7−6 解決の道筋
「ただね、紬。一番の問題は、実はそこじゃないんだよ」
パパの眼鏡の奥の瞳が鋭く光った気がした。リビングの掛け時計が静かに刻むカチ、カチという音が、やけに重々しく耳に響く。
「その怒鳴り込んできたという親が、わざわざ自分から『私は弁護士だ』と名乗ったことさ。紬、その騒ぎを起こした生徒の苗字は分かるかい?」
「えっと、七香の話だと、確か峰山だったかな……?」
パパはそう聴くと、手元のノートPCのキーボードを流れるようなタッチで操作し始めた。カタカタカタ、と静かなタイピング音がリビングの静寂を滑らかに塗り替えていく。青白い液晶の光がパパの真剣な横顔を捉えていた。
「やはりな。弁護士会の公式名簿に『峰山』の登録はあるが、所属は東京ではなく地方の弁護士会だ。それに、記載されている登録番号もちょっと若すぎるね。高校生の子供がいる親の年齢なら、実務経験的に少なくとも四十五歳以上でなければ不自然だからさ」
「ええっ!? じゃあ、あの『弁護士だぞ』ってセリフ、嘘ってこと?」
私は思わずソファから身を乗り出した。
「もちろん確定ではないが、店側を威圧するためのハッタリの可能性が極めて高い。自分の子供を守りたい一心か、あるいは学校側を威圧するためか……。どちらにせよ、ここで不用意に弁護士の盾を使うのは悪手だね。資格がないのに弁護士を名乗って相手を脅す行為は、それだけで軽犯罪法や弁護士法に直接触れる可能性があるんだよ」
「え? 『私は弁護士だ』って言うだけで、犯罪になっちゃうの?」
大人のつく嘘の生々しさに、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
「それくらい、社会における『弁護士』という肩書には強力な信用と威力が与えられているのさ。警察官を偽るのと同じでね、『官名詐称』という立派な犯罪行為さ。そしてね、仮に本物の弁護士だった場合だが、その場合は、プロとしてもっと深刻な事態になる。弁護士法違反や懲戒処分の対象だね」
「え? どういうこと? 本物の弁護士なのに、弁護士って名乗っちゃダメなの?」
「つまりね、弁護士という強力な特権は、正規の弁護士業務以外で使用してはならないという厳格な法律があるんだよ」
パパはそう言うと、冷めかけたコーヒーにそっと手を伸ばした。
「弁護士なのに、弁護士って名乗ってはいけないの? なんだか変なルール……」
「もちろん、通常の自己紹介などで『自分は弁護士です』と事実を伝えるのは何の問題もないさ。もっとも、本物の弁護士ほど、プライベートのトラブルで自分から好んでその肩書を名乗るような真似はしないものだけどね。名乗ったところで、デメリットや職務上の制約が増えるだけだからさ。しかし今回のように、自分の弁護士業務でもない身内のトラブルにおいて、相手をコントロールするために弁護士の威を借る行為は、脅迫罪や弁護士職務基本規定違反になる可能性が極めて高いんだ」
「本物なのに名乗ることでペナルティが出るなんて、なんだか窮屈だね……」
「それだけ、強力な権限を持つ強者には、重い責任が課せられるということさ。今回はその最たる例だね。親が余計なハッタリを噛ましたせいで、問題をより複雑な泥沼にしてしまっている」
パパはコーヒーを一口飲み、ふぅ、と小さくため息をついた。マグカップから立ち上るわずかな湯気が、パパの表情を少しだけ寂しげに曇らせる。
「店は生徒の迷惑行為に怒り、親は店の防犯カメラの対応に怒り、嘘の資格を使ってまで対抗しようとする。全員が自分の権利ばかりをヒステリックに主張して、肝心の『解決への道筋』を完全に見失っているんだ」
「解決への道筋……?」
「そう。みんな『自分の側の正論』を大声で主張しているだけなんだよ。セキュリティの概念でもね、十人集まれば、そこには十個の異なる『正論』が生まれる。主観で見ればどれも正しい。だから誰も自分の主張を止めない。……だがね紬、セキュリティの世界において、その十人全員のわがままな主張を満たすような完璧な正解など、存在しないんだよ」
「そうなの……?」
パパの口から飛び出した、どこか哲学的な重みを持つ言葉に、私は不思議そうに首を傾げた。
「例えばね、ある人が『重要なデータを守るために、絶対に破られない頑丈な金庫を地下深くに作りましょう』と主張する。物理セキュリティの観点では、これは完全に正しい正論だ」
「……うん、確かに泥棒に盗まれない安心な金庫だね」
「別の人が『金庫を簡単に開けられたら困るので、鍵を世界一複雑なものにしましょう』と主張する。技術セキュリティの観点でも、これも正しい正論だ」
「……そうだね。鍵がすぐに破られたら、地下に作った意味がないもんね」
「さらに別の人が『誰がアクセスしたか完全に監視記録が必要です。監視と厳重な警備員を配置しましょう』と主張する。管理セキュリティの観点でも、これも正しい正論だ」
パパはマグカップの縁をトントンと指の背で叩きながら、言葉を重ねる。
「……それもそうだね。誰がいつ来たか記録する必要もあるし、完璧で鉄壁のセキュリティシステムだね!」
「だがね紬、そうして出来上がった『セキュリティ上、世界一強固な金庫』はね、いざ使おうとすると手続きが面倒すぎて誰も利用しなくなり、結果として一番重要な機密書類が、各自の教室の机の引き出しにノーガードで放置される状態になると思わないかい?」
――あッ!!
パパの言わんとしている矛盾のロジックが、一瞬にして脳内でカチリと音を立てて閃いた。あまりの納得感に、私の思考回路の全ポートがパッと開くような、目から鱗が落ちる衝撃が走る。
正論を詰め込みすぎたシステムは、かえって破綻を招く。それはデジタルの世界も、人間の社会も全く一緒だ。
「だからこそ、どこかで現実的な妥協点を見つけて、許容できるリスクはあえて許容し、お互いの信頼でシステムを補う関係を作るのが、真のセキュリティの基本なんだよ」
「……それが、パパの言う『解決への道筋』ってこと?」
私は少し火照った顔で、パパの顔を見つめた。パパは大きく深く頷いた。
「セキュリティも法律も、本来は人と人が傷つけ合わずに、安心して暮らすために作られた防衛線のはずなんだ。それがいつの間にか、お互いを一方的に攻撃するための凶器になってしまっている。これじゃあ店も学校も、生徒も親も、誰も幸せにはなれないからね」
窓の外を見やると、いつの間にか夜の帳が東京の街を静かに包み込んでいた。お互いの「正論」という名の武器を一度下ろさなければ、この騒がしい日常のインシデントは決して鎮火しないのだ。
<つづく>




