第29話 突破のための日々
それから、一年後――
「シン、少しは寝よう?」
音楽作業室でノアが声をかけた。
パソコンの光だけが、深夜の空間を照らしている。
ヘッドフォンを片耳だけ外したまま、
シンは画面にかじりついていた。
聞こえていないのか。
「シン!」
ノアは真正面に立ち、パン、と手を叩く。
「あ……ごめん」
ようやく、焦点が合う。
「一時過ぎても帰ってこないから……
このままここで倒れる気か?」
返事が、遅い。
ぼんやりとした目。
けれど、その奥だけが異様に冴えている。
シンは、何かに憑かれたように曲を書き続けていた。
神がかっている、と言っていいほどの勢いで。
「とりあえず今日は上で寝よう。
お前が元気に生きてないと、
やりたいこともできないぞ」
その言葉に、シンの目がわずかに揺れた。
「……そうだな。生きないと」
ぽつり、と落ちた言葉。
ノアの胸が締めつけられる。
シンは無意識に、右手で左手の小指に触れていた。
細いリングを、何度もなぞる。
癖になっている。
(ユキちゃんと連絡が取れてる。今はそれだけでありがたい)
ノアは心の中で呟く。
(俺がシンの身体を守るからね)
心の中で、ユキとミナコに誓った。
ユキと引き裂かれた直後のシンは、廃人のようだった。
食事も喉を通らず、痩せ細っていった。
毎日点滴をしながら、急かされて作った曲は
ユキへの思いで溢れていた。
そうしてできたアルバム『最果ての家に帰る』は、
異例のヒットを記録した。
それでも、元気も気力もなかったシンが……
ある日、収録から帰るなり夜中に無言で大量のご飯をかき込んだ。
そして言った。
「最高に面白い曲、もっと作りたい」
その瞬間、ノアは確信した。
――連絡が取れたんだ。
シンは意を結したように、音楽活動に没頭していた。
その後、出した曲が国内主要音楽賞を総なめ。
ドラマの世界配信ヒットに伴い、楽曲も海外チャートへ。
すぐにMUSEのアジアツアーが決まり、
日本全国を回るライブも重なった。
ダンスチューンは最小限に
ライブは歌い上げる楽曲を中心に構成された。
その合間に、次々と新曲を書き下ろす。
シンは海外トップアーティストとのコラボ曲や
映画音楽の依頼も入り、息をつく暇もなかった。
ライブ終わりの楽屋や
作業室の隅。
小さく、すすり泣く声が毎晩のように聞こえた。
翌朝、腫れた目で笑う。
それでもステージでは、完璧だった。
ノア自身も、スマホを替えさせられ、
ミナコと連絡を絶たれていた。
シンを見ていると、
自分の寂しさを口にすることもできなかった。
チケットだけは送ることができたけれど。
けれど、その後。
ミナコの職場へ手紙を送った。
連絡用のアドレスを書き添えて。
返事は、すぐに来た。
事情をすべて説明すると、
彼女は責めることなく、受け止めてくれた。
『ありがとう、ノア君。
ユキもね、シン君と連絡取れるようになって、
すごく充実した日々を過ごしてるよ』
その一文で、視界が滲んだ。
『本当に二人が仲良くてよかった。
僕たちも、ずっと応援してる』
『私たちも! 次のライブ、必ず行くね』
画面越しの優しさが、胸に沁みた。
守らなきゃいけない。
シンの身体も。
この音楽も。
そして――あの二人の未来も。
ノアは、そっと電気を落とした。
まだパソコンの画面を見つめているシンの背中を、
静かに見守りながら。
ある日、ニュースは突然舞い込んできた。
『日本映画、イタリア国際映画祭で快挙。
主演・飯島ユキらがレッドカーペットに――』
テレビの画面越し。
眩いフラッシュの渦中に、ユキがいた。
その様子を、シンは食い入るように見つめていた。
「録画……録画しないと」
震える声でリモコンを操作する。
画面の中の彼女が映るたび、シンは手で目を覆った。
喜びと共に、寂しさで泣いていたようだった。
一年前より、さらに削げ落ちた、
おじいちゃんのような細い背中。
骨が浮き出た指先。
俺は、黙ってその隣に腰を下ろした。
(しっかり見とけ、シン。
ユキちゃんも、戦ってる。
……お前と過ごすために、あんなに綺麗に笑ってるぞ)
画面の中のレッドカーペットは、
まるで二人の未来へと続く道のようだった。
―――――――
シンの通知音が鳴る。
ユキ:ツアー、日本に戻ったんだよね。少しは休めそう?
シン:うん。それより、イタリアの写真送ってよ。
すぐに届いたのは、夕暮れに染まる石畳と古い街並み。
ユキ:このあとレッドカーペットだよー。
シン:ドレス姿も送って。
ユキ:私もシンの顔、見たい。
数秒後。
お互いの笑顔の自撮りが、画面いっぱいに広がる。
それだけで、胸の奥がほどけた。
スマホをぎゅっと抱きしめる。
そして、それぞれの戦場へ向かった。
たった一秒。
でも、その一秒があれば、また戦える。
――そう思えた。
けれど。
会えない。
触れられない。
それだけのことが、
想像以上に、心を削った。
数万人の歓声を浴びた直後。
シンは、静まり返ったホテルの部屋で一人、
ユキからの写真を見つめていた。
涙が、音もなく落ちる。
同じ夜。
レッドカーペットを歩き終えたユキもまた、
ホテルのベッドに腰を下ろし、
送られてきたシンの写真を何度も拡大した。
「……会いたい」
呟いた瞬間、涙が止まらなくなった。
―――――――
映画祭帰りのユキが、
何事もない顔でミナコの家の扉を開けたとき。
「おかえり、ユキ!」
思わず玄関で抱きしめる。
「本当にすごいよ!」
サキも飛びついてきて、三人で笑いながら抱き合った。
「ただいま、ミナコ、サキ!」
野菜鍋を囲みながら、映画祭の話を聞く。
華やかな舞台裏。
世界中の監督や俳優たち。
でも。
ミナコはふと気づく。
ユキの瞼が腫れ。
目も、赤い。
(シン君に会いたいんだろうな)
映画は、現代社会の歪みを描いた切なく温かい物語。
貧しい暮らしの中で、人と支え合いながら生きる主人公。
世界中から、
“あの個性的な女優は誰だ?”
と絶賛された。
それなのに――
「よくその格好でここまで来れたね」
「四駅だし。ジャージならバレないよ」
「まさか世界的女優が電車に乗ってるなんて思わないでしょ?」
笑いながら鍋をつつく。
一時は、世界が終わったような顔で
痩せ細っていたユキ。
少し戻ったその笑顔が、ただ嬉しかった。
以前。
シンとのことを、二人にだけ打ち明けてくれた日がある。
「何か起きてからじゃ遅いと思って。
二人は一番信頼してるし、今までのお礼も言いたかった」
そう言って、全部話してくれた。
中指に光る指輪を見たとき、
心の底から安心した。
(本当によく頑張ったな。ユキも、シン君も)
それからのユキの快進撃は止まらなかった。
アート系映画の出演が増え、
名実ともに世界的実力派女優へ。
そして――
シンが手がけた映画音楽も
アカデミー賞を受賞した。
“アイドル”としか軽視されていた彼の快挙に、
国内の評価が一気に変わる。
(さらに大きな存在になってしまったんだな)
誇らしさと、少しの寂しさ。
ミナコは胸の奥でそっと呟く。
シンは作曲家として新たな道へ。
MUSEはベテランとして、
アイドル育成プロジェクトへと歩みを進めていく。
アーティストとして認められた彼らは
別のステージへ一段上がった。
それぞれが、
確実に、遠くへ進んでいた。
――それでも。
想いだけは、同じ場所に置いたまま。




