EP.1 生き残った者たち
とりとめもなく言葉が浮かび、乾いた砂が風もなく舞い散った。
『悲しい時は北の夜空を眺めなさい、北の夜空の一番星が、いつだって私達を希望へと導いてくれるから』
誰の言葉なんだろう。思い出すたび手から力が抜けて、頭の中の霧が少しだけ晴れる気がした。夜が来るたび、現れる。人を殺す夜はなおさらに。
血溜まりにたくさんの星が映っていて、北の夜空の一番星がいつにも増して輝いている。
こんな夜が、ずっと続いても良いような気がした。
でも、俺はもう子供じゃない。
いくら星に願いを唱えたところで、願いが叶うことはないと知っている。泥臭くもがかなければ、俺に明日は来ない。
「おい、おいっファーリス」サウルが声を殺して叫んだ。「ぼーっとしてんじゃねえよ、行くぞっ」彼の褐色の肌は、闇夜によく紛れる。サウルは腕をぶんと振り、屋敷の入口へと駆けだした。
血溜まりをサウルが踏みつけると、液面に映る星々がぐちゃぐちゃに掻き乱れた。
握っていたナイフを男の体から抜く。少し肉の切れる感じがして、傷口から噴き出した男の血が、俺の顔を酷く汚した。
そうして、立ち上がった。屋敷の壁に施された装飾が、月明かりに照らされて青白く輝いている。サウルの背中が、闇の向こうにあった。俺はそれを追って、大きな屋敷の中へと駆け込んだ。
暗闇が、俺達の姿を隠した。
耳の奥に響く心臓の鼓動。屋敷の中は暗く静まり返っていた。何も知らない住人たちは寝ているようだ。広い廊下に並ぶいくつもの立派な壺が、月明かりに照らされて輝いて、砂粒一つ落ちていない綺麗な床に反射する。夜の静かな風に乗り、ほのかに舞う香の匂い。
頭の中の地図を頼りに、俺とサウルは息をひそめて廊下を進んだ。
廊下の突き当りで壁から顔を覗かせると、槍を持った衛兵が一人、こちらに背を向けて歩いていた。
腰のナイフに手を掛けるサウル。
俺は首を横に振って、サウルの手を制止した。
足を一歩出す。雲が月をだんだんと隠してゆく。廊下の輪郭が消えた瞬間、俺は走り出した。
衛兵の背後に回るのに、時間はかからなかった。
左手で口を塞ぎ、右手のナイフで衛兵の首を掻き斬った。思ったよりも細い首。
衛兵の足を押さえるサウル。
衛兵は何か言おうとしたが、言葉にはならなかった。
しばらくして、抵抗が止んだ。体から力が抜けていくのがはっきりと分かった。
それは、どこか拍子抜けするほど静かな終わり方だった。
押さえていた足を放すサウル。俺はさッと立ち上がって、死体を抱き寄せた。それはまだ温かく、顔には血が通っていた。音が出ないように引きずり、大きな壺の裏に死体を隠す。手を離すと、まるで濡れた布のように、それは床に倒れた。
俺とサウルは先を急いだ。
寝室の窓が開いていた。薄いレース越しに、少女が一人、何も知らない様子で寝ているのが見えた。月明かりが彼女の無防備な寝顔を照らしている。枕元には、古びたぬいぐるみが一つ。商人の娘なのだろうか。きっと、悲しみなど知らないのだろう。
俺は視線を切り、その部屋を通り過ぎた。
標的である商人の部屋はすぐそこにあった。
扉の前には槍を持った衛兵が一人、退屈そうに足踏みをしながら、しかめっ面で立っていた。
俺はナイフに、そっと手を掛けた。冷たい柄が、指に張り付く。ナイフを抜くと、床に血が垂れた。鉄と生臭い血の匂いがする。
息をするたび、鼻の奥が刺される。
俺は姿勢を低くして、間髪入れずに突進した。
衛兵の驚く顔。まだ声は出ていない。鼓動の隙。俺の伸ばした切先が、矢のように飛び、衛兵の喉を突き刺した。
血の泡を吹き、倒れる衛兵。眉間にしわを寄せ、焦点の合わない彼の瞳には、確かに俺が映っていた。何度も、同じような目を見てきた。それだけのことだった。
男の手から離れる槍を俺が取り留め、サウルは男の体を拘束した。床はすぐに血で汚れて、男が動かなくなるのは早かった。
ナイフを握りしめ、真っ赤に染まった右手を構え直す。俺は静かに、左手を扉に添えた。
俺は確かにここにいる。けれど、ここにいるのは本当に自分なのだろうか。
そう思った。だが、すぐにどうでもよくなった。
俺はサウルに目配せして、最期の扉を開いた。
寝室の中心には、しわ一つない真っ白なシーツに包まれた巨大なベッドがあった。その横の椅子に座り、酒瓶を握りしめながらいびきをかく男がいた。大きな鼻と長い髪。確信した。この酒に酔って寝ている男こそ、俺が殺しに来た標的だ。
俺とサウルは、音を立てずに進み、酒臭い商人のすぐそばまで来た。
この男が何をしたのかは知らない。知りたくないし、知らなくても良い。俺みたいな庶民は、偉い奴の言う事に、ただ従っていれば良い。俺は、標的の首に、そっとナイフを突き立てた。
北の夜空の一番星に、何ができるというんだ。
俺は迷わず、標的の喉を刺した。
飛び散る血は、白いシーツを赤く染め、血塗れの商人は、声にならない唸りをあげていた。
男の瞳は、最後まで何も理解していないようだった。彼は、ただただ震えていた。
ナイフを抜くと、のどの穴から血が溢れて、泡の弾けるような音がした。
サウルが俺の肩に手を置いて言う。
「終わりだ、帰ろう」
俺は頷いて、静かに立ち上がり、そうして一息つく。
迂闊だった。
「お兄さんたち、ここでなにしてるの」
開けたままの扉の前に、さっきの少女がいた。
少女の着た肌理細かい麻の服が、ひらひらと揺れていた。
俺の服に付いた返り血が、ぽたぽたと垂れていた。
サウルは動かなかった。
一瞬の静寂。
薄いカーテンがひらりと揺らめく。
気付けば、俺は幼い女の子を刺し殺していた。
ナイフは、少女の薄い胸を貫いていた。小さな心臓の鼓動が、ナイフを通じて俺の手に伝わる。ナイフの震えは瞬く間に消え去り、少女は息を引き取った。
俺は、彼女の胸からナイフを引き抜いた。
軟らかい肉だった。俺はサウルを睨みつけて言う。
「サウル、気を抜くな」
サウルは言葉を発さず、ただ、小さく頷いた。
シーツを取って、ナイフを拭った。いつもより、念入りに、何度も。
そうしているうち、少女の白い絹の服が真っ赤に染まっていった。
「おい」耳元でサウルが言う。「撤収だ」
ナイフを収めると、部屋の中がひどく広く感じられた。
血の匂いが重く、空気が動かない。
「行くぞ」
サウルの声は低く、短かった。
俺は頷き、最後に一度だけ床を見た。真っ黒な床と、赤い血。そこに意味はなかったけれど、なぜか、目を逸らすことが出来なかった。
廊下に出て、速足でもと来た道を戻った。
窓の開いた寝室、薄いレースの向こうには、もう少女の姿はなかった。屋敷の中は相変わらず静かで、壺の影、柱の影、長い絨毯、どれもさっきと変わらない。けれど確かに、俺達の後には鉄臭い血の匂いが残っていた。
足音を殺して進む。遠くで誰かが寝返りを打った気配がした。木が軋む音。風に揺れる窓。
それだけで、誰も俺たちを追っては来なかった。
衛兵の屍が転がる庭を走り、屋敷の塀にたどり着いた。大人二人分くらいの高さの塀。
俺は壁の真下で両手を前に組み、足場を作った。サウルが勢いをつけて、俺の手に飛び掛かる。サウルの足が俺の手に掛かる瞬間、俺は勢いよく組んだ手を上に掲げた。サウルがそれに合わせて目一杯飛び跳ねて、塀の凹凸に掴まる。そうして塀にぶら下がったサウルの体を伝い、俺は塀の上へよじ登った。最後にサウルの手を掴み、上へ引き上げる。俺とサウルは、外に飛び降りた。
屋敷を出たとき、夜の空気が肺に流れ込んで、それは少し冷たかった。塀を一つ越えれば、そこはもう荒廃した街。いつも通り、俺はまた任務を遂行したんだ。終わってみれば、今回も完璧な仕事だった。東の空が少しだけ赤みがかっていた。
塀の下に脱ぎ捨てられた、二枚の薄汚れた羽織。ここに来る前、俺達が羽織っていた物だ。それを拾い上げ、一枚をサウルに手渡した。俺は服に付いた血を隠すように羽織を深く被り、紐をきつく締めた。そうして俺達は、荒れた街へと姿を眩ませた。
崩れかけた家の壁からは砂が吹き、路地には座り込む人影が。薄暗い道に漂う腐臭は、どこへ行っても消えはしない。道行く野犬はやせ細り、もはや空腹で人を襲うこともかなわない。誰もが腹を空かせ、瞳からは光を失っていた。
どこからか赤子の鳴き声が聞こえてくる。弱々しい鳴き声だった。この国では、生まれてくる子の数よりも、死にゆく子の数の方が多い。そこかしこに、飢えて死んだ者の死体が無造作に放置されている。
俺たちは、その中を黙って通り抜けた。
ぶっきらぼうに歩く俺の足に何かが当たった。コケッという鳴き声。見るとそこには鶏がいた。サウルが鶏小屋を指さして言う。
「あれ見ろ、鶏が卵産んでるぞ」
サウルは飛び跳ねるように鶏小屋へ近づき、おもむろに手を伸ばして、卵を二つ手に取った。
「ファーリス見ろよ、俺達ツイてるぜ」はしゃぎ顔のサウル。
俺は彼の手から卵を一つ掴み取って、また歩き始めた。
サウルが後ろから茶化すように言う。「おいおい、そんなに腹ペコだったのかよ。卵を見つけてやった俺に礼の一言くらいないのかい、ファーリスさんよ」
「使える井戸を見つけてきたら、褒めてやるよ」
「けっ、その卵返しやがれ、この恩知らずめ」
サウルは俺の背中に飛び掛かり、力尽くで卵を奪い返そうとした。
その時だった。
道の端に座り込むやせ細った少女が、俺の足を掴んだ。そうして細い声で言う。
「お腹が空いた、食べ物をちょうだい」
俺の足を掴む少女の腕は枯れ枝のように細く、頬の肉はそげて、骨の形が浮き出ていた。
彼女の暗い瞳がこちらを見る。少しの間のあと、サウルが卵を差し出しながら言った。
「仕方ねえな、それならこれを」
「待て」俺はサウルの手を止めた。「腹が減ってるのは俺達も同じだろ。中途半端に助けるくらいなら、自分で食べたほうがずっとましだ」
サウルは口をすぼめて、卵を持った手を引いた。そして静かに言う。
「やめた」
サウルは乾いた足音を立てながら、その場を後にした。サウルのゆらゆらと振れる背中が、遠ざかってゆく。少女の手を振り払おうとしたとき、彼女はまた同じことを言った。
「お腹が空いた、食べ物をちょうだい」
飢えの耐え難い苦しみから解放されたいのなら、死んでしまえばいい。それが一番の近道だ。けれど、皆がその道を選べるわけじゃない。運悪く生きながらえてしまった者は、更なる苦痛を味わうことになる。
———わかってる。
俺は運の悪かった側だ。もはや、自ら死を選ぶことすら出来ない。
それなのに、俺は握っていた卵を、少女の差し出した手の上に落してしまった。
手のひらで割れた卵からこぼれ落ちる身を必死ですする姿は、どこまでも弱々しく救いようのないものだった。少女が手を止めて、俺の顔をちらりと見る。彼女の瞳に淡い光が宿っているような気がして、けれどもそれは束の間のものだと知っていた俺は、眉をしかめて冷たく言い放った。
「見るな」
そうして視線を切り、浅く息を吐いて、再び歩き出した。
東の空の赤みが徐々に薄まり、暗い街に光が差してくる。
俺達は、丘へ続く細い道を登った。足元の石を踏みしめるたび、体の奥で鈍い痛みが返ってくる。
頂上に着いたとき、俺は深く息を吸った。細かい砂が混じっていて、とてもおいしいとは言えない空気だけれど、それでも、深呼吸をすると肩の荷が下りる。
高台からは国が一望できた。砂やガラクタを固めて作った無骨な家々が数多立ち並ぶ。家に使われている錆びついた鉄の部材が、鈍い光を放っていた。
国の中央に位置する王宮が、朝日で真っ赤に染まっている。
徐々に強まる南風。東の果てから日が昇り、西の果てでは星が消えかかっていた。
サウルが言った。「———終わったな」
俺はすぐには答えなかった。終わったのは、任務だけだ。
地平線の果てまで続く砂漠が、朝日に照らされてちらちらと輝いている。
風で砂が舞い散って、少しだけ世界がくすんでいた。
サウルは地面で卵を割り、一口で身を平らげた。ごくんと飲み込んでこちらを見る。
「ファーリス、卵どうしたんだよ」俺は朝日の方を眺めながら答えた。
「ここに来る途中で食った」
「ふっ、やっぱりお前、腹ペコだったんだな」サウルは急に腕を組み、物憂げな顔をしたあと、大きな声で言った。「そうだ、今度、バシールの野郎に鶏を分けてもらおうぜ。俺達の働きなら、それくらいの願いは聞いてくれるんじゃねえか」
「まあ、三羽くらいは貰っても良いかもな」
サウルは二ッと笑った。「だよな、帰ったら庭に鶏小屋を作るぞ」
彼の笑顔はどこかたどたどしくて、朝風に吹かれて消えてしまいそうだった。
西の果ての空には、もう星は浮かんでいなかった。
「俺は眠いから、寝てても良いか」
「何言ってんだよ、一緒に作るんだよ。一人だけ休もうとしてんじゃねえよ」
「はぁ、めんどくせぇな」
深い溜息をつくと、地面が微かに揺れ動いて、遠くから地鳴りが聞こえてきた。小さな砂の粒が小刻みに飛び跳ねている。地響きはやがて、楽器のような共鳴音に変わった。
俺は呟いた。「スカベンジャーの砂上船か」
音の発生源、国の北端から次々に、朝日に照らされながら、大小様々な砂上船が北の砂漠へと出航していた。継ぎはぎだらけの一際大きなマストが開き、屋根のソーラーパネルから眩い光を放ちながら、大きな砂上船もまた、砂漠へと向かってゆく。
サウルが立ち上がって言った。「今日はギルドの砂上船もいるんだな。こりゃ、スカベンジャーのやつら、今日は不漁になりそうだな」
「風が強くなってきた、帰ろう」俺はそう言って、サウルと共に丘を降りた。
家に帰って、早く寝よう。
何かを打ち付ける音がする。規則正しく、何度も、何度も。ぼんやりしていた音の輪郭が、徐々にはっきりとしてきた。
ああ、釘を打ち付ける音か。
サウルのやつ、本当に鶏小屋を作っているんだな。まだ、バジールから鶏を貰えると決まったわけじゃないのに。あいつは昔から変わらないな。
瞼を閉じていても、窓から入って来る日の光が、目を鋭く突き刺してきた。どのくらい寝ていたのかわからない。けれど、体はまだ寝ていたいようだ。リネンの生地が体を放さない。俺は体を反転させてうつ伏せになり、そっと息を吐いた。
「おーい、ファーリス、いつまで寝てるつもりだ」サウルの声はよく響く。「こっちに来て見てみろよ、良い鶏小屋が出来たぞ」
「うるさい、もう少し寝かせてくれ」
「寝すぎだぞ、シャキッとしろよ、シャキッと」俺が伸びをすると、サウルは再び言葉を放った。俺ではない誰かに。「何の用だ」
俺は目を開いた。空気が張り詰めるのを肌で感じた。庭にいるサウルの顔は、逆光で黒く塗りつぶされていた。
少しの間のあと、サウルが低い声で言う。「ファーリス、バジールからの呼び出しだ。早く起きろ」
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