7−5 監視カメラの掟
「なるほど。店舗に設置された防犯カメラの映像を、本人の許可なく第三者に開示したことが、個人情報保護法違反に該当するか、だな……」
その日の夜、静まり返ったリビング。私の持ってきた学校の話を聴き終えたパパは、怒るどころか、どこか楽しそうに手元の指を組んでみせた。
我が家のパパは、セキュリティの最前線で働く専門家だ。今まで数々の日常の謎をその圧倒的なセキュリティの知識で鮮やかに解決してきた、すっごく頼りになる存在。だけどその反面、ひとたび専門分野のスイッチが入ると、オタク特有の熱量で手が付けられないほど暴走し始める、ちょっと厄介な人でもある。
「ねえパパ、これって実際のところどうなの? 店長さんは何も悪意でやったわけじゃないし、お店で激しい営業妨害をした悪い生徒を特定するために学校に協力しただけでしょ? それでも法律違反になっちゃうの?」
「感情論としては店長側に同情するがね、法律の構造としては、非常にデリケートな境界線だね」
パパのトーンが、講義を始める時のように少しだけ低くなる。傍らに置いてあったタブレットの画面を滑らかにスワイプし、個人情報保護委員会の公式ガイドラインのページを表示させて私に向けた。液晶の青白い光が、夜の薄暗いリビングに浮かび上がる。
「いいかい、紬。特定の個人を動画や画像から識別できる情報は、立派な『個人情報』に該当する。画像から衣服のエンブレムや顔立ちが判別できればね。そして個人情報保護法の原則的な趣旨としては、特定の条件下を除き、『本人の同意を得ることなく、そのデータを第三者に提供してはならない』と厳格に定義されているんだよ」
「本人って……?」
「この場合だと、昨日そのファミレスのボックス席でスピーカーホン通話をして騒いでいた、その生徒二人だね」
「じゃあ、やっぱり店長さんが悪くなっちゃうの!? でもさ、そんな激怒して退店した迷惑客に対して、『すみません、学校に通報したいので防犯カメラの同意書にサインしてください』なんて、現実問題として絶対に取れるわけないじゃん!」
私が世の中の理不尽さに声を尖らせると、パパは苦笑しながら、お気に入りのマグカップから温かいコーヒーを一口含んだ。香ばしい豆の香りが、少しだけ私の尖った感情を和らげてくれる。
「もちろん、法律もそこまでマヌケではないさ。本人の同意を取得することが客観的に難しい場合、例外規定として認められる条件がいくつか存在する。……だがね、今回のファミレスの一件が、その例外を満たしているかというと、極めてグレーで難しい判断だと言わざるを得ないね。店側としては『威力業務妨害に対する正当防衛』を主張したいところだろうが、それが果たして、その場でデータを緊急開示しなければならないほどの『緊急性』や『生命の危機』があったかと言うと、そこまでの深刻ではない。警察への証拠提出ならともかく、民間組織である学校の教師に対して身元特定のために映像をそのまま見せてしまったのはね、少し脇が甘い。『プライバシーの不当な侵害だ』と突っ込まれたら、店舗側は法的に反論がかなり難しいだろうな」
「うわぁ……。じゃあ、逆ギレして怒鳴り込んできたその親の言い分の方が、法律上は有利になっちゃうんだ……」
七香から聞いた、店長さんのあの我慢の限界を迎えた悲しい目を思い出し、私は胸の奥がキュッと締め付けられるように切なくなった。正しいことをした人が、ルールの網の目に絡め取られて不利益を被るなんて、やっぱりどこかおかしい。
「社会の感情論としては本当に理不尽に思えるだろうがね、紬。もし仮に、今回のようなケースを『身元確認のためだから見せても良い』と緩めてしまうと、深刻な抜け穴が生まれてしまうんだよ」
「え? もっと深刻な問題って?」
「ちょっと視点を変えて、悪魔の代弁者として考えてみようか。今回は、身元がはっきりしている『学校の先生』が相手で、おそらく店舗側も制服などから、相手が本物の教師であることを検証できていた。だからこそ、映像を見せるという判断ができたんだろう?」
「うん、そうだね。学校の先生なんだから、悪い生徒の指導のためだし、見せても問題ないって判断したんだと思う」
「ではね、これがもし、教師ではなく『一般の人間』が店舗のカウンターにやってきて、同じ要求をしたらどうするか? 『さっきこの店内で、あの生徒二人組にカバンをぶつけられて中身を壊された被害者です。顔を確認して弁償させたいから、防犯カメラの映像を見せてください』と、悲痛な顔で訴えてきたとしたら?」
「それは……本当に迷惑を掛けられて実害が出ているなら、見せてあげても……」
「だがね、紬。店舗のスタッフには、その申告が『客観的事実』であるかどうかを証明する手段が何もないんだよ。その一般人が、本当に被害者なのか? あるいは、その女子高生のストーカーで、彼女たちの退店時間を特定して追跡しようとする犯罪者なのか、店舗側には見分ける手段がないんだ」
――ストーカーの……!?
パパの口から提示された冷徹な悪意のシナリオに、私はゾクッと背筋に冷たい悪寒が走った。
「その点、本物の警察官であれば、顔写真付きの警察手帳による厳格な身元認証があるし、何よりも『令状』や『捜査関係事項照会書』という正式な書面を持って要求してくる。これがあって初めて、個人情報保護法第十六条の『法令に基づく場合』という絶対的な例外が有効になるのさ」
「そっか……。一見すると親切で正当な目的に見えても、確認の手順をサボると、犯罪組織に悪用される抜け穴になっちゃうんだね……」
「その通り。悪意ある人間はね、いつだってシステムそのものより、システムを運用する『人の心』という一番脆い隙間を狙って、抜け穴を穿ってくるものだからね」
――抜け穴、か。
確かに、自分の知らないところで、知らない誰かに勝手に自分の行動映像を巻き戻されて観察されてるかもしれないって考えると……。法律がこれだけガチガチに厳しくデータを守っている理由が、今、すごくよく分かった気がするな。
冷めかけたコーヒーの表面を見つめながら、私は目に見えないデータの防衛線の重みを、静かに噛み締めていた。
<つづく>




