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EP.2 バジールという男

リネンの生地に顔をうずめて、そっと、目を閉じた。

瞳の奥には何も映らなかった。胸の鼓動はゆっくりで、いつもと変わらず体中に血を送っている。

俺は拳をうっ血するほどの力で握りしめて、そして、体を起こした。


「今行く」




フードを深く被った男はたった一言”来い”とだけ言って歩き出した。俺とサウルは黙って彼に付いて行った。

行き先は知らない。この男が誰かも、俺たちには分からない。細身で無精髭を生やし穴の開いた靴を履いている、どこにでもいそうな男だった。


薄い雲では、空に浮かぶ大きな太陽を隠すことはできない。かんかん照りの日差しが大地に突き刺さり、人々の肌を焼く。だから、みんな全身を覆うローブを身にまとっていた。街を行きかう人々の間を通り抜けて、ひび割れた地面を踏みしめながら俺達は前へ進んだ。


「サウル、お前ちゃんと寝たのか」

「寝たと思うか」眉を上げてニヤつくサウル。

「眠れなくても、無理やり寝ろよ」

「寝たくないから寝ないんだよ、俺は。それに、物作りは最高に楽しいぞ。お前もやってみろ」

「けっこうだ」


街のどこかから、怒号が聴こえてくる。「おい、放しやがれ、その水は俺んだ」

「やめて、今はもう私のなの」


誰も気に留めない。気にする必要も、関わる義理もない。

日差しが眩しくて、俺はフードを深くした。


案内人にサウルが聞く。「あとどのくらいだ」

「もう少し」案内人はこちらを振り返らず、ただ、短く答えるだけだった。


騒がしい大通りを抜け、人数の少ない路地に入る。建物の陰に隠れて辺りは薄暗く、空気は少し冷えていた。溜まった腐臭と甘い香の香りが、鼻の奥を刺す。


家を失った者が、壁に身を寄せてひっそりと座り込んでいた。げっそりとやせ細った手には金属でできたパイプタバコ。甘い煙を吐き出しながら、焦点の合わない目で俺たちを見ていた。


案内人に迷う様子はない。一定の歩幅で、淡々と前へ進んでゆく。俺達はあれよあれよという間に、路地の奥へと入り込んでいった。


誰もいない路地。古びた黒い金属の扉の前で、案内人の足が止まる。壁の蛍光灯の灯りは消えかけて、ちかちかと点滅していた。虫の羽ばたきのような音が周囲に鳴り響く。


案内人がこちらを見て言う。「ここだ」


俺は一歩前へ出て、扉に右手をかけた。そして建物の中に入ろうとした。すると、案内人が俺の手を止めて、低い声で言う。


「お前はあとだ」そしてサウルを指さす。「お前だけ先に入れ」


俺とサウルは顔を見合わせた。

珍しいこともあったものだ。逆らう理由はとくにない。

サウルが頷いた。俺は右手を扉から静かに離し、足を一歩後ろへ引いた。


サウルが前へ出て、扉に手をかける。そして俺に言った。


「怖い顔してんじゃねえよ、ファーリス」


サウルは視線を切り、すぐに扉を開いた。彼が中に入り、扉から手が離れる。扉が閉まるときの金切り音が、最後まで妙に長く響いていた。俺と案内人だけが、薄暗い路地に残された。


扉の横の壁に寄りかかると、ひんやりとした感覚が背中に伝わってきた。腕を軽く組む。頭を壁に着けて、俺は少し上を向いた。目を瞑ると、古びた換気扇の音と消えかかった蛍光灯の音だけが耳に響く。


ふと、昔の記憶が蘇る。脇の毛すら生えていないガキだった頃の記憶。砂上船の甲板で浴びる、肌を焼くような熱い風。乾ききった砂の大地。散らばったガラスが星空の様に輝く砂漠。砂に埋もれたダンジョン。


ずっと昔、俺は一人で街の廃棄場を漁っていた。とても広い廃棄場で、ジャンク品が積み重なった高い山がいくつも連なっていた。その山を掘れば、時計でも通信機でもモニターでも、何だって出てくる。大抵は壊れていて全く使い物にならないわけだが。


俺の目当ては、古い砂上船の修理に使えそうな部品だった。廃棄場の隅で運よくオンボロの動かない砂上船を見つけた俺は、それ以来、来る日も来る日も廃棄場に通いつめ、少しずつ、部品を集めた。


正直なところ、砂上船の知識なんて全くない。一体全体、修理のためには何が必要なのかなんて俺には分からない。けれど、壊れた砂上船を見つけたことは俺の人生にとって千載一遇のチャンスだった。


砂上船はとても高価で、親も居なければ家もない俺にはとても買える代物じゃない。けれど、壊れた砂上船を直せば、俺は砂漠に出られる。砂漠に出れば、ダンジョンで遺物を拾い集めて金を稼ぐことが出来る。


だから、必死でジャンク品の山を漁って部品を集め続けた。気が付いた頃には、俺の隠れ家は大小さまざまなガラクタで溢れかえっていた。


「———見つけたっ」


今にも崩れそうなゴミの山から手を引き抜くと、傷だらけだけど頑丈そうなハンドルが出てきた。

ハンドルは長いこと探していた部品。目に映る景色が色を帯びて、くすんだジャンク品の山が少し輝いて見えた。そうして駆け回った。


その時、誰かが高い声で俺を呼んだ。「おい」


それは子供の声だった。俺は立ち止まり、辺りを見回した。声の主は続けて言う。


「お前、なんでそんなに嬉しそうにしてるんだ」


声の方向。ゴミ山の陰。見るとそこには、俺と同じくらいのガキが立っていて、こちらを睨んでいた。


ハンドルを背中に隠して言う。「関係ないだろ、どっか行け」


強い言い方をしたはずが、呼び声の主には全く響いていないようで、彼はゴミ山の陰から出て俺の方へ近づいてきた。そして言う。


「そうはいかないぞ。お前、毎日ここへ来てジャンク品を搔き集めてただろ」

「ずっと見てたのか、お前」

「そんなの問題じゃねえ」呼び声の主は俺の目の前で立ち止まった。


彼の黒い髪が風に揺れていた。吸い込まれそうなほど深い黒色の瞳をしていた。

彼はおもむろに俺の腕を掴んで、背中に隠していたハンドルを思いきり奪い取った。


「なにするんだ」と俺は叫んだ。

「このハンドルを何に使うつもりだ」

「だから、お前には関係ないだろ。早くそれを返せ」


取り返そうとした。必死で。けれどそれは無理だった。彼の身体はとても身軽で、軽々と俺をかわしてジャンク品の山に駆け上った。そして天辺から俺を見下ろして言う。


「お前、砂上船を作ろうとしてるんだろ」


少し驚いた。けれどすぐに恥ずかしくなって、俺は言い返した。


「なんでそう思う」

「ずっと見てたからわかる。お前が集めてた部品は、だいたい砂上船に使える部品だった」

「だいたいだと」

「何に使うつもりか分からない部品もあったが、だいたいは砂上船用の部品だった」

俺は少し唇を噛んで、そして言った。「本気で言っているのか」

「ああ」力強く迷いのない言い方だった。「砂上船修理場で働いていた俺が言うんだから間違いない」

「お前、砂上船を修理できるのか」

「当たり前だ」彼は腕を組んで言う。「このサウル様に直せない砂上船なんてない」


真っすぐな瞳をしていた。逆光で、彼の身体の輪郭がはっきりと浮かび上がる。

霧がかった道の先が僅かに見えたような、体を縛る鎖が少し緩んだような、そんな感じがした。

コイツを探していた。俺はもう止まらなかった。そして視線を上げて、胸を張り、俺は言った。


「お前は間違えている」

「何だと」

「俺は砂上船を作ろうとしているんじゃない。直そうとしているんだ」拳を握り一歩前へ出て、叫んだ。「頼む、俺の砂上船を直してくれ」


高い山の上で、彼は両手を腰に添えて大きく頷いた。

 



「おい」低い声が俺を呼ぶ。


目を開けて視線を下げ、横を見ると、フードの男が扉を開いてこちらを見ていた。


男は顎をしゃくって言う。「お前の番だ」


唾を飲み込み浅く息を吐いて、俺は小さく頷いた。

ゆっくりと扉をくぐると、建物の中に薄暗い廊下が続いていた。奥にまた扉がある。壁には蜘蛛の巣が張り巡らされ、どこかで生き物の足音が微かに混じる。

一歩踏み出すと背後から金切り音が聞こえて扉が閉まった。


足を進めるたび、靴底の音が廊下に跳ね返る。その反響が耳の奥を擦った。

どれほど歩いたのか分からない。俺は廊下の先の扉の前に立っていた。


身体の奥がいつもより早く脈打っていて、けれど気にするほどのことではなかったから、俺はおもむろに扉を開いた。


外の腐臭はもう感じない。暗い部屋の中心に一人で使うには大きい長机が置いてあって、机の上には綺麗に畳まれた服があった。その机の先にバジールが静かに座っていた。


後頭部で束ねた長い黒髪。額に巻いた白いバンダナ。顔を隠す銀色の仮面。

銀仮面は机の上のロウソクの火に照らされて、揺らめく緋色の光を反射していた。

バジールが手を前に出して言う。「かけたまえ」


俺は言われるがまま席に着いた。彼との距離は机一つ分なのに、ずいぶん離れているように感じた。


バジールが言う。「王陛下の下知が下された」銀仮面の内側で籠ったような湿り気のある声。素顔は一度も見たことがないが、声質からしておそらく男なのだろう。

「今回はずいぶん早いんだな」

「重要度な任務だ。失敗は決して許されない」銀仮面から覗く蛇のような瞳が、こちらを睨みつけた。そして続ける。「ウスマン一派へ潜入せよ」


俺は浅く首を傾げた。「潜入。———次は誰を殺せばいい」


バジールの肩が僅かに上下するのを俺の目は逃さなかった。「誰も殺さなくていい」

そう言うと彼はゆっくりと立ち上がり、俺に背を向けるように机に腰かけた。

そして言う。「この砂漠には古くから伝わる伝説がある」


首を振り、「伝説、そんなものに興味はない」と答えた。


バジールは少し上を見上げながら言う。「この砂漠の大地がまだ緑に覆われていたころ、太古の人々は大地のどこか奥深くに、海をも凌ぐ莫大な水を隠したという。なんの根拠もない取るに足らぬ伝承。だが、それが真実だったとしたら」


机の軋む、小さな音がした。ロウはまだ十分に残されていて、炎はゆらゆらと燃え盛っていた。


バジールは背中を背けたまま言った。「ウスマンは伝説へ一歩一歩確実に近づいていっている。王陛下は誰よりも先に伝説の真価を確かめることをお望みだ。貴様はウスマン一派に潜入して、伝説に関わる情報を密告せよ」

「なぜ俺たちが選ばれた。俺たちには殺ししかできない」


こちらに向いていた背中が動き、彼は立ち上がった。そして椅子を一つ俺の真横に持ってきた。わざと距離を詰めるように。逃げ場を消すみたいに。彼はその椅子に深々と座って言った。「スカベンジャーとしての経験を持つ冷徹な殺戮マシーン。それが貴様だ」


こんなに近くにいるのに、温かさがない。喋り方のせいか、声のせいか。

それとも———本当は人じゃないのか。そんな考えが、一瞬、頭をよぎる。


「だから俺とサウルが選ばれたってわけか」

「勘違いするな」銀仮面は俺の方を見ずに正面を向いたまま言う。「選ばれたのは貴様だけだ」


それはとても突き放すような言い方で、俺の心の平静はすぐに打ち砕かれた。


「どういうことだ」

バジールの銀仮面は微動だにせず、ただ正面を向いていた。

「何か問題でも。もとよりこの任務の定員は一名。本任務には貴様が最適だと判断したまでだ」

「サウルはどうなる」と俺は吐き捨てた。

「なに心配するな。———彼にはこれまで通り、人を殺してもらうまでだ」


鏡のような銀仮面の頬に映る俺の顔は半分がロウソクの灯りで照らされて、陰影がはっきりと浮かび上がっていた。バジールは決してこちらを見ず、淡々と説明を始めた。


「今夜、都の北西にあるウスマンの拠点へ行け。そのとき、この服を着ていくんだ」バジールは机の上に置かれた服を指さしてそう言った。


俺はその服を手に取った。服の生地には線状の盛り上がりがあって、どうやら中に管が通っているようだ。ターバンと真っ黒なゴーグル。間違えない。これはスカベンジャーの服だ。


バジールが続けて言う。「その服を着たら、貴様はもうファーリスではなくなる」僅かな間。俺は小さく頷いた。「貴様の名はエド。———その服の持ち主の名だ」


名前なんてどうでも良かった。自分の名前に思い入れなんてない。

ファーリスという名前は、なんとなく、昔誰かにそう呼ばれていた気がして、それで名乗っているだけだ。

———エド

新しい名前を受け入れるのに時間はかからなかった。


「もう少し、早く起きれば良かった」ゴーグルに映った自分の顔を見ながら、小さく、蛇口から雫が落ちるかのように、俺は呟いた。


バジールがゆっくりと腰を上げて言う。「早く着替えろ。着替えたら、すぐにここを発て。任務はもう、始まっている」


俺はもう、バジールの方を見なかった。バジールの足音だけが耳に響いて、部屋の扉が開き、そして閉まって、音が無くなった。静寂の中にいるはずなのに、心はちっとも静かじゃなくて、ただただ、早くこの場から離れたいという思いだけが、俺の中を渦巻いていた。


立ち上がり、服を脱いだ。体中に刻み込まれた傷。それは大小様々で、色も形も、一つとして被っていない。俺は息を大きく吸い込んで、すぐにスカベンジャーの服を着た。ぴっちりとした生地が、肌に張り付いた。


ターバンを頭に巻き、ゴーグルを首にかける。少し懐かしいような気もしたが、すぐにどうでも良くなった。ダンジョン探索用の道具がパンパンに詰まった大きなカバンを背負い、銃の紐を肩にかけて、そして振り返った。


扉をくぐり暗い廊下を進んで、もう一つの扉に手をかける。間髪入れずに扉を開き、俺は外に出た。サウルもバジールもフード男もいない。建物の外は相変わらず嫌な臭いがして、けれど俺はそれを大きく吸い込んで、歩きだした。北西、ウスマン一派の拠点へ向けて。

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