた油の匂い。
取り止めのない思考を、機械の唸り声が強引に塗りつぶしてくれた。
整備場の熱気を背に、影が長く伸び始めた頃、ようやく周囲の喧騒が引き潮のように消えていった。夕日に焼かれた砂が、ガラスの破片のように赤く煌めいている。
視界の先に、その「骸」が現れた。
北西の拠点。そこは、砂漠に突き刺さった巨大なクジラの骨を思わせる、錆びた鉄骨の集合体だった。夕闇が迫り、急激に冷え込み始めた風が、有刺鉄線を揺らして細い悲鳴を上げさせている。
大げさな鉄門の前で足を止めると、すぐさま左右から「ジジッ」という不快な放電音が鼓膜を刺した。
マスクとゴーグルで顔を塗りつぶした門番が、二人がかりで電気槍を突き出してくる。先端で踊る青白い火花が、俺の視界を不規則に刻んだ。
「止まれ。———お前、何の用で来た」
門番の声は、フィルター越しにこもって聞こえた。彼の指は、迷いなく槍の起動ボタンに掛けられている。
俺は一瞬、自分の名前を失念したような錯覚に陥った。
喉の奥まで出かかった『ファーリス』という音を強引に飲み込む。それは石を飲み込むような、そんな感触だった。バジールに渡されたスカベンジャーの服。生地の中を通る細い管が、俺の肌を絶えず圧迫し、「お前はもう別人だ」と警告し続けている。
視線だけを、左側の門番に向けた。
「———名前は、エド」自分の声ではないような、低く、湿り気のない声が出た。「ウスマンに会い、仕事をもらいに来た」
門番はボタンに指を掛けたまま、空いている方の手で左耳の受信機を乱暴に叩いた。俺には聞き取れないほどの小さなノイズが、彼のマスクの中で数回弾ける。
「———ああ、例の『欠員補充』か」
門番が気だるげに槍を下げ、鼻を鳴らした。
「確認は取れた。だが、中では粗相をするなよ。———あいつらは今、ピリついてる」
門番が身を引き、錆びついた門が地響きを立てて開いた。俺は新しい「エド」という仮面が剥がれないよう顔を伏せ、鉄の獣の喉元へと足を踏み入れた。
門をくぐった先は、鉄と布が複雑に絡み合う巨大な内臓のようだった。地面から突き出た無数の鉄骨は、かつてこの地を支配していた文明の肋骨だろうか。それらを覆う、日焼けして色あせた大量の布。風が吹くたび、布の屋根は巨大な翼のように羽ばたき、繋ぎ目の鎖が悲鳴のような金属音を奏でている。
その歪な屋根の下に、この街の澱みを集めたような、大勢のスカベンジャーがひしめき合っていた。
使い古されたオイルの匂い、安タバコの煙、そして男たちの荒い呼吸。熱気の入り混じる雑踏の中で、俺の感覚は、ある一点の「音」に釘付けになった。
喧騒を圧して響く、低く、厚みのある声。
それはバジールの湿った声とは対極にある、乾いた焚き火のような響きだった。夜の砂漠の、骨まで凍る冷たさを静かに溶かしてしまうような。
群衆の視線が一点に集まり、人混みの隙間から、その声の主が姿を現した。
おざなりに伸びた黒い髪と、無造作な髭。大きく裂けた口が、快活に笑みをこぼしている。周りよりも頭一つ抜けた長身に、重機を思わせるほど広い肩。彼が言葉を発するたびに、周囲の空気がわずかに振動しているようにさえ見えた。
重いカバンのストラップが、俺の肩に食い込む。
俺の心臓は、いつもより少しだけ速いリズムを刻み始めていた。それは暗殺の緊張とは違う、もっと根源的な、巨大な重力に引き寄せられるような感覚。
俺は「エド」という慣れない名前を心の中で何度か唱え、ひび割れた大地を一歩、踏みしめた。
確信があった。
あの、太陽を背負って立つような男こそが、ウスマンだ。
俺は地面を強く踏みしめた。舞い上がった乾いた塵が、夜の予感を含んだ風にさらわれていく。迷いはなかった。迷うための自分を、俺はあの地下室に置いてきた。俺は真っすぐ、ウスマンという巨大な重力の方へと向かった。
風に煽られて波打つ布の屋根の下は、スカベンジャーたちの熱気と脂の匂いで充満していた。
汗臭く、油にまみれたごついスカベンジャーたちが壁のように立ち塞がる。俺は彼らの肩を、腰を、無理やり掻き分けた。誰かの服に俺のカバンの金具が絡まり、鋭い引き裂き音が響いたが、振り向きもしなかった。
「おい、お前、どこへ行く!」
「邪魔だ、どけっ!」
呼吸は次第に荒くなり、胸の奥で心臓が張り裂けそうなほど暴れている。
四方八方から投げつけられる罵声。突き刺さるような何十もの視線。だが、今の俺にとってそれは、砂漠を吹き抜ける無意味な砂嵐と同じだった。
群衆の中心。そこには、ガラクタを組み合わせて作ったような巨大な木製の机があった。
その対極に、ウスマンが腕を組んで立っていた。
近くで見れば、その男の「圧」はさらに増した。
髭に隠れていてもわかる岩石を切り出したような顎、深く刻まれた笑い皺。そして、すべてを見透かすような、燃えるような瞳。
俺が最前列へ躍り出た瞬間、真横にいた男が俺の肩を掴んだ。
「小僧、ここは並んで待つ場所じゃねえ。死にたいのか、後ろへ下がれ」
俺はその男の顔面を、手のひらで力強く突っぱねた。男がよろめき、周囲の空気が一瞬で氷結する。俺はウスマンの瞳から視線を外さず、喉の奥にこびりついていた「偽り」を、ありったけの声で吐き出した。
「俺の名はエド。———ウスマン、あんたに仕事をもらいに来た」
サウルはいない。俺は今、世界でたった一人の「エド」になった。
揺らめく松明の炎。
静寂は長くは続かず、辺りはすぐに形にならない激しい言葉の飛び交う荒野へと変貌した。
誰も彼もが腕を伸ばして俺の身体を鷲掴み、暴力的な質量が俺を背後へ引き戻そうと牙を剥く。視界は、顔を覆おうとする無骨な掌の隙間で細く、暗く、点滅した。だが、俺の焦点は微塵もブレなかった。それでも俺の目は、必死でウスマンを捕らえ続けた。
抵抗すればするほど、身体が引きちぎれそうな圧力がかかる。俺は歯を食いしばって、これでもかと机の縁に指を食い込ませた。
指先から嫌な音が骨に伝わる。爪が硬い木材をつんざき、ささくれが皮膚を裂いて潜り込んだ。
男たちの唸り声が地鳴りのように響き、いよいよ指が机から離れようとしたとき、ウスマンは言い放った。
「やめてやれ」
低く、しかし驚くほどよく通る声がした。決して厳しい言い方ではなかった。けれどその言葉は、暴動寸前の熱狂を雷のように駆け抜け、瞬く間に群衆を黙らせた。
ゆっくりと瞼を持ち上げたウスマンが言う。「———もう十分だ」
俺の身体を拘束していた十数人分の手が、一斉に離れた。
背中を、不器用な力で誰かが小突く。それが合図だった。俺は一歩、踏み出した。
乱れた髪を無造作に掻き上げ、呼吸を最短で整える。視線をウスマンへと戻す。
俺は冷え切った声でもう一度言った。
「———俺に、仕事をくれ。あんたたちが失った『三人分』の代わりを、俺一人でやってやる」
うねる波のようなどよめきが、群衆の端から端へと伝播していく。
スカベンジャーたちが肩を寄せ合い、俺の値打ちを測るような視線を投げつけてくる。ひそひそと交わされる噂話が、耳障りなノイズとなって空気に混じった。
ウスマンは少し口角を上げて言った。「聞いていたよりも威勢が良いな」そして、俺のことを下から上へ確認して続ける。「それに、思っていたより少し小さい」
ウスマンは固く組んでいた太い腕を解き、机に両手を突いた。
年季の入った木材が軋み、机上のロウソクが大きく揺らめく。彼は身を乗り出し、射抜くような鋭い視線で俺を固定した。
そして言う。「ここはウスマン一派。志をともにしたスカベンジャーが集う場所だ。ここではお前の外見や性別、歩んできた道のりは関係ない。今、ここにいる、お前自身が全てだ」ウスマンは肺いっぱいに熱い空気を吸い込み、野獣のように背中を膨らませた。「———エド、ここにいたかったら、自分が何者かを示せ。次の任務が試験の代わりだ」
「任務の内容は」俺は感情を排し、最短の言葉を返した。
「明日、俺達は星降りの砂漠を抜け、西の山岳地帯へと行く。エド、お前がここでやる最初の仕事だ。———気張ってけ」
俺は短く、深く頷いた。山岳地帯。地形、気温、酸素濃度。脳内の地図が瞬時に切り替わる。
「ダンカン」ウスマンが鋭く呼んだ。「コイツの面倒はお前のところで見てやれ。ジョーの穴埋めには、まだ足りないだろうがな」
大きな机を囲む大勢の人々。その一番内側に立っているスカベンジャーのうちの一人。一際体が大きい漆黒の肌で坊主頭の大男が、群衆を掻き分けて俺の方へ来て言った。
「俺の名前はダンカン。当分は俺がお前の面倒を見る。ついて来い」
余計な挨拶はなかった。ダンカンは再び群衆を割り、円の外へと歩き出した。
彼の大きな背中が通り過ぎた後には、波が裂けるように一本の道が残る。ダンカンは立ち止まることもなく、大きく手を振って吐き捨てた。
「ぐずぐずするな。早く来い、新入り」
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